説教 「三つで一つ、一つで三つ!?」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 28:16-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

三位一体主日

聖霊降臨後の第一主日は三位一体主日として守られています。この主日は他の主日と違って、三位一体という教理を覚え、教会が父子聖霊の三一の神をあがめ礼拝する日として 世紀以降(1332年)に広く守られるようになってゆきました。典礼色は神の栄光を表す白。

もちろん、私たちが三位一体の神を礼拝するのはこの主日に限られるわけではありません。毎週の礼拝で私たちは三一の神を覚えて礼拝しています。三位一体主日が定められるのに千三百年の年月が必要であった背景にはそのような理由もありました。

三位一体主日は年間の教会暦の中でも一つの区切りとなっています。アドベントから始まりペンテコステに至るまでのこれまでの半年間がキリストの生涯に焦点を当てていたのに対し、三位一体後の半年間はキリストの教えに焦点を当てて組まれています。

本日は私たちにとって三位一体とは何を意味するのかということに焦点を当ててみ言葉を思い巡らせてゆきたいと思います。

聖名の中への洗礼

本日与えられている福音書の日課は、マタイ福音書の一番最後の「大宣教命令」と呼ばれている箇所です。主は弟子たちに言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章18ー20節)と。

実は、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉が記されているのは新約聖書の中でここだけなのです。この言葉は当時の洗礼式文に拠っていると考えられますが、この部分を正確に訳すと、「み名による洗礼」ではなくて「父と子と聖霊のみ名の中へと(入る)洗礼を授けなさい」となります。洗礼によって私たちは三位一体の神の名の中に導き入れられるというのです。ここで、み名の中に入る(into)とは、どのような意味なのか。そこでは私たちが三位一体をどう理解するかが大切なポイントとなります。

三位一体の教理はキリスト教の歴史において正統的な信仰と異端のそれとを分ける分水嶺の役割を果たしてきました。三位一体を否定するようになるとそれはもはやキリスト教の信仰ではなくなってしまいます。最初の三百年ほどをかけてキリスト教会は、様々な異端的教えと対決しながら、自らの依って立つ場所として三位一体の教理を確立してゆきました。その背後には血のにじむような努力があり、また実際に血が流されていったのです。

三つで一つ、一つで三つ!?

三位一体については皆、頭を悩ませます。父なる神、み子なる神、聖霊なる神がいる。しかし、神は三人おられるわけではなく、神は唯一である。私たちは唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめ礼拝するのです。

三つで一つ、一つで三つ  論理的にはこれは私たちの理解を超えています。これを私たちはどのように理解してゆけばよいのでしょうか。

(1) あるカトリック神父は公教要理(授洗準備会)の中で必ず「三位一体について説明しなさい」という試験をするそうです。そして洗礼志願者が「分かりません」と答えると「正解」とするとのことでした。人間には分からない神の神秘を私たちが頭で分かり切ろうとすること自体、誤った態度であるということなのでしょうか。

(2) また、ある先輩のルーテル教会の牧師は「三位一体とかけて、うな丼と解く」と言いました。その心は? 「うな丼ではうなぎとご飯とタレとが三位一体だから。」 「山椒」はどうなるのでしょうか。ユーモラスな説明ですが、最初から説明するのを投げているようにも思えます。私たちは「知解を求める信仰」(アンセルムス)を与えられているのですから、理性においても信仰をより深く理解することを求めたいのです。

私自身はいくつかの説明をしてきました。言葉化できない神の神秘的な現実を言葉で説明しようとするのですから無理は承知の上です。どれでも自分が理解しやすいものを心に留めていただければと思います。

(3) 私は、私の子どもから見れば父親であり、私の親から見れば子供であり、妻から見れば配偶者(夫)である。私という一人の人間の中に「父」と「子」と「夫」という三つの役割が同時に存在している。三位一体もこれと同じである。何となく分かったような分からないような説明の仕方です。

(4) また、こうも説明できましょう。三位一体を水(水 H2○)と同じように考えればよいという説明です。水はふつう液体ですが、温度が下がって〇度以下になれば固体(氷)にもなるし、逆に温度が上がって百度以上になれば気体(水蒸気)にもなります。水はH2○という本質は変えないまま、気体、液体、固体と三つの姿を取る。三位一体もそのように考えればよいのではないかというのです。これはなかなか説得力があります。

河野悦子さんはさらにこう付け加えてくださいました。液体だったら固体が入らない隙間にも入ってゆくことができる。気体だったらもっと小さなところにも入れる。神さまはそれと同じく、どのようなところにもご自身の愛をくまなく注ぐためにそのような姿を取られているのではないか、と。なかなか心に残る解釈です。

(5) また、理系のお仕事をされてきた高橋光男さんはこう語ってくださいました。「三位一体ということは私には光のことを考えてみるとよく分かる。光には同時に相反する二つの性質、つまり粒子としての性質と波としての性質が備わっている。三位一体もそのように理解できる」と。なるほどと思いました。

(6) 最近『本の広場』という小雑誌に載っていた言葉も心に残りました。本田峰子さんという方(二松学舎大学教授)がCSルイスの『奇跡』という本との出会いを語っておられた。

「ここには、キリスト教の超自然的奇跡の教義を信じることの合理性が、人間理性の超自然性からの論理的推論と、想像力を用いた譬えとで、簡明かつ印象的に示してありました」と氏は語ります。ルイスは三位一体を立方体にたとえて説明しているそうです。立方体は二次元では六つの正方形でありながら、三次元のレベルでは一つの立方体である。それと同様、三次元では神は三つの位格ー父と子と聖霊ーだが、より高次の神の実在のレベルでは、三位でありながらなお一体であっても不思議はない。本田氏は続けます。「この推論は、三つならば一つではあり得ないという論理が、実は平面図形的思考に過ぎないことを示し、人間の思考の限界を実感させ、神の秘義に対する私の知的抵抗を取り除いたのです。」 ルイスとの出会いによって一つの突破が起こったのです。

母の抱擁におけるキリスト

(7) しかし私自身は、三位一体において一番大切なことは、神がご自身の愛を何とかして私たちに伝えようと強く願っておられるということではないかと思います。聖書で「三」とは完全数です。父と子と聖霊という三位において神は私たちを徹底的に愛し抜いておられる。あるいは、その三位の一体としての強い結びつきの中にこそ神の愛が示されていると申し上げることもできましょうか。

先週のペンテコステの礼拝後に祝会を持ちました。イースターとペンテコステに受洗された人、転入された人の歓迎のお祝いをしたのです。その時、イースターに受洗された今村芙美子さんがご自分のお母様のお話をしてくださいました。それはこういう話でした。自分は生まれたときから咽喉に障害があってうまく言葉を発声することができなかった。手術を二度ほど受けたがうまくいかなかった。13歳の時に自分の声をテープで聞いて愕然とされたそうです。それである時、自分の中にあるありったけの思いを母親にぶつけた。母は黙ってそれを聞いていて最後に自分を力いっぱい抱きしめてくれた。10年前にお母様が亡くなられた時に、今村さんはその時のことを思い出して、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝ったとのことでした。そして今村さんはこう語られたのです。「自分にとっては母親がキリストだった」と。

私はむさしのだよりの五月号に『母の胎』という巻頭言を書いたばかりでしたのでハッといたしました。注意深く言わなければなりませんが、思うに、今村さんにとってはお母さまの強い抱擁の中に確かにキリストが臨在されていたのです。苦難の中で真実の愛が示されるところにはどこでもキリストがおられる。キリストは私たち人間の苦難を共に背負い、支えてくださるお方だからです。このように、苦難を共にする中で自分をしっかりと抱き留めてくれる存在を知る者は幸いであると言わなければなりません。

私はこう思います。三位一体とはそのような神さまの私たちに対する抱擁を意味しているのではないかと。それは神さまの愛(抱擁)の強さを表し、またその愛の高さ、深さ、広さを表しているのではないか。天という高いところにいます父なる神がこの地上にみ子なる神として降り立ってくださった。その最も闇の深い場所は十字架です。み子なる神は死んで葬られ、黄泉にまで降られた。それは一ペトロ3章 節によれば、死んでいた者たちにも福音を宣べ伝えるためだったとあります。そして聖霊なる神は私たちを神の愛を全世界という広がりの中で宣べ伝えてゆくように押し出してゆくのです。神はその愛を私たちに豊かに注がれている。三位一体の教理とはそのように、何とかして人間を救おうとする神の熱い愛を伝えているように思えてなりません。私たちはそのような理解を持つときに正しく信じていることになるのではないでしょうか。

神の愛を宣教する教会

マタイ福音書の最後にある「父と子と聖霊(すなわち三位一体の神)のみ名の中へと洗礼する」という言葉は、洗礼を授ける者も授かる者も共に神の限りない愛の中に入ってゆくということを意味しましょう。洗礼を通して私たちは神の豊かな愛に与かってゆくのです。

私たちは、主イエスがお持ちになっていた天と地の一切の権能のもとで、神の権能のもとで三位一体の神の名において洗礼を授けるために派遣されてゆくのです。「神の愛をどこまでも深く、どこまでも広く、どこまでも高らかに宣べ伝えてゆきなさい。苦しむ者、悲しむ者、大きな壁にぶつかって行き詰まっている者、病いや死の床にある者、不安や絶望や恐れの中にある者たちは、あなたを通して届けられる神の言葉を聴いて慰められ、癒され、支えられ、励まされ、守られ、導かれ、希望を与えられてゆくのだ」というのです。

お見舞いのカードや手紙や電話やお花や訪問や、場合によっては緊急洗礼という手段を通してでも、神の憐れみの深さ、恵みと愛の大きさに人々が触れてゆくように私たちは招かれています。私たち自身もそのためには、ある時は水のままで、またある時には水蒸気になったりある時には氷になったりしながら、変幻自在に神さまの大いなる愛を隣人へと伝えてゆきたいと思います。

三位一体の神の愛が私たちに豊かに注がれますように。そして私たちを喜びのうちにこの現実の世界に向かって押し出してゆきますようにお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 5月26日 三位一体主日礼拝 説教)