説教「その日、その時に備える」 大柴譲治牧師

マタイによる福音書 25:1-13

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「時間の神さま」

ギリシャの諺です。「時間の神さまは後ろ髪しかない。だから通り過ぎないとつかめない」。確かに時間というものは通り過ぎないとつかめないもののようです。時間が経って結果が出たところから私たちは過去を振り返ると、「あの時ああすればよかった。こうしなければよかった」という悔いが残ることがある。しかし、それは結果が出た時点から振り返ってみて初めて言えることであって、(まだ結果の出ていない)その時にはこれからどうなってゆくのか全く分からないのですから、精一杯考えて、祈るような気持ちの中で決断し、よかれと思ってやるしかないのです。

もっとも、ギリシャにはもう一つ別の諺もあるそうです。「チャンスの神さまは前髪しかない。通り過ぎたらつかめない」。どちらもなるほどと思わされます。時間というものは通り過ぎても通り過ぎなくても把捉することの難しいものではないか。「一期一会」という茶の湯の言葉にあるように、今というこの時を悔いのないように大切に過ごす以外にはないのだと、そのように思われます。

「その日、その時に備える」

本日の福音書の日課にはイエスさまによって一つのたとえが語られています。「十人のおとめ」のたとえです。

ユダヤ教では結婚式は夜行われたようです。映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』の中にも、夜の闇の中に結婚式の行列の先頭に花婿が立って花嫁のところを訪ねる場面が描かれていました。そのような花婿の行列が遅れたのです。賢明な5人はともしびを長時間灯し続けることができるように予備の油を備えていたために花婿の到着が遅れても大丈夫でした。しかし、愚かな5人は準備ができていなかったために肝心な時を逃してしまった。要点は13節の「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という言葉にあります。いつその時が来るか分からない。だからいつその時が来てもよいように準備を整えておきなさいというのです。

「目を覚ましている」とは「眠らない」ということとは違うでしょう。賢いおとめたちも眠りながら待っていたのですから。それは、起きている時にも寝ている時にも、常にその日その時に備えて準備をしておくということが大切だという意味でありましょう。人間にはしかしその日、その時がいつ来るのか予めは分かりません。「時間の神さまには後ろ髪しかない」というギリシャのことわざの通りです。しかし、いつその日、その時が来ても良いように、普段から準備をしておくということが大切なのです。

「一期一会」「脚下照顧」

私自身にとっては、昨夏三ヶ月、米国カリフォルニア州サンディエゴのホスピスでの研修を通してこれまで以上に明確になったことがあります。それは、報告会でもお話したことですが、最初にも少し触れましたが、死に備えるということで「一期一会の今を大切にする」ということです。

「一期一会」とは茶の湯の言葉で、皆さんご承知の通りです。「目の前に座っている客人との出会いは生涯にただ一度限りのものかもしれない。だから悔いのないように心をこめてもてなせ」という意味の言葉です。英語では”One moment, one encounter”ですが、意訳するとこうなります。”Treasure every moment, for it will never recur.”「瞬間瞬間を宝物のようにせよ。なぜならそれは二度と戻ってこないのだから。」 いい言葉ですね。

イエス・キリストを信じる信仰の立場から言えば、一期一会というところにはさらに深い意味が出てくるのだと思います。禅の言葉には「脚下照顧」という言葉があります。「自分自身の足もとを照らして省みよ」という意味の言葉です。どこか遠いところに幸せの青い鳥を探すのではなく、自分自身に与えられているものの中に、極めて身近なところに青い鳥は既に与えられているのです。あたりまえだと思っていることが実はあたりまえではなく、大きな恵みであるということに気づかされるのです。

キリストが再臨する「その日、その時」とはいつのことか。私は、それは「今、この瞬間」のことを抜きにしてはないのだと思います。今、この一瞬一瞬こそが終わりの時であり、灯火を灯して、花婿キリストを迎えるべき時なのです。パウロもこう語っています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:1-2)。

主イエス・キリストと出会うということ、キリストに捉えられるということは、今、この時が、恵みの時であり、今日が神の救いの日であることを知るということです。

「光の体験」

先週の前半、三ヶ月の耐震補強工事が終わって、ホッとしたのだと思います。緊張が解除されて疲れが出たのでしょう。身体が重く、何もしたくなくなるというような日々が続きました。毛細血管が少し切れたようで、ある日右目に飛蚊症が出たために眼科に行って検査をしてもらいました。5年半前の網膜剥離の体験が再現されるのかと一瞬焦りましたが、「大丈夫です。穴は空いていません。おそらく疲れが出たのでしょう」とお医者さんに言われてホッとしました。

眼底検査を経験された方はお分かりになると思いますが、目薬を差されてしばらくすると、すべては輝いてくるのです。瞳孔が開くためです。まぶしくて目を開けていられなくなります。その時に私はハッと気づかされました。柳田邦夫が「光の体験」と呼ぶ、ガンの告知を受けた人などがすべてが輝いて見えるという体験は、実は瞳孔が開くことだと分かったのです。

例えばガンのため32歳で生涯を閉じられた青年医師・井村和清さんは、再発(肺への転移)を告知された時のことをこう書いていました。「その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いてみえる。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほどに尊くみえました。」(『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』)

この「光の体験」とは瞳孔が開くということなのです。調べてみますと、瞳孔は自律神経の影響により大きさが変わることがわかっています。心拍数や脈拍があがるなど体が「興奮する」状態になる時、交感神経が活性化されて、瞳孔が大きくなるということです。たとえば、ネコが獲物に飛びつくときに脳が興奮し、瞳孔が自律的(意志的でなく)に大きくなったり、赤ちゃんが自分のお母さんを見たときにも瞳孔が開くのだそうです。

恵みの光の中で

では、井村和清さんがガンの再発の告知を受けた時にすべてが輝いて見えたということは、再発を知ったショックで交感神経が活性化し、瞳孔が開いたと説明されるべきなのか。そうかもしれません。しかし私はそれだけではないと思います。彼は医者でしたから冷静に自分の状態が分かっていた。来るものが来たという静かな気持ちで受け止めたのだと思います。驚きのために瞳孔が開いたのではない。彼は若い頃に教会に通って洗礼を受けています。キリストと出会った人は、自分が静かな恵みの光に包まれているということを知るのだと思います。井村医師はすべてを失ったと感じた時、自分を照らす神の恵みの光に気づかされたのです。

私たちが神さまによって生かされているということを感じる時、人生が文字通り神秘に充ちていて wonder-full(驚きが一杯)であるということに気づく時、生かされているということのかけがえのなさ、不思議さに涙こぼれるような思いにさせられる。そこから、私たちの交感神経が刺激を受けて自律的に瞳孔が開き、すべての生活の場面が平安と感謝の中で輝くのではないか。私にはそう思えてならないのです。

実は、その日、その時に備える、終わりの日に備えるというのは、私たちの人生の一瞬一瞬に注がれている永遠からの祝福を認めるということでありましょう。信仰とは、ヘブル書11:1が言うように、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」なのです。自分がそのような光の中に置かれていること、その事実に気づくことが油を準備して待つということなのではないか。私にはそう思われてならない。そのような光が私たちの人生を包んでいることを深く味わいたいと思います。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」! そのような歩みの日々をご一緒に新しい一週間も重ねてまいりましょう。

お一人お一人の上に豐かな祝福がありますようにお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年11月13日 聖霊降臨後第26主日礼拝)