説教 「幼な子のようになるということ」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 18: 1-14

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

主題「幼子のようになるということ」

本日の主題は説教題にもあるように「幼子のようになるということ」ということで、特に福音書の日課の一番最初の部分、マタイ18:1-5に焦点を当ててみ言葉に思いを巡らしてゆきたいと思います。

誰が一番偉いか

弟子たちは主イエスに問い掛けました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。そこで主は一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

誰が一番偉いのか。これが弟子たちにとっては一番の関心事でした。大人はそのようなことばかり考えてしまうのです。弟子たちも互いに競争心が強かった。誰が一番弟子か、一番偉いかを繰り返し議論していました(マタイ20:25、23:11、マルコ9:34)。そのような弟子たちの心を主イエスははっきりと見抜いておられました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」というのは、誰が一番偉いかという順番争いばかりをしているうちはまだ天国に入ることはできないということでありましょう。弟子たちは心を入れ替える必要があるのです。

幼子を弟子たちの真ん中に立たせたということはたいへんに具体的な行為です。何歳ぐらいの幼子かは書かれていません。二~三歳ぐらいだとすれば本当に小さな幼子ということになります。四~五歳ぐらいだと幼稚園ぐらいですね。いずれにしてもその子どもの背はそれほど高くなかった。大人の真ん中に立たされた幼子は下から大人たちを見上げていたはずです。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」というイエスさまの言葉は、視点を低くするように弟子たちに求めている言葉です。

視点を変えてみるということ

私は時折、目の高さを変えてみることにしています。するとずいぶんと世界が違って見えるのです。そしてそのことによって少し謙遜な気持ちにさせられます。あるいは子どもを私の目の高さまで持ち上げてみることもあります。私などは同世代の日本人の中では大柄の方ですから、この世界を高いところから見下ろしていることになります。子どもたちは低いところから見上げているのです。

視点を変えてみると、少し変えただけで世界がずいぶん違って見えてきます。カトリック教会など礼拝の中でひざまずく教会もあります。それもそこに集う者の謙遜な思いを表しているのです。映画などでも時折出てきますが、修道院では床に腹ばいに突っ伏して祈るということもあったようです。一番低い姿勢を取るのです。ローマ教皇などは外国に降り立つとまず地面に接吻をします。それは愛と尊敬を表すと共に、謙遜と和解の姿勢をも示しています。

視点を低いところに置くということ。これはとても大切です。引退された宣教師のデール先生やキスラー先生は、たとえば車イスの人とお話しされるときは腰をかがめて、ある時には片ひざをついて、同じ目の高さで向かい合おうとされていたことを私は思い起こします。私自身もできる限りそのような姿勢を見習いたいものだと神学生の時に強く思わされたことがありました。

なぜそれが大切なのか。それはイエスさまご自身が一番低いところに降り立ってくださったからです。神と等しくあられたお方が人の姿を取り、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで神のみ心に従順に歩かれたのです。フィリピ書2章の有名な「キリスト讃歌」にある通りです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:6-9)。

視点(視座)を変えてみるということは私たちに意外に大切な気づきを与えてくれます。考えれば、旅に出るというのも日常生活をもう一度別の角度から点検するためであるのかもしれません。旅人の視点から見てみるのです。日曜日にこの教会に集い、礼拝を守るということも、普段の日常的な視点を非日常的な視点へと置き換えてみるということなのかもしれません。そうすることで気づかなかったこと、今まで見えなかったことが見えてくるのです。そうすると人生がより高さや幅、奥行きや深みが分かってきて味わい深くなってゆくのだろうと思います。神さまの視点、キリストの視点から世界や自分自身を見るとどうなるのかということが私たちが礼拝に集ったり、聖書研究や様々な集会に集ったりする中で与えられる視点なのではないかと思います。

三つの視点~「外から」「下から」「終わりから」

私自身は信仰者として大切な視点に三つあると考えています。これは信仰を通してしか与えられない視点でもありましょう。第一は「外からの視点」、第二は「下からの視点」、そして第三は「終わりからの視点」です。それは「受肉」と「十字架」と「復活」という最大の奇跡に対応しています。

第一の視点について。神の「受肉」とは難しい言い方ですが、神が肉体を取って人となったということ、クリスマスの出来事を指しています。創造主なるお方が被造物である人となられた。先のフィリピ書2章にもありましたが、これはとても不思議なことです。永遠なるお方が有限なる存在となられたのです。中世では「有限は無限を内包することができるか」という議論もありました。ちなみにルターは、「神が人となられたのだから有限は無限を含みうる」と語っています。

そのように第一の「外からの視点」というのは神が人となられた受肉に対応していますが、私たちは信仰を通して事柄を外から見る視点を与えられるのです。もっと言えば、神の側から事柄を見てゆく視点、神の視点が与えられるとも申し上げることができましょう。私たちはこの世においては寄留者であり、旅人であるという言い方が聖書には出てきます(ヘブル11:13、1ペトロ2:11)。私たちはこの世を通り過ぎてゆく存在であり、仮住まいの身なのです。イスラエルの民が荒野において約束の地を目指して40年間旅を続けなければならなかったように、私たちは天の故郷、天のエルサレムを目指してこの世の旅、人生の旅路を巡礼者として歩んでゆくのです。外からの視点は「神の視点」だと申しあげましたが、もっと身近な言い方をするならばそれは「旅人の視点」、「巡礼者の視点」と言ってもよいでしょう。そのように私たちは外からの視点を大切にするよう召されています。それは「受肉の視点」でもあります。

第二の「下からの視点」とは「キリストの十字架」に対応する視点で、本日の「幼子のようにならなければ」というみ言葉にもつながっている視点なのですが、み子なる神が私たち人間の現実の一番低いところに降り立ってくださったという事実に基づいています。十字架とは確かにそのような出来事です。最も無力で、最も慘めで、恥多く、最も低き姿で平和の君なる主イエスが十字架にかかってくださった。それは主が「最も小さき者の一人」と数えられるためでした。主イエスは悲しみや痛み、絶望のどん底にある者と共にあるインマヌエルの神であり、同伴者なのです。主は最も小さい者、低きに置かれた者の立場からすべてを捉えてくださるのです。私たちにはそのような「下からの視点」、「最も小さき者からの視点」「十字架からの視点」を与えられているのです。

第三の「終わりからの視点」というのは「復活」に対応しています。復活とは「死の死」を意味します。それはキリストが死に対して勝利したこと、私たちの最後の敵である死がキリストの命によって滅び去ったということを意味します。しかしながら、そのよみがえりの命、永遠の命に私たちは既に与っているわけですが、それが私たちに完全なものとして備えられるのは終わりの日まで待たなければなりません。聖餐式は終わりの日の勝利の祝宴の先取りです。私たちはそのように「終わりからの視点」を与えられています。

これに関して私は忘れられない体験があります。今から10数年前、私が神学校を卒業し福山教会の牧師として着任して二三年経った頃でした。当時西教区には常置委員会として「平和と核兵器廃絶を求める委員会」があり、私もそのメンバーとして任命されたのです。それは私の前任者、現在は聖パウロ教会の牧師の松木傑先生が始められた働きでした。1986年春にはヒロシマ国際平和セミナーを開きましたし、毎年5月の連休にはヒロシマ平和セミナーを開催しました。ある年、外国人登録証への指紋押捺に関して反対運動を展開している在日大韓キリスト教会の牧師・李根秀(イ・グンス)先生(木下牧師夫人の弟さん)をお招きしてお話を伺った時のことです。イ・グンス先生ははっきりと最初にこう言われたのが私の心に鋭く突き刺さりました。「私たちは既にこの運動において勝っています。この指紋押捺に反対する闘いはもう最初から勝利の決している闘いなのです。終わりの日にはその勝利は完全なかたちで明らかにされるわけですが、今はまだそれがはっきりと見えていないだけなのです。」この言葉は私にとっては天啓のように響きました。最初から勝利している!どのような困難の中にあっても、その終わりの日の勝利から今を見直してみる。これが「終わりからの視点」なのです。

幼な子のようになるということ~下からの、低みからの視点

外からの視点、下からの視点、終わりからの視点の三つの視点が大切だということを申し上げました。本日はその中でも「幼な子のようになる」ということから下からの視点、低いところからの視点というものが強調されています。

人間は人より上に立とう、偉くなろうとします。弟子たちもまた誰が一番偉いのか繰り返し議論をし続けました。一番弟子は誰か。終わりの日にキリストの右と左に座るのは誰か。向上心があることは決して悪いことではないでしょう。しかしそのことによってもっと大切な事柄を見失ってしまうとすれば、それはやはり誤っていると言わなければなりません。もっと大切なものとは何か。それは愛です。一つひとつの生命や一人ひとりの存在Beingを大切にすることです。心と心が通じ合うことです。そして何よりも大切なことはまず神の国と神の義を求めること、すなわち、神が私たち一人ひとりを独り子を賜るほどにトコトン愛してくださっているということを知ることです。「わたしの目にあなたは価高?ュ、尊く、わたしはあなたを愛している」とイザヤ書43:4にはある。そして神の豊かな愛は私たちをありのままで愛してくださる愛です。最も小さき者の一人、低き者の一人、幼な子の一人をも限りなく大切にしてくださる愛です。

そしてそのような愛の大切さが本日の日課の三つの部分で共に語られているのだと思います。たいへんに厳しく響く6節から9節の「罪への誘惑」の部分にも10節以降の「迷い出た羊のたとえ」の部分にも、小さな者に対する神の限りなく深い愛が宣言されていると私は読みたいのです。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」小さな者に対する優先的な神の恵みの選びがある。そのことは私たちにとっても大きな慰めであり、喜びであると思います。

お彼岸ということで愛する者のお墓参りをされた方もおられるでしょう。死を迎えた者はそこにおいて幼な子のような心ですべてを神さまの御手に委ねてゆかれたのだと思います。狭き門から入るためには低くならなければならない。私たちが愛する者において思い起こすのもそのような人間的な低さなのです。偉さではなくてその人の愛の深さなのです。幼な子は二つの点で大人に優っています。第一点は謙遜さ、無力さにおいて。第二点は自分を愛してくれる親への信頼度において優れていると言える。私たちもまた幼な子のようなひとすじの信頼をもってイエスさまのみ後に従って参りたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますようにお祈りします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年9月22日 聖霊降臨後第18主日礼拝説教)