説教 「隠された光」 大柴譲治牧師

出エジプト34:29-35 / マタイによる福音書 17:1-9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「体のともし火」としての目

顔の表情というものには実に深い味わいがあります。一人ひとりが個性的ですし、陰翳に富んでいる。特に赤ちゃんや子どもの表情は柔らかくすばらしいと思います。心がそのままその表情に表われている。私たちも幼い頃には泣いたり笑ったり怒ったり、多分に変幻自在でありました。しかし大人になるにつれ、それは人生の苦労を知るにつれてということかもしれませんが、次第に表情が乏しく無表情/ポーカーフェイスになってゆく。「厚顔無恥」と言うように、実際に(顔の)筋肉が硬く厚くなってきているのかもしれませんし、あるいは私たちの心が次第に無感覚・無感動になってきているせいかもしれません。

私は職業柄様々な人と接しますので、人の表情、視線の動き、声色、しぐさといったものに関心があります。そこに心が表われていると思うからです。時折、本当にいいお顔の方がおられます。顔が生き生きと輝いている。あるいはとても優しい面持ちをされている。昔は『君の瞳は百万ボルト』という歌がありましたが、目が輝いている人はとても素敵です。

目というものは本当に不思議な働きをします。外部にあるものを見るだけではない。その逆に、心の内にあるものを外に見せるような働きをもしているのです。輝く目と出会うとその輝きはどこから来るのだろうかと考えます。信仰、希望、愛、生き甲斐、使命感といった自分にとって何かとても大切なもの(つまり光)を持っている場合に人の顔はそれによって(それを反射して)輝くのではないかと思います。素敵な笑顔の秘訣を探ることによって私もそれに少し与りたいと思うからです。

イエスさまはおっしゃいました。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタイ6:22-23)。これには少し注釈が必要です。当時のユダヤ人は目は光が入ってくる窓というよりも、むしろ光を放射し、外の世界を照らす明りと見なしていたようです。パレスチナでは通常家は一部屋作りで真ん中に灯火を置いて家族のすべての者が活動できるようにしていました。それと同様に、目は身体全体を照らしてそれを機能させる光だったのです。

山上の説教には次のような主の言葉もあります。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:14-16)。

光輝く顔

本日の旧約聖書の日課には、モーセが十戒の二枚の石の板を持って降りてきた時に顔が光り輝いていたことが記されています。「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた」。

そして本日の福音書の日課である山上の変貌の出来事の中では、律法の代表であるモーセと預言者の代表であるエリヤと三人で語り合う主イエスの姿(顔)が突然輝き始めるのです。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」。

主の顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなった。場所は高い山です。山は聖書では神顕現の場でもある。福音書記者マタイはイエスさまを新しいモーセとして記録しているのです。そこでは神の臨在を表す光り輝く雲が彼らを覆い、雲の中から声が響く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。この言葉はイエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時にも天から響いた言葉でした。主イエスはこの出来事を通して、神からの大いなる然りを受け、よし行けという大きな促しと励ましの声を聴いたのです。

ルカ福音書だけはこう記しています。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)。この「最後」と訳されている言葉は「エクソドス」という言葉ですが、「エクス(出る)」+「ホドス(道)」、つまり「出口、突破口、脱出路」という意味を持っています。出エジプトも「エクソドス」と呼ばれますが、主がエルサレムで遂げようとしておられること、十字架の出来事を「エクソドス」と呼んでいるのです。ルカ福音書は十字架を「第二の出エジプト」と位置づけているのでしょう。十字架は私たちを奴隷状態から解放する出来事なのです。この山上の変貌の出来事は、そのような十字架の悲惨の中に隠されていた神の栄光が、神の救いの光が垣間見えた出来事でもありました。

主の変容主日

本日は顕現節最終主日。神の栄光が異邦人にも輝き渡った、顕現したということを私たちは1/6の顕現日より覚えてきました。そしていよいよ、今週の聖灰水曜日から四旬節レントが始まります。典礼色も本日の白(神の栄光を現す)から紫(悔い改めと王を意味する)へと変わります。主が十字架への歩みを始められるのです。レントは40日の荒野の誘惑に合わせて、6回の日曜日を除いて40日間続きます。十字架の苦難へ歩み出そうとする直前に、本日の山上の変貌の出来事が置かれているのです。十字架の道は苦難の道ですが、その苦難に隠された栄光が輝き現れ出たことを記念するのが本日、主の変容主日です。フィリピ書2章に記されている通りです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6-8)。

出会いにおける輝き

牧師として私は様々な場面で様々な人と出会います。輝く表情を持った方との出会いに感動し、またつながりの中でその輝きが拡大してゆくことに感動するのです。もともと引っ込み思案で社交性の乏しかった私が今このような人と接する仕事をしていること自体、不思議な思いがします。神さまは長い年月をかけて、ちょうど陶器師がろくろを回しながら自からの作品である陶器を思いのままに形作ってゆくように、私という土の噐をご用のために形成してくださっているのだと思います。そして振り返ってみると、人生の要所要所においてそのような一期一会の出会いに恵まれていたということに気づくのです。

私たちは人と人との出会いとつながりの中で成長させられてゆきます。特に、苦難の闇の中にあっても明るく輝いている人との出会いによって大きな影響を受けてゆくのです。人生において、どれだけ大きなもの豊かなものと出会ってゆくか、本物と出会ってゆくかが本当に大切なことだと思います。出会いにおいて、我と汝との真実な出会いを通して、私たちの存在は上からの光の中に不思議な輝きを与えられてゆくのです。

光るものには二種類あります。太陽のように自分が燃焼することによって光輝くあり方と月のように他からの光を反射して闇に輝くあり方の二つです。信仰にも二つの形があるようです。太陽のように、自分自身の中に聖霊を受けて燃え上がるあり方と、月のように神さまの愛の光、キリストの愛の光を受けて、それを反射して輝くあり方です。私は長く信仰とは後者であろうと考えてきました。しかし、どうももう一つのあり方もあるような気がし始めています。いや、両者はあまり違わないのではないかと感じ始めています。心(魂)が上からの光を反射するのですから。そして目は心のともしびであるとすれば、山上でイエスさまがモーセとエリヤと共に栄光の中に輝く姿を現されたように、私たちが神の恵みを入れる土の器であるとすれば、私たちの中に注がれたキリストの愛、神さまの恵みが私たちを通して輝き渡るということも起こるのだと思うのです。

主は言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と。また言われました。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」と。私たちの中でキリストが輝いていてくださるのです。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。私たちは、「これはあなたのために与えるわたしのからだ。あなたの罪の赦しのために流すわたしの血」と言って自らを私たちにあの十字架の上で注ぎ尽くして下さったキリストの命をこの土の器であるこの体にいただくのです。この口と齒で噛みしめ、舌で味わい、のどで飲み込むのです。キリストの体が私の体となり、キリストの血潮が私の体を流れる。大変に具体的な恵みとして味わうのです。ここでいただいたキリストの恵みが私たちの中で力を与えてくれる。私たちをキリストの光に与るものとしてくださり、私たちの存在を白く輝くものへと変えてくださる。キリストご自身が私たちの目を闇の中に輝くともし火として用いてくださるのです。

十字架に隠された復活の光、永遠の命の光が私たちをしてこの闇の世界に輝かせる。これが出来事として私たちを通して起こるのだと言うのです。どこにも希望の光を見いだすことのできないようなこの世の現実の中で、キリストは私たちを「地の塩、世の光」として用いてくださる。私たちはキリストの希望の光を見上げています。キリストの救いのゆえに、たとえ死の陰の谷を歩むとしても主が私たちと共にいましたもうがゆえに、絶望の中にあっても主がその絶望を共に背負ってくださるがゆえに、喜びに輝いています。今年の主題はセレブレイションです。聖餐式に与ることの中でこの不思議な喜びを味わいかみしめ、その光の中に、十字架に隠された光の中に、主の召しに応えて、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年2月6日)