説教 「わたしについてきなさい」 野口 勝彦神学生

マタイによる福音書 4:18-25

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

はじめに

このみ言葉が、教会実習最後の説教のこの時に、また、教師・任用試験を終え、いよいよ宣教の場へと派遣されるこの時に私に与えられて、今、私は、これまで洗礼に、献身に、そして、この神学校4年間の間に与えられた様々なみ言葉と出来事を、ひとつひとつを思い出しています。

それらのみ言葉と出来事は、今、振り返れば、まさに、その時、その時の私にとって必要なものでした。神様は、そのみ言葉と出来事を通して、私を一歩、また、一歩とこの説教台に導いてくださったのだと、今、この場に立ちながら強くそのことを感じ、感謝したいと思います。

弟子の召命と宣教の開始

さて、今日のみ言葉は、イエス様が、ご自分の最初の弟子たちを招き出し、具体的な宣教活動を始められたことを記したものです。

今日のみ言葉では、二組の兄弟の召命が平行的に物語られています。その中で、今日のみ言葉の中心となるのは、19節の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というみ言葉です。マタイは、同じみ言葉を持つルカが漁労の奇跡とこの物語を結合しているのに対して、マルコのみ言葉、つまり、マルコ福音書第1章16節~20節をほぼそのままの形で用いています。

これらのことを頭の片隅に置きながら、今日のみ言葉をご一緒に見ていきたいと思います。

イエス様は、ご自分の最初の弟子たちを、「ガリラヤ湖のほとり」で召し出されます。「ガリラヤ湖」、この湖は、ルカでは「ゲネサレト湖」と呼ばれています。ギリシア語原典や英訳聖書では、ルカでは、確かに「湖」と言う意味の言葉が用いられていますが、マタイ、マルコでは実は、「湖」と言う意味の言葉ではなく、「海」という意味の言葉が用いられているのです。

「海」、それは、「湖」よりもはるかに大きな広がりを私たちに連想させます。実際に、ガリラヤ湖の大きさは、南北に約21km、東西に約13kmですから、私たちが連想する「海」の大きさや広がりとは違うかもしれません。しかし、現代のような交通手段や通信手段がほとんどない当時のイスラエルの人々にとって、この大きさは、十分に「海」と言えるほどの大きさであり広がりであったのではないでしょうか。

また、イザヤ書17章12節には、当時の人々が「海」について、どのようなイメージを抱いていたかが次のように記されています。「災いだ、多くの民がどよめく どよめく海のどよめきのように」

また、エレミヤ書49章23節にも次のように記されています。「ダマスコに向かって。ハマトとアルパドは、悪い知らせを聞いて うろたえている。 安らうことのない海のように 彼らは不安におののいている」

当時のイスラエルの人々にとってこれらの記述からも分かる通り、「海」は、「どよめく海」であり、「安らうことのない海」であり、非常に恐ろしいものでもあったのです。それは、人間を脅かす世界であり、虚無的なもの、悪魔的なものを意味するものでした。

その「海」で、自分たちの生活の糧を得るために必死に漁をしているシモンとその弟アンデレを、イスエ様は最初の弟子として召し出されたのです。このことは、現代に生きる私たちに何を示そうとしているでしょうか。

それは、現代という、多くの矛盾と恐怖と孤独の「海」の中で、自分の日々の糧を得るために必死に生きていた私たちが、昨年の最後の説教で私が語った通り「主がお入り用なのです」とイエス様に召し出され、この教会に、この礼拝に集っているその姿を示していると言えないでしょうか。このシモンと、アンデレの召し出の出来事、それは、まさに私たちの召し出しの出来事であるのです。

「わたしについて来なさい」

イエス様は、シモンとアンデレを弟子として召し出されるために、彼らに言葉を投げかけられます。その最初に彼らに投げかけられたその言葉、それは、弟子として「聞きなさい」でも、「読みなさい」でも、「学びなさい」でもありませんでした。イエス様がご自分の弟子として召し出すために、彼らに投げかけられた最初の言葉、それは、だだ、「わたしについて来なさい」という言葉です。

「わたしについて来なさい」、それは、だだ「わたしに従ってきなさい」と言う意味です。「従う」、それは、何に「従う」ということでしょうか。イエス様の「教え」に従うということでしょうか。それは、イエス様というお方、自身に「従う」ことです。イエス様の教えを聞くのではなく、イエス様の教えを学ぶのではなく、ただ、具体的に行為し、「従う」ことなのです。その具体的行為とは、服従とは、ただ、イエス様のあとについてゆくということなのです。

シモンとアンデレは、このイエス様の言葉を聞き、「すぐに網を捨てて従った」と今日のみ言葉は続きます。「すぐに網を捨てて従った」、それは、これまでの生活を、キャリアを、人間関係を、生き方すべてを捨て去ることを意味しています。そして、その行為は、「すぐに」されなければならないのです。いろいろ考えたり、相談したり、調整したりした後ではなく、まさに、イエス様に呼びかけられたその時に「網を捨てて従」うのです。イエス様のその呼びかけには、人生の見積書や計算書はないのです。そして、その呼びかけに応えることは、決してそれまでの人生や生き方と連続したものではなく、一つの飛躍であり断絶であるのです。

個人的な体験から

「すぐに網を捨てて従った」、この言葉を聞くと、私は、今から4年前に神学校入学を決意した時のことを思い出します。

私は、神学校への入学前は、高校の講師を経てYMCAという団体で14年間働いていました。それまでの14年間の間に、そこでの働きに生き詰まり、何度、辞めようかと思いましたが、結局できないまま、14年間、悶々としながら過ごしていました。

しかし、神学校への入学を決意したその時、なぜか、それまでのキャリアや人間関係すべてを捨て去ることが、人生の見積書も計算書もないその新しい道へとその第一歩を踏み出すことができたのです。その第一歩、それは、まさに、私にとって、それまでの人生や生き方の連続ではなく、一つの飛躍であり、断絶でした。

「従順の第一歩」(ボンヘッファー)

この第一歩、イエス様というお方、ご自身に「従う」第一歩について、第二次大戦中にあのヒトラーの暗殺を企てたドイツの牧師であったデートリッヒ・ボンヘッファーは、その著書『キリストに従う』の中で次のように記しています。

「従順な者だけが信ずる。従順は信じられることが可能となるために、具体的な命令に対して捧げられなければならないものである。信仰が敬虔をよそおう自己欺瞞や、安価な恵みによらないために従順の第一歩が踏み出されねばならないのである。重要なのは第一歩である。その第一歩は、それに続く歩みとは質的に異なるものである。従順の第一歩が、ペテロを網から、さらに舟から離れるように導かねばならなかったし、青年を富から離れるように導かねばならない。この新しい従順によって造られた実在においてこそ、信じられることは可能なのである」

イエス様は、それまでの人生の、生き方の連続の中から、私たちを新しい第一歩へと、特別な第一歩へと歩ませるために、一つの飛躍であり断絶である「新しい従順」に私たちを招かれたのです。「わたしについて来なさい」と。

その招きは、私たちの状況を考えてとか、私たちに特別な資質や能力があるという理由によるものではありません。それは、今日の使徒書のみ言葉の中で次のように記されている通りです。「兄弟たち、あなたが召されたときのことを思い起してみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけでもなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」

イエス様の招きには、私たちの側には一切の条件はないのです。ただ、そこにはイエス様の「わたしについて来なさい」という呼びかけがあるだけなのです。私たちができることは、ただ、その呼びかけに応え、ただ「従う」ことだけなのです。

キリストへの服従

ある宗教改革者は、イエス様に「従う」とは何であるのかを次のように述べています。少し長いですが、お聴きください。

「主は言われます。あなたの理解力に応じて行くのではなく、あなたの理解力を超えて行きなさい。愚かさの中にひたりなさい。そうすれば、わたしは、あなたにわたしの理解力を与えましょう。愚かさこそ正しい理解力です。どこへあなたが行くか知らないこと、それこそ、どこへあなたが行くかを知ることです。わたしの理解力は、あなたを全く愚かにします。このようにアブラハムは、自分の故郷を出てから、自分がどこに行くか知りませんでした。彼はわたしの知識に自分をゆだねて、自分の知識のおもむくのに任せました。そうして、彼は正しい道を通って、正しい終りに達したのです。見よ、それこそ十字架の道であって、あなたは、それを見出すことができないが、盲人を導くように、わたしがあなたを導いてゆきます。それゆえ、あなたでもない、人間でもない、あなたが選ぶわざでもなく、あなたが考える苦難でもなく、あなたの選びと思考と願望に反して、あなたにやってくる業や苦難があります。そこで従いなさい。そこで、わたしは招くのです。そこで弟子となりなさい。そこでこそ時は満ちます。あなたの師は、そこに来ておられるのです」

最初の弟子たちが召された場、「ガリラヤ」、それは、あらゆる病気や悩む者に満ち満ちていました。だからこそ、イエス様は、その場所で、「わたしについて来なさい」と最初の弟子たちを召し出されたのです。

まさに、私たちは、現代の「ガリラヤ」で、「わたしについて来なさい」とイエス様に召し出され、具体的な応答を、今、求められているのです。

主の派遣

私は、今日の派遣の歌として、教会讃美歌49番を選びました。それは、私が献身を決意した時、2001年1月の母教会である挙母教会の主日礼拝で歌われた讃美歌です。この歌の三節には次のように記されています。

みことばに はげまされつつ
欠け多き 土の器を
主の前に 捧げまつって、
み恵みが あふれるような
生きかたを 今年はしよう」

この歌を胸に刻みながら、また、与えられたこの新しい一年を「主に従って」過ごしていきましょう。

祈り

一言お祈りいたします。

私たちを現代という、多くの矛盾と恐怖と孤独の「海」の中から召し出してくださった主よ。

また、新しいこの日を、この月を、この一年を与えてくださったことに心から感謝します。

あなたは、取るに足らない私たちに「わたしについて来なさい」と呼びかけてくださいました。そして、あなたの後についてく、恵みを与えられました。しかし、私たちは、その恵みを前にして、時に考え、迷い、立ち止まってしまうことがあります。どうか、そのような時に、あなたが、また、「わたしについて来なさい」と呼びかけてくださったことを思い出させてください。

そして、「すぐに」あなたの後をついてくことができる者としてください。

今、この教会の中で、地域の中で、日本の中で、世界の中で、病気や苦しみに悩んでいる人たちが多くおります。どうか、そのような中に、あなたの呼びかけに、あなたのあとに「すぐに」ついていくことができる者を召し出してください。

この小さき祈りと感謝を主イエス様のみ名を通して、み前にお捧げします。

アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年1月23日 顕現節第4主日礼拝説教)