説教 「天が開く時」 大柴 譲治牧師

マタイによる福音書 3:13-17

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題

毎年1月6日が顕現日として定められていますが、それに続く日曜日は主の洗礼日となっており、イエスさまがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた出来事を覚えて礼拝を守っています。

主の洗礼時には「天がイエスに向かって開いた」とある。その時二つの事が起こったのです。「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」ということ、そしてその時「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」ということの二つが起こる。本日は「天が開く時」と題してこの主の洗礼の意味について思いを巡らせてまいりましょう。

聖書における「水」

聖書の要所要所には水への言及があります。例えば創世記の冒頭、天地の創造物語。「水の惑星」とも呼ばれる地球の豊かさは水の豊かさから生まれてきたとも言えましょう。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。…第一の日である。神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。…第二の日である。神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。」これらは創造の最初の三日間の出来事です(五日目も水に関わっています)。

創世記2:10-14はエデンから流れ出る一本の川について言及し、それがピション、ギホン、チグリス、ユーフラテスの四支流に分れたと記す。高度な文明は豊かな水の畔に生まれたのです。後述しますが、この豊かな川の流れの記述はやがてヨハネ黙示録最終章につながってゆきます。

出エジプト14:21には「モーセが手を葦の海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分れた」とある。イスラエルの民は水の間をくぐって奴隷の地であったエジプトを脱出し、神の約束の地に向かって歩み始めました。荒野では、マラの苦い水に主に示された一本の木を投げ込むと甘くなったとか(同15:22-25)、モーセが神に示されて杖で岩を打つとそこから水がほとばしりでたとか示されています(同17:1-7)。

また有名な詩編23篇にはこうある。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」このように旧約聖書は豊かな水のイメージに彩られていると言えましょう。神の民は神からの水を通して生かされてきたのです。

目を転じ新約聖書を見ると、特にヨハネ福音書では水が重要視されています。カナの婚礼で主が水をぶどう酒に変えられた出来事(2:1-11)、サマリアの井戸で一人の女性に語られた言葉「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13-14)、仮庵の祭りの時に大声で叫ばれたイエスの言葉等、心に響きます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:37-38)。

そしてヨハネ黙示録最終章22章冒頭にはこうあります。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す」。このように水への言及で開始された聖書は水への言及で閉じられてゆくのです。聖書における水の重要性が分かります。

人生における「水」

同様に、私たちの人生の要所要所はいつも水から始まっています。調べてみると人間の身体はその約6割が水で、毎日1.5リットル程度の飲料水が必要とのことです。母の胎内にいた時に私たちは「羊水」と呼ばれる水の中にいました。そして生まれてすぐオギャーと泣いて人生を始めたのです。

人生の中で悲しい時、嬉しい時に私たちは涙を流します。要所要所で涙を流す。涙を通して一種のカタルシスが起こり、そこから力が湧いてくるということが起こります。涙には新しく歩み出してゆくための力が込められているのです。人生の最後には「死に水を取る」、つまり「末期の水を与える」ということがある。そのように私たちは水をくぐって生きているのです。

先ほど詩編23篇を引用しましたが、私には「憩いの水」ということでは思い起こす個人的な体験があります。4年前に右目網膜剥離の手術をした時のことです。まぶしい光の下で目を開けたままでの4時間に渡る手術の中で、一人の医師が私の目に水を注いで目を潤してくださった。これが本当にありがたかった。谷川の水を求めてさまよい歩く鹿のような思いがしたものです。

もう一つ水に関して、手術後に味わった恵みがあります。毎朝、起きてから冷たい水で顔を洗うことができるという恵みです。何の変哲もないことですが、水で顔を洗うということができなかった時期が手術後二ヶ月程ありました。目を患った人は眼帯をしますので、しばらくは洗顔ができないのです。もう4年が経って、失明を免れたことに感謝するのですが、毎朝冷たい水で顔を洗う時、本当に生きることのすばらしさに感謝したい気持ちになります。私にとって水とは、天の恵みによって生かされていることを想起させてくれるシンボルとなっています。

「天が開く」ということ

そして洗礼の水。これこそ私たちにとっては最も大切な水と言えましょう。大切であればこそ、死を前にした時に緊急洗礼式なども行われてゆきます。しかもそれは、牧師がその場にいない緊急の場合には、信徒が誰でも行うことができるということになっています。それほどまでに教会は洗礼にこだわってきました。それはなぜか。大切な理由があります。

洗礼を受けるということは私たちがキリストのものとされていることを確証させてくれる決定的な出来事です。それは、生けるにせよ死ぬにせよ私たちが主のものであるということを明らかにする。洗礼においては、水がみ言葉と共に用いられてゆきますが、古い自分が水の中で死に、キリストと共に新しい存在として水の中からよみがえるという出来事が起こるのです。自己中心であった私たちが死んでキリスト中心、神中心の存在へとよみがえる。イスラエルが二つに分れた葦の海を渡ったように、私たちは洗礼の水をくぐり抜けて諸々の力に縛られていた奴隷の地から神の約束の地、自由の中へと踏み出してゆくのです。

主の洗礼時同様、私たちの洗礼においても天が私たちに向かって開くのであり、私たちの上にも神の聖霊がハトのように降り、私たちにも天からの声が聞こえるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。マルコとルカでは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということになっていて、マタイとは微妙に異なっています。しかしその両面が大切なのだろうと思います。自分自身が洗礼を通して神の子としての確証が与えられるという面と、周囲に対して神が証ししてくださるという面の両面が大切。そこでは私という小さな存在に対して神の大いなる然りが宣言されるのです。そしてこの神からの然りが私の存在をその根底において支え、守り、私の人生を導いてゆく。主イエスご自身もこの声によって公生涯へと押し出されてゆきました。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。このような天の声を聴き取ることができた者は幸いであります。なぜなら、私たちは魂の奥底でこのような根源的な存在肯定の声を求めているからです。天地万物は滅びるとも神の言葉は永久に立つと聖書は告げる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という洗礼時に天から響いてきた声は、決して揺らぐことなく響き続けているのです。この神からのみ言葉は、実は人生において繰り返し私たちに向かって告げられている言葉なのです。洗礼時に私たちに向かって開かれた天は常に開き続けているのです。

それにしても「天が開く」とはどういうことか。天とは神のおられる場のこと、神のご支配のことでありますから、「天が開く」とは神とつながるということ、神との生き生きとした「我と汝」の関係の中に生きるということでありましょう。天が開くとは「天啓を受ける」ということであり、魂の深いところで神の言葉に捉えられること、圧倒されること、心の目が開かれること、納得することなのだと思います。

そのように私たち人間が天とつながっている存在であることを思い起こさせてくれる出来事、それが主イエスの受洗の出来事です。天が開く時、私たちにもまた神の然りという声が響いてくるのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神の声が。新しい年の歩みをそのような声の中に始めることができる者は幸いであります。キリスト者とはこのような天の声によって生きる者、命の水によって生きる者、神の言葉によって生きる者のことなのです。聖書は私たちを招いています。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年1月9日 主の洗礼日 礼拝説教)