教会と歴史(14) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




D 教会の歴史の歩みの中で

1 迫害の時代からキリスト教会の確立へ

長い歴史でありますから、大急ぎで幾つかのことだけ申します。年表の紀元70年を見て下さると、この年ローマ軍によってエルサレムは陥落します。その際に、折角出来ていたエルサレムの小さな教会の人々はバラバラになって逃げて行ったわけです。しかし、それで駄目になったかというと、むしろ逃げて行った先で伝道しました。神様のなさることは本当に不思議です。逃げなくてはならなくなって、かえって伝道が広まったとも言えるのです。もちろんその先で、ローマの文化との接触の中で、教会は長い間ひどく苦労もしました。迫害を受けたのです。

もっともわが国での迫害の場合も似ていますが、必ずしもずっと一様に迫害されたわけではありません。地方によって、また時期によって、ひどく迫害された時も、ある程度容認された場合もあるようですが、少なくとも公式には全体的に迫害の時代を経験します。その中で教会の在り方とか、礼拝の仕方が決まって来るのです 。うっかりすると捕まってしまうというような状況だから、自分たちはどういうふうに礼拝し、生きなくてはならないのか、必要な事柄とそれに命を掛けてよいようにしておこうとする中での形成です。

その迫害も313年にコンスタンティヌス大帝が寛容令を出してキリスト教がローマ帝国の中で許容されるようになります。皇帝ももはやキリスト者たちを無視出来なくなったわけです。ところがそれまで締め付けられていたのが、公に許されるようになると、いったい何が起こったか。好機逸すべからずと伝道し、勢力を広げる前に、教会の中でのいろいろな間違った信仰を整理しなくてはならなかったのです。それぞれの地方で間違った教えが噴出してきたからです。そのために教会は最初の世界会議をニケアという町で開いて、「私たちの信仰はこれだ」と基本線を確認しあったのです。それがニケア信条です。

聖餐式のある礼拝ではニケア信条によって私たちの信仰の告白をします。長い迫害の時代が終わると、外に対して団結していた教会の中に、それぞれ自己流の信仰理解が出てきた。それに対して教会の自己確認をした大切な告白です。迫害のあとも生々しい司教たち、教会の代表者たちが、当時の全世界から、恐らくある者は脚を引きずり、手を吊って集まり、自分たちの信仰はこれだと確認しあったわけです。厳密に言うと、私たちが今日用いているニケア信条は、 年にコンスタンティノポリスでの教会会議で定まったもの、正式には「ニケア・コンスタンティノポリス信条」と言われるものを基礎にしています。しかしそれも基になったのはニケア信条ですから、少し曖昧に「ニケア信条」とよびならわし、礼拝の中での告白のひとつに用いられて来ています。

その中での「かなめ」となった言葉、いわゆる「キーワード」は、キリストが父なる神と「同質」のお方であったということです。本質的に同じ、「同質」という言葉もわかりにくい言葉ですし、「同じ」でもよいのですが、しかしこの言葉を巡っての論議が厳しくなされました。イエスさまは神さまに似たものか、それとも神さまご自身といってよいのか。イエスさまは、私たちと同行の信仰者か、私たちがそれに向かって祈るべき相手かという問題であったとも言えます。質的に同じと言う言葉を「ホモウシオス」と言いましたが、似たものを表わす「ホモイウシオス」の主張と対立しました。ギリシャ文字のイオタ(ι)を入れるか入れないかの差でしたが、少し大袈裟に言えば全世界の教会は「イオタ」ひとつで真っ二つに分かれたとされる位でした。結局アタナシウスという人の主張した「キリストは神と同質」ということが通って、ニケア信条に採り入れられました。(続く)