説教 「王への献げ物」 大柴 譲治

マタイ福音書 2: 1ー12

顕現主日

本日は顕現主日。「顕現主日」とは、救い主の栄光がユダヤ人だけではなく、全世界を照らして輝いた、顕現したということを覚える主日です。毎年、東からの博士たちがベツレヘムにお生まれになったイエスさまのもとに黄金、没薬、乳香を携えて礼拝にくる記事が読まれます。イエスさまは単に「ユダヤ人の王」(ヘロデ大王に博士たちはそのように聞きますし、また主の十字架の罪状書きにはそのように記されましたが)としてお生まれになったのではない。「世界の王」としてこの地上にお生まれになったのだということが明確にされてゆかねばなりません。

本日は闇の中に生きて闇の中に死んだヘロデ大王と、闇の中にありつつも光に向かって生きた無名の博士たちを対比させながら、「世界の王」の栄光の顕現についてみ言葉に聴いてゆきたいと思います。

なぜ「西」ではなく「東」なのか

しかし、それにしてもどうして「東」からなのか。どうして「西」から「東に向かって」ではなく、また「東西南北、四方八方から」でもなく、「東から」なのか。恐らくここでは、注意深く、太陽崇拝を避けている節が見られます。

イザヤ書60章の最初の部分を読むと、私たちには初日の出が東から昇るイメージと重なります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。実際、口語訳聖書では「見よ、暗きは地を覆い、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」(2節)と訳されていました。

しかし興味深いことに、クリスマスの出来事は東から昇る太陽によってではなく、西の空に輝く星によって示されている。このことは強調されてよいと思われます。それは太陽とは違い、闇の方角に、深い闇の中に輝く光によって示されたのです。そこでは闇がなくなるわけではない。闇の中で「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」のです。闇に輝く星の光に向かって歩み出してゆくことこそが大切です。それは同時に闇のまっただ中に、より闇の濃い方角に踏み出してゆく勇気と信頼とを必要とする行為でもありましょう。闇を見つめてたじろがない生き方、踏みとどまる生き方が示されているとも思えます。

ヘロデの不安~闇の支配

この東方からの博士たちのエピソードには、同時に、当時のユダヤの領主ヘロデ大王の恐れと不安とが深い「闇」として描かれています。光の背後に影ができるように、救い主の誕生を示す星の輝きにさえ人間の影が濃く映っている。ヘロデの恐れは新しく「ユダヤ人の王」として生まれた男に自分の地位が脅かされるかもしれないという点から生じていました。それはヘロデにとって、自分の地位が何よりも重要であったということを意味しています。マタイは3節後半にこう書き加えています。「エルサレムの人々も皆、同様であった」。エルサレムの住人もヘロデと同じように不安に駆られた。私たち人間はまぶしさに耐えられないという面がある。太陽を直接見つめることはできない。目が焼けてしまうからです。

2:16以下にヘロデが幼児を虐殺したことが記されていますが、それは人間が自分の持つ「この世的な地位」という相対的な事柄を絶対化するときに恐ろしい錯誤が起こることを示しています。人類の歴史の中ではこのような錯誤は繰り返し起こっています。ヘロデは闇の中に生きている。彼は闇に支配されて生きていると申し上げることができましょう。ヘロデの生涯は疑心暗鬼に満ちた、悲惨なものであったことが歴史家によって報告されています。彼は次々に息子たちを含めて自分の立場を脅かす者たちを暗殺してゆきました。68才で亡くなるまで狂ったような凶暴さ、変質性を増し加えていったとされています。闇に支配された人間の末路は恐ろしくも哀れであります。

王への献げ物

闇の中に生きて死んだヘロデに対して、闇の中を光に向かって生きた博士たちが描かれています。彼らは不思議な仕方でイエスを「世界の王」として認識し、旅を続け、献げ物を差し出して、王なるイエスを伏し拝みます。「ユダヤ人の王」は「ユダヤ人だけの王」ではなくて、「すべての人々の王」だったのです。その旅は困難な闇の旅でありました。しかし光に向かっての旅であった。星の光が彼らの旅を導いたのです。導きは彼らを越えたところから与えられていった。星の輝きの前に、ヘロデ同様、彼ら自身も自らの闇を示されたことでしょう。彼ら自身にも闇の部分があったはずです。しかし彼らの偉さは、その闇の支配の空しさ、恐ろしさを知っていたことにあると思われます。出口のない闇からの突破口を求めて、必死に探す中で星の輝きを見つけたのです。ヘロデは知らなかったが、彼らは自分の中にある魂の飢え渇きを知っていた。

黄金・乳香・薬という三つの宝は、相当に高価なものであったと思われます。それは彼ら自身の喜びの深さを表している。同時にそれらの献げ物は彼らの献身と信仰の告白でもありました。彼らはそれらを捧げることで自分自身のすべてを差し出したのです。

黄金・乳香・没薬は、古くからの解釈で、それぞれ、王・神・死すべき者を表しているという理解がありました(ヒエロニムス。ルターも)。確かにそのように理解することもできるかも知れません。別の理解によると、彼らが占星術つまり星占いの博士たちであったということから、黄金・乳香・没薬は彼らの商売道具であり、王なるキリストの前に彼らは過去のすべてを捧げ、それと訣別し、それまでとは全く異なった新しい生き方へと踏み出していったのだという興味深い理解があります(オールブライト、マンなど)。

彼らが何人であったかは、また彼らの名前も聖書には記されていません。カスパル、バルサザル、メルキオールという三人の博士たちの名は伝説によっています。彼らがヨーロッパとアジアとアフリカの三大陸を代表する王であったというのも伝説です。老年と壮年と青年だったという説もある。聖書は無名の東からの博士たちとして、マタイに一回だけ登場して、そして背後に消えてゆきます。彼らにとってはしかし、その一回の、粗末な家畜小屋での、王との謁見が決定的であったと思われます。闇の中に星は輝き、彼らはその星を見て喜びにあふれた(10節)。この救い主の光だけが私たちに本当の喜び、本当の慰めを与えるのだということをマタイは言葉少なにではありますが、的確に、そして印象的に描いています。闇に生き闇に死んだヘロデの恐れとおののきの深さと、光に向かって生きた博士たちの喜びの深さとが対照的です。

「王に会った男」

キリスト教作家の遠藤周作の作品の中に『侍』という小説(1980年発表)があります。お読みになられた方もおられると思いますが、昨年末にテレビで放映された遠藤周作の奥さんの遠藤順子夫人原作の『夫の宿題』にも、大切なキーワードとしてこの『侍』の中の最後の言葉が二度出てきていました。

「ここからは・・・あの方がお供なされます」
突然、背後で与蔵の引きしぼるような声が聞こえた。
「ここからは・・・あの方が、お仕えなされます」
侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた、そして黒光りするつめたい廊下を、彼の旅の終わりに向かって進んでいった。
(遠藤周作文学全集3 『侍』、p432-433)

『侍』の初版本には次のように記されています。

この作品は奥州の遣欧使節、支倉常長(伊達正宗によって派遣)をモデルにしたが、その伝記ではない。彼の悲劇的な大旅行を私の内部で再構成した小説である。常長にとって、この旅行は、単なる旅行ではなかった。彼はヨーロッパの王に会いに行き、事実、エスパニヤ王やローマ法王に出会ったが、しかし本当に廻りあったのは惨めな「別の王」だったのである。私の主人公もまた同じだった・・・。
(同、p443)

遠藤周作文学全集で山根道公氏はまたこのようにも解説しています。

この小説の技法について著者は、『私の愛した小説』のなかで、<地上の王に会うべく太平洋を渡った使者、長谷倉がその人生の終末に見つけたのは同じ王でも次元のちがう魂の王であったというこの作品のすじ書きは(中略)聖書の弟子たちの王のイメージの変化をそのまま使った><「置き換え手法」>であったと述べ、この小説の題をはじめは<地上の王から拒まれた男が心の王を見いだすという意味>で<「王に会った男」にしようかと私は考えた>と書いている。「侍」という題をつけたことについては、『沈黙の声』のなかで<「侍」には武士というだけでなく「さぶらう」ーつまり「だれかに仕える・だれかを頼みにする」という意味が含まれているのである。そういうダブル・イメージを持つ題が私は好きなのである>と述べ、また佐藤泰正氏を聞き手に著者が自作を語る対談集『人生の同伴者』のなかでは<最終場面で処刑される侍に、「ここからは・・・あの方がお供なされます」と召使いがいいますね。あの一点にかけて小説全体をずうっと絞っていった。召使いの代わりに侍ふイエス。同伴者になっていく。「ここからは・・・あの方が、お仕えなされます」のところまでどういうふうに絞っていくかということが、あの小説の狙い目だったんです>と語っている。
(同、p444-445)

地上の王ではなく、「別の」王、魂の王と出会った東からの博士たちも、この一人の「侍」と同じような歩みを彼らの旅の終わりに向かって進んでいったのでありましょう。

王からの献げ物

新しい年を迎えた私たちもまた、本日、み言葉を通して招かれています。ヘロデ的な生き方を捨てて博士的な生き方をするようにと招かれている。光に向かって生きるように、古い星占い的な生き方から訣別して、キリストにある全く新しい生き方へと招かれている。星によって喜びに満ちあふれさせられるような生き方へと招かれている。この世の王にではなく、魂の王、本物の救い主に出会うように招かれている。それも私たちの思いも寄らない不思議な仕方で招かれているのです。

黄金・乳香・没薬を捧げたのは博士たちの方でしたが、あの十字架において黄金・乳香・没薬を捧げてくださったのは主イエス・キリストの側だったのです。そこでは黄金・乳香・没薬とは、ご自身のいのちを注ぎ尽くすほどに私たちを深く愛し憐れんでくださったキリストの愛のことを指しています。

博士たちは星の光を見て喜びに満たされました。私たちもこの日、キリストの十字架の愛を知って喜びに満たされたいと思います。そして私たち自身を主に献げ物としてお捧げいたしたい。ご一緒に、そのような主の新しき年を歩んでまいりたいと思います。 アーメン。

(2000年 1月 9日  顕現主日礼拝)