教会と歴史(6) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)聖餐式の式文には「私たちの主イエス・キリストは苦しみを受ける前日」という言葉で始まるいわゆる設定の言葉があります。多くの場合一つしか用いられませんが、式文の中にはこの設定辞は三つあげてあります。第一のものは、聖書の言葉によるとされます。しかし「私たちの主イエス・キリストは、苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを割き、弟子たちに与えて言われました。『取って食べなさい。これはあなたがたのために与える私のからだである。私の記念のためにこれを行いなさい』」という言葉をその通りの形で聖書に見つけることは出来ません。第一コリント11章のパウロが伝えている言葉を土台にして、福音書の言葉をアレンジしたものです。直接には宗教改革の際のルターの式文を基にしてあります。なにげなく、あれは聖書の言葉と思っているが、聖書自身いろいろな表現を伝えていて、それがまとめられたものであり、16世紀に使われたものが生きているわけですから、この言葉自体にイエス・キリストの十字架の出来事、それを伝えた長い歴史が入っていると言えます。

 それから第二の設定辞「聖なるみ心を成就し、云々」という、第一の言葉を含んだ少し長いのがあります。これは紀元3世紀のヒッポリトウスというギリシャの人が書いた『使徒伝承』という書物に残されている典礼式文を基にしています。第三のものも第一の聖書に基づく言葉を含んでいますが、直接には1974年に出版されたアメリカのルーテル教会の式文の言葉を土台にしてあります。もちろん用いられた言葉は、例えば「主よ、来てください」という呼び掛けは聖書の言葉です、最近の研究はそれが聖餐式に用いられたことを明らかにしているのですから、新しいとばかりは言えません。

 すると、聖餐の設定辞だけでも、実は長い礼拝の歴史の流れを受け継いでいることになります。この時代のもの、あの時代のものというのではなく、いろいろな時代を重ねた信仰者の歴史を受け継いで、そのもとに私たちがいるのです。(続く)

(1995年10月)