説教「その名はイエス=インマヌエル」 大柴譲治

マタイによる福音書1:18-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「その名はインマヌエル」

アドベントの三本目のローソクに火が点されました。アドベントとは「到来」という意味のラテン語です。主の第一のアドベントであるクリスマスの出来事と、第二のアドベントである主の再臨の出来事の間にあって、私たちは主の到来を身を正しながら待ち望むのです。先週の礼拝では賀来先生が、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と荒野で呼ばわった洗礼者ヨハネを通して、この時を私たち自身が身を正して主の到来を待ち望むということを語って下さいました。洗礼者ヨハネは自分の後から来られる方を全身全霊をもって指し示すのです。

マタイ福音書は旧約聖書の預言がイエス・キリストの出来事において成就したことを繰り返し記しています。本日は福音書の日課としてマタイ福音書1章が与えられています。そこには主イエスの誕生がイザヤ書7章に預言をされていたことの成就であることが明示されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。

イエスはインマヌエル、「神われらと共にいます」という名で呼ばれるお方であるということを明らかにしています。救い主イエスの誕生がインマヌエル預言の成就であることは新約聖書の中ではマタイ福音書だけが伝えていることなのですが、それはイエス・キリストのこの世への到来を意味する決定的な預言として理解されてきました。この「インマヌエル」という言葉はマタイ福音書を貫く主題として重要なキーワードになっています。この言葉自体はこの1:23にただ一回だけイザヤ書7:14の引用として出てくるだけなのですが、マタイ福音書の一番最後に復活の主が弟子たちを派遣する場面がありますが、そこにはこう記されています。マタイ福音書の締めくくりの言葉です。

◆弟子たちを派遣する
(16)さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。(17)そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(18)イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(19)だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(20)あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というのは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

また、18:20には次のような主イエスの言葉もあります。18節から読んでみます。

「(18)はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(19)また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(20)二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

そのようにマタイ福音書は、主イエスが弟子たちと常に共にいるということ、インマヌエルということを一貫して主張しているのです。見えない復活の主のご臨在を証ししているのです。 <「その名はイエス」> 「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と天使がヨセフに告げていますが、「インマヌエル」という名と「イエス」という名がどのような関係にあるのかが分かりにくいかもしれません。「イエス」という名は、ギリシャ語では「イエスース」と書かれますが、当時のユダヤ人においてはごくごく当たり前の、ありふれた名前であったようです。それはヘブル語では「イェホシュア」という名前で、「ヤーウェは救い」という意味です。その名は旧約聖書では「ヨシュア」と訳されていて、例えばモーセの後継者で約束の地に民を導いて入っていったヌンの子ヨシュアがそうです。使徒言行録7:45やヘブル書4:8ではギリシャ語で「イエスース」と書かれているところを「ヨシュア」と訳しています。神はインマヌエルの神であり、われらと共にいますことを通してその救いを達成して下さる神なのです。

苦しむヨセフに現れた天使

本日の福音書の日課であるマタイ1章はヨセフの苦しむ姿を記しています。いいなづけのマリアが何者かによって子供を身ごもったことを知ったからです。どのような経緯でヨセフはそのことを知ったのかは記されていません。「聖霊によって身ごもった」とマタイは記していますが、そのことを知っていたのはマリアだけだったはずです。ルカ福音書は天使ガブリエルがマリアに受胎告知をしたことを記しています(1:26-29)。

「聖霊による懐胎」は人間には理解できない神秘的な次元の事柄です。ヨセフはマリアが身ごもった理由を知りませんでした。ですからヨセフは、律法を守る「正しい人」でもあったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、マリアを密かに離縁しようとします。苦渋の決断でした。ヨセフはそうすることで神への愛を貫こうとしているのです。公に離縁するとマリアが姦淫の罪に問われて石打ちの刑で殺されてしまう危険もあったためでしょうか。もしそうであるとすればヨセフは密かに縁を切ろうとすることで、マリアを憐れみ、彼女を守ろうとしたということになるのかもしれません。ルカ福音書は母マリアの方に焦点を当てているのに対して、マタイ福音書は父ヨセフに焦点を当てています。

ヨセフ(「神は加えたまう」の意)はイエスの誕生物語において重要な役割を果たします。それ以降ヨセフは役割を終えて背後に退いて行くのですが、三度(厳密に言えば四度)天使のお告げを聞いて行動を起こします。本日の箇所がその最初のものですが、二度目はヘロデ大王がエルサレムとその周辺の二歳以下の男の子を殺す前に天使のお告げを聞いてエジプトに逃れて行きます。そしてヘロデ大王が死んだ後に天使のお告げを聞いてエジプトから帰国し、さらには(四度目として)夢で示されてナザレに住むことになるのです。

神はヨセフを用いてその救いのご計画を実現されて行きました。ルカ福音書は受胎告知を告げる天使ガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるマリアの従順を際立たせていますが(ルカ1:38)、私は本日の箇所でのヨセフの「従順」に心打たれる思いがいたします。悩みの中で神の示された御心に、言葉少なではあるけれども忠実に歩むヨセフの姿は、私の中では行く先を知らないで神の言に信頼して旅立ったアブラハムの姿や、燔祭の薪を背負って父アブラハムの後についてゆく従順なイサクの姿と重なります。「主の山に備えあり」なのです。

悲しみの中に降り立ってくださったキリスト

マリアの夫ヨセフに本日は思いを向けました。彼は子供にイエスと名付けたのです。当時の慣習としては母親が名付け親になったようですが、ここではヨセフがその役割を果たしたとマタイは記します。どのような苦しみや悲しみの中にあっても、インマヌエル、神われらと共にいますのです。

先週私は聖路加国際病院に足を運びました。恩師が緩和ケア病棟に入院されているからです。聖路加病院は、私が1985年、今から25年前になりますが、神学生時代に3週間の臨床牧会訓練を受けた場所です。時間を超えてフラッシュバックのようにその時のことを思い起こしました。今もそうですが、聖路加の小児病棟は小児白血病の患者さんが大勢入院されていました。今でもはっきりと思い起こします。ある時に小児病棟を訪問していたら、若いご両親が私に対して深々と頭を下げられたことを。「いつも子供を訪問して下さってありがとうございます」と笑顔で言われたのです。

けなげに病いと闘っている子供たちの姿を見て心震えるような思いをして病棟から出てきた直後だったように記憶しています。病の子供を抱える親の気持ちを思うと、何もできない自分の無力さに胸がつぶれるような思いがしました。しかし、そのような辛い現実の直中に無力なままで踏みとどまることの大切さをその笑顔とお辞儀とによって教えられたように思います。キリストが私たちの現実の直中に降り立って下さったのです。どのような苦しみにあってもインマヌエル、神われらと共にいます。私たちの救い主、その名はイエス(インマヌエルの神は私たちを救う)なのです。

ジョン・パットンという米国の牧師がある本の中で紹介している印象的なエピソードを思い起こします。それは次のようなエピソードです(”From Ministry to Theology,” Journal of Pastoral Care Publications, 1995)。

米国のある病院での出来事。産婦人科は病院の中にあって唯一喜びと笑顔の溢れる場所です。子供の誕生を誕生を心待ちにしていた一組のカップルがいました。しかし、悲しいことにその女児の赤ちゃんは死産となってしまいました。マギーという名前を付けられた赤ちゃんのために病院のチャペルで礼拝が行われます。礼拝の最中に、涙をとどめることができないでいるその若い両親が突然、この子のために洗礼式を行って欲しいと申し出たのです。それを執り行っている若いチャプレンの目からも涙が溢れ続けた。突然の申し出で洗礼盤には水も用意されていません。チャプレンは瞬間迷いましたが、そのご両親の申し出を了承したのです。そしてご両親の涙と自分の涙を指でぬぐって、「マギー、父と子と聖霊のみ名によってわたしは洗礼を施します」と言って、赤ちゃんの額にそっと指を触れ、十字を切って洗礼を行ったのでした。

主イエスは、その名の通り、悲しみの中にも「インマヌエル」、われらと共にいましたもう神のご臨在を示してくださるのです。そのことを覚えつつ、一週間を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年12月12日 待降節第三主日礼拝 説教)