説教 「信仰は神の働き」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マルコによる福音書 5:21-43

この日課を「マルコはサンドイッチが大好き」という題で呼んだら、みなさんはどう思うだろうか。マルコとサンドイッチ、一体どうつながるのか。どんなサンドイッチだろうとか、マルコの好きなサンドイッチでは、パンが大事か、間に挟むものが大事かなどと考えてみるのも楽しいではないか。

でもマルコは確かにサンドイッチが好きなのである。ひとつの話の間に、他の話を挟むという、語りの手法である。数えてみると、この福音書全体の中には、こういうサンドイッチが七個所はある。既に今年の主日の日課で取り上げてきたところでは、2:1-12がそうだった。イエスのことばに聞く大勢と、イエスを論難する律法学者との間に挟まれて、中風の者のいやしの奇跡があり、単なるいやしの奇跡物語から、ユダヤの宗教指導者とイエスとの深刻な論争へと緊張が高まっている。

先日読んだ3:20-30もそうだ。イエスを取り押さえに来る身内のものと、外でイエスを捜す母、兄弟姉妹の記録に挟まれて、「ベルゼブル論争」がある。ここでも、マルコにとって大事なのは、挟まれているものではなくて、挟んでいる状況である(同じく「ベルゼブル論争」を伝えるマタイやルカにとっては、この論争の方が重要と思われたので、この枠をすっかり換えることになった)。つまり、イエスの身内や家族以上に、イエスと群衆との間には密接な関係があったことを緊張を込めて伝えるというのがマルコの関心事だったことが分かる(これから読む6:7ー31、11:12-26なども同じくサンドイッチだ)。挟まれているものもそれぞれにとても大事だが、それによって挟んでいるものの重大さが一層の緊張をもって明らかになるというのが、マルコの意図するサンドイッチ効果である。

他の場合と違ってユダヤ教の指導者のひとり会堂長がイエスの助けを求めに来るというのも異常な事態である。イエスはこの求めに応えて彼と共に出掛ける。この途上で「12年間出血の止まらない女性」の一件が起こる。この女性にとって、病には万策尽きた状態であり、「服に触れでもしたら」というはかない思いがある。しかし、事態はそう展開し、力の働きをイエスはお感じになる。しかし、それに時間をとられた。会堂長ヤイロの娘にとっては、事は遅すぎることになった。「死にそうな」娘は「亡くな」ってしまった。泣きわめく人々の中に入ったイエスは少女の手を取ると、「タリタ、クム」(これが訳の分からない呪文であるという印象を避けるために、マルコはイエスの話したアラム語をギリシア語で説明した)と声をかけて、少女を起き上がらせる。とりわけ特別な状態における、イエスのいやしの奇跡の連続である。イエスの力が一層強く示されていることになる。

二つの場合に「あなたの信仰が」、また「ただ信じなさい」と信仰への言及があることに注目したい。イエスのいやしの、すぐれた力に対応する、人間の内の、強い信仰が指摘されているのだろうか。そうではない。人間にとっては所詮「主よ、信じます。信仰のない私を」(9:24)というほかないのではないか(少なくともマルコは繰り返しこのことを伝えている)。そうならむしろここではルターである。「ローマ書序文」で彼は「信仰とは私たちの内における神の働き」と言い切る。それだけに、続いて「信仰とは神の恵みに対する大胆な信頼」、神とすべてのものへの感謝を説く。

(1997年 7月27日 聖霊降臨後第10主日)