説教 「荒れ野で」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マルコによる福音書 1:12ー13

人は荒れ野でほんものに出会うのかも知れない。アフリカはカクマの難民キャンプでの、夏のボランティア活動を終えて帰ってきた学生から、そのような状況の中で礼拝に集まり、礼拝を守り、キリストのみをよりどころとして生きる人々の姿に迫られたと話しを聞いた。私も10年前インドで、辺境の、低いカーストの人たちの村でそうした体験をしたことがある。一生懸命、心から喜んで、神の家すなわち自分たちの家、教会とその礼拝に集まり、インド風のメロディーの讃美歌を歌っている姿には、ないものづくしの寒村で「聖徒の交わり」と出会ったという、厳粛な思いに導かれた。極端な貧しさへの同情などを越えた、衝撃的とも言える思いである。

「荒れ野の誘惑」の記事はマルコ福音書において、依然として「神の子イエス・キリストの福音の初め」に属する。マタイやルカ(いずれも四章)と違って、イエスとサタンとの問答を伝えずに、マルコは簡潔に「荒れ野のイエス」を我々に伝える。

イエスを荒れ野に導くのはほかならぬ「神の霊」である。荒れ野に導くものは「逆らうものの力」、「闇の力」、「サタンの力」であると、我々は認識しがちである。しかし、イエスは「神の霊」によって荒れ野に送り出されている。我々が荒れ野と思うところに導かれる場合も、そこに愛である神の霊の働きを見るべきでなかろうか。

神の霊に導かれて辿り着く荒れ野で初めて、「サタン」が誘惑する。そのようなとき我々の目には、「誘惑するもの」がすべてであり、ほかの何物も見えない。だから我々はまともに誘惑のただ中に落ち込んでしまう。イエスの40日間は違う。サタンの誘惑を「神の霊の導き」のもとで受け止めるからである。目に見えるところと違ったことが荒れ野の誘惑のただ中で見えてくる、体験できることになる。荒れ野にあるものと、ないものとが全く別のものとしてとらえられることになる。霊をもって導かれる神の愛のなかですべてを見、体験することになるのである。

イエスの導かれた荒れ野において、イエスの回りに立ち現われるのは「野獣」である。恐るべきもののイメージでとらえられるものである。「40日の間、野獣がイエスを脅かし、恐れさせたが、イエスはそれに耐えた」とあってもおかしくない。しかしマルコは、我々の表象に反して、イエスは「野獣と一緒におられた」と伝える。導かれた荒れ野でサタンの誘惑を受けながら、イエスは自ら進んで、そこで「野獣と一緒にいる」ことを選び取られる。神の霊に導かれた荒れ野であるから、本来恐るべき野獣も恐れる必要がなく、むしろ一緒にいるもののない状況の中で「一緒にいること」を実感する存在となっている。イエスにおいてこそ、荒れ野に「狼は小羊と共に宿り・・・」(イザヤ11:6)の実現が見られるのである。

荒れ野はまた、助けるもののない場である。孤立、孤独の場にほかならない。しかし、イエスの導かれた荒れ野では、サタンの誘惑のただ中で、天使たちがイエスに仕えていた、と伝えられる。

神が導くところ、神の愛の守りのあるところ、荒れ野はもはや荒れ野ではない。荒れ野のイエスの姿はこの事実を我々に告げる。我々が「不幸にも荒れ野に」と思う状況を、この事実は全く違ったように見せてくれる。

(1997年 2月16日 四旬節第1主日)