説教 「天の都に住む人々」 大柴譲治

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。




召天者記念主日

ヨハネの黙示録21章22~27節、 マタイによる福音書 5章 2~12節

『悲しみをみつめて』

『ナルニア国物語』で有名な英国人作家C・S・ルイスが、最愛の妻に先立たれたときに悲しみの中で書いた覚え書き”Grief Observed” が『悲しみをみつめて』という題で邦訳されています。そこには、悲しみのプロセスの中でルイスの心の動きが克明に、そして正直に記されていて心を打たれます。その最初に彼はこう書いている。

「だれひとり、悲しみがこんなにも怖れに似たものだとは語ってくれなかった。わたしは怖れているわけではない。だが、その感じは怖れににている。あの同じ肺腑のおののき、あの同じ安らぎのなさ、あのあくび。わたしはそれをかみころしつづける。また、別のときには、悲しみはほろ酔いか、あるいは震盪のような感じだ。一種目に見えぬ毛布が、世界とわたしを隔てている。わたしはだれの言うことも耳にはいりにくい。あるいはたぶん、耳に入れようと思いにくいのだろう。だれの言うこともまるで興ざめだ。それなのに、わたしはほかの人たちがまわりにいてほしい。わたしは家がからになった瞬間がこわいのだ。もし彼らがお互いに話しあって、わたしには話しかけずにいてくれるだけだといい。」(『悲しみをみつめて』新教出版社、5頁)

ルイスはしかし、やがて次のように考えるようになってゆくのです。

「わたしは死者もまた別離のいたみを味わうとしか思えぬのだが、もしそうなら(そしてこれは死者にとって煉獄の苦しみの一つだろう)、愛する二人にとって、また例外なく、すべての愛する二人にとって、離別は愛の体験のすべてに欠くことのできぬ一部なのだ。求愛の後には結婚が、夏の後には秋があるように、結婚の後にはそれがあるのだ。中途の切断ではなくて一つの段階、舞踏の中断ではなくて次の舞いの型なのだ。わたしたちは、愛する者の生きているあいだは、その者によって『自己の外につれ出され』る。それからその舞いは悲劇的な型にかわって、相手の肉体は姿を消しても、あいかわらず自己の外につれ出されるようにならねばならず、ふたりの過去を、ふたりの悲しみを、悲しみからの救いを、ふたりだけの愛を、愛することに舞い戻るのではなくて、彼女その人を愛するようにならねばならない」(同71~72頁)

召天者記念主日

本日は召天者記念主日の聖餐礼拝を守っています。お手持ちの週報に召天会員の名簿を挟ませていただきました。ここには 147名の方々のお名前がございます。この一年だけでも7名の方のご葬儀を私は執り行ってまいりましたし、先日は北森嘉蔵先生のご葬儀に川上さんたちとご一緒に参列してまいりました。愛する者を亡くされたご家族のお悲しみの深さを思うとき、私たちはただただ言葉を失います。この中にも、ルイスの書いた文章を人ごとには思えない方が少なからずおられることと存じます。

現在も一人の若い女性がガンのため最愛のご主人と病室で最後の時を過ごしておられます(注・福田千栄子姉は 11月4日に亡くなり、当教会でご葬儀が行われた)。今日明日が最後となると伺っています。あるいはまた、他にも何人もご入院中の方々がおられます。岡田神学生のお父様もガンとの闘病の中で、現在、ターミナルな段階を迎えておられる。ご看病に当たっておられるご家族の方々の上に神さまの支えをお祈りしたいと思います。

個人的なことをお話しすることをお許しいただきたいと思います。福山時代に親しくさせていただいた友人の奥さま香川逸子姉が一年余りにわたるガンとの闘病の末に10月22日に天に召されたというファックスを受け取り、私自身もこの一週間深い落ち込みを経験しています。そのカップルは一九九一年にご長女・知春ちゃんを四歳で小児ガンで失くされるという悲しい体験をされました。お二人とも福山YMCAの職員でしたが、その後奥さまは看護婦となるべく猛勉強を始められたのです。ようやく夢適って福山の国立病院付属看護学校を卒業した年の夏、去年の夏でしたが、ガンの発病を知ります。なんというタイミングか。電話で話したときの友人の「地上は寂しくなりましたが、天国は今頃さぞかしにぎやかでしょう」という言葉に私は心をえぐられる思いがしました。後に残された友・香川博司さんともう一人のお嬢さん・たりほちゃんの上に神さまのお守りを祈ります。

この中にも不治のご病気を抱えておられる方々、また、ご病人の看病に当たっておられる方々がおられます。最愛の人に先立たれた方も少なくありません。周りを見渡すと至るところでガンや様々な病気との闘いがなされている。そのことを思うとき、私たちは出口のない悲しみの中で嘆きたくなる気持ちになります。そのような状況の中で、私たちが死をどう捉えるか、復活をどう理解するかということが重要な問題となってきます。

残る「悔い」

この地上の生涯を閉じられた愛するご家族のことを思うとき、皆さまの中には様々な思いが去来することでしょう。先週も礼拝後に、「実は、亡くなった家内との結婚記念日で、礼拝の最初から最後まで涙が出てしょうがなかった」と私に語ってくださった方がおられました。またある方は、ご主人が亡くなられた時に病院から「どうしても遺体を解剖させてください」と依頼され断りきれなかったことを悔やんで、もう十年になる今でも、毎月命日にはお墓参りをしてご主人の墓前に「ごめんなさい」と謝っておられるというお話をお聞かせくださいました。

ああすればよかったこうすればよかった、また、ああしなければよかったこうしなければよかったという深い悔いが、故人を思うときに私たちの心には去来するもののようです。私たちの持つ「すまなかった、赦してほしい」という気持ちに対して、おそらく天の都に住む人たちは、「ありがとう、最後までよくやってくれた」という感謝の気持ちを持っておられるのではないか、そう思うのです。私たちはその時はよかれと思って、迷いつつも精一杯のことをします。しかしそれでも、後から思うと(結果が分かっていますから)いろいろ悔やまれることがでてくるのです。

“let it go”

「悔いのない人生を送る」という言い方はどうも私にはきれいごとに思えます。本当に悔いのない人生など送ることが人間にできるのか。自分を振り返ると、私の人生には悔いばかり残っている。あれもできなかったしこれもできなかった。ああすればよかったしこうすればよかった。牧師としても悔いが残ることばかりです。「悔いのない人生など送れない!」と思う。しかし、「悔いは残ったとしても、諦めのつく人生」ならなんとか送れるのだろうと思います。

英語では Let it go という表現があります。本来は「それ自身に行かせる、去らせる」という意味でしょうが、辞書を引きますとそこから「手放す、放り投げる」「解放する、自由にする」「構わないでおく、うっちゃっておく」そして「忘れる」という意味までを含んでいます。安易に “Let it go.”と言うと無責任になってしまいますが、これ以上悲しめないほど悲しんだり苦しんだりしているギリギリの場面で使われるとすればそれはたいへん慰めの深い言葉にもなります。そこには「諦める」とか「お終いにする」という意味が、さらには「お委ねする」「お任せする」というニュアンスが出てくるように思うのです。

「悔いは残っても諦めのつく人生」と言いましたが、それは「お任せする人生」「let it goの人生」でもあります。最終的には神さまに向かってすべてを委ねてゆく、神さまを信頼して生きる、そのような人生を私たちは信仰者として歩むよう召されているのだと思うのです。

神へと委ねる

悲しみや苦しみを神へと let it go する。それらを手放し、それ自体で去るに任せてゆく。私たちはすべてを神さまの御手に委ねてゆくことの中でそうすることができる。本日の第二日課であるヨハネ黙示録の「天の都」についてのみ言葉を聞くとき、私は特にそう思います。

ヨハネは都の中には神殿は見えない、必要ないと言う。なぜなら、「全能者である神、主と小羊とが都の神殿」だからです。そしてこの都には、それを照らす太陽も月も必要ない。「神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かり」だからです。諸国の民は都の光の中を歩き、地上の王たちは自分たちの栄光を携えて都に来る。「都の門は一日中決して閉ざされない。そこには夜がないから」だと語られている。信仰をもって召された者たちは、そのような「神の光の都」に住む人々とされてゆく。だからこそ私たちは、私たちの中に根深く残っている悔いやこだわり、悲しみなどをすべて神さまへと委ねてゆくことができるのです。

主の山上の説教の冒頭部分も同じです。「おめでとう、心の貧しい人々。おめでとう、悲しんでいる人々。天の国はその人たちのものである。その人たちは慰められるのだ」という言葉は、私たちの思いを遙かに越えて、神さまがすべてをよしとしてくださる世界が待っていることを告げています。神さまに委ねて行くことができる。

怖れに似た深い悲しみの中でこうルイスは書きました。離別は最初から愛の体験の一部であり、春夏秋冬の自然の移り変わりと同じように、結婚の後に必ず起こる出来事である。しかしその悲しみを越えて、愛は中断するのではなく、愛はいつまでも、どこまでも続いてゆくのだと言うのです。「愛は決して滅びない」(1コリント13:8)。ここには死を越えた真実の愛の姿が示されているように思います。愛は死によっても終わらない。完成へと向かって歩んでゆくのだと言うのです。このことが「わたしはよみがえりであり、生命である」と語りつつ、ラザロを復活させ、またご自身も死の壁を越えて私たちに神の究極的な生命を示してくださった私たちの主イエス・キリストが私たちに身をもって与えてくださった事柄なのだと信じます。

お一人おひとりの上に神さまの信仰と愛と希望とが豊かに注がれますように。 アーメン。

(1998年11月1日)