説教 「イエスの第一日」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マルコによる福音書 1:16-20

マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め(arxh)」と、イエスの物語の始まりを告げる。翻訳者はこの表記に苦心してきた。「はじめ」とすべきか、「始め」とすべきか、「初め」とすべきか。口語訳は「はじめ」をとり、新共同訳は「初め」と訳した。それが単なる「始め」「始まり」以上のものであると理解、解釈したからである。福音書記者が創世記1:1の「初めに」を思い起こしているのは明かである。ヨハネは福音書でも、第一の手紙でも、この「初めに」を意味深く用いた。そこには根源的な「初め」が意味されている。

それでは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と訳したとき、ここにどういう意味を見ようとしているのか。もちろん「始まり、始まり」という、語り部の呼び掛けでもある。「さあ、イエスの物語の始まりだ」と告げているわけである。しかし、あのギリシア語の単語はそれ以上のものを暗示している。「こうなってみると、イエスの物語の初めはこうだったのだ」「これはあの時が初めだったのだ」と振り返っている姿勢がある。問題はそこで「こうなってみると」とか「これは」というのはなにかである。

イエスの物語にとってそれは、十字架と復活にほかならない。十字架と復活はここから始まった「初め」をマルコははっきり認識して語り始めるのである。さらにこの「初め」は神の歴史のもっと広い広がりを見ている。再臨を予見しての「初め」である。イエスにおいて神の新しい時(エオン)の始まりを見、それを告げてもいる。マルコ第一章はその「初め」の、いくつかのことどもを我々に伝える。洗礼者ヨハネの出現もこれに従属的にかかわる。

それと密接に関連して、ヨハネからの「イエスの洗礼」が「初め」を示す。これがまさしく「イエス・キリストの福音の初め」を印する。イエスの洗礼というこの出来事によって、マルコが全福音書をもって明らかにしようとする、「イエスはだれか」という問いに対する最初の答えが示される。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。この天からの声には「霊が」伴うことにも注目すべきである。ヨハネの授洗行為は、この声と霊とによって完成されているからである。

「初め」の章はさらに、荒れ野の誘惑と、ガリラヤでの伝道の開始、その第一日を報じることへと続く。

何をするにせよ、私たちにとってすら、第一日は重要である。入学、就職、就任、いや、年の初めを考えてもよい。私たちだって、そういう時、やはりなにほどかの感慨や決意をもってその日に臨む。

イエスの伝道の第一日は、弟子選びから始まる。第一日のこととして記録されているのはこのことだけである。それもガリラヤの漁師四人をお選びになった。魚を捕るために「網打ちしていた」(原文)二人は「網」(複数)を捨てた。他の二人は「父と雇い人と舟」を後に残した。「私について来なさい」というイエスのことばには、そのようにして従わざるを得ない権威があった。イエスに従って、彼らはイエスと同じように「人間の漁師」となる。ルカの解釈では「人間を生かす者」となるのである。イエスの第一日。この始まりから起こることを、マルコ福音書に従って目を開いて見通したい。

(1997年 1月19日 顕現節第3主日)