説教 「イエスはたとえを超える」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マタイによる福音書 18:1-35

最初のご挨拶で、私は今回の武蔵野教会での奉仕によっても、私の説教が変わる、いや、変えられたいという希望と期待を述べた。1989年に一年間、田園調布教会で臨時の奉仕をしたときにそう感じたからだった。

半年余りが過ぎて、今私は既にそのことが起こりつつあると実感し始めている。端的に言おう。どこまで変えられていくかとすら感じているのである。具体的に言うなら、イエスのたとえを続けて、主日の日課として読むことが続いた9月から10月にかけてのことである。

イエスのたとえは心引かれる個所である。多くの研究書も注解もあれば、私自身このかなりのものに関心をもって取り組んできた。中には、擦り切れそうになるまで繰り返し読んだ、活用したドイツ語の解説もある。そうすることによって、私はこれまで、イエスのたとえにある「イエスの教え」を求めてきた。それで随分たくさんの信仰の学びをいただいたと思っている。

しかし今年、数回つづけてイエスのたとえについて説教を始めてみると、私はイエスのたとえを学ぶ、全く別の視点があることに気付かされたのである。

イエスのたとえには、なんでイエスがこんなたとえを、と思うようなものもある。「主人は不正な家令の利口なやり方をほめた」というようなたとえである。しかしもちろん、いかにもイエスにぴったりというものもある。「よいサマリア人のたとえ」などがそうだ。ところが、イエスはこのよいサマリア人ではないのである。サマリア人をはるかに超えておられる。強盗に襲われた人を助けて、サマリア人はなるほど親切だったが、彼は徹底的になにかを失ってはいない。確かに親切だが、少しのものを割いたに過ぎない。翌日は自分の商売の旅行に出掛けていく。それでよいのである。しかし、イエスご自身は、人間を助け、救うために、ご自分の命まで、すべてを投げ出された。これを見れば、イエスご自身は、自分で語られたたとえを遥かに超えておられることが分かる。

たとえを遥かに超えて、たとえの向こう側におられるイエスご自身を見る、イエスご自身に注目する、このことの必要と、このことによって与えられ、示される恵みに触れた、これが今回つづけてたとえを読み、説教した私のうちに起こされた変化である。

「仲間を赦さない家来のたとえ」を見よう。たとえでは、懇願に応えて一度は借金を帳消しにした主君だが、その家来が仲間を赦さなかったと知るや、この家来を獄に投じてしまう。しかし、イエスの教えは、赦しは「7の70倍」、つまり、とどまるところを知らず、無限に赦すというのである。徹底的な赦しがイエスのテーマにほかならない。ここでも赦しのたとえによって、寛大な主君においても起こりうる赦しの限度に対して、これを超え、これに挑戦するイエスの赦しが厳然として確立しているのである。たとえの最後にもう一度私たちはイエスのおことばを聞かねばならないだろう。それは「私は赦す、七の七〇倍まで赦す」という赦しの宣言である。

たとえの教えではなく、たとえを媒介にして示されているイエスご自身の姿に肉薄すること、これがイエスのたとえの意味なのである。もちろんたとえが教えていることにも注目してよい。しかし、たとえを超えておられるイエスご自身が、たとえをとおして私に一歩近づいてくださったと感謝している。

(1996年9月22日、9月29日、10月6日の説教より)