説教 「隣人とはだれのことか」 石居正己

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。




聖霊降臨後第14主日

 ルカによる福音書10章23~37節

 主イエスとの問答の記録は、よく注意してみてゆく必要があります。人々がイエス様に聞いているのに、いつの間にか人々の方が主から問われている。問われているだけでなく押し出されてゆく。そうした問答の一つが今日の日課であり、そうした問答の中に「良きサマリヤ人」の譬があるのです。

 ある律法学者が「先生、どうしたら永遠の生命を受けられましょうか」と主に聞いてきました。イエス様は逆に「聖書の中には何と書いてあるのか」と聞き返されました。そして彼の答えに対し、「よろしい、その通り行いなさい。そうすればいのちが与えられる」とおっしゃいました。

 「その通り行いなさい。そうすればいのちが与えられる」と主は言われました。しかし実はそれが問題だから律法学者は聞いているのです。その通り行うということが、何を聖書が言っているかは判っていても、難しいから聞いているのです。律法学者がどれほど意識していたかは別として、「わかっているけど、できないでいる」という現実が彼の問いの背後にあることが、暴露されているのです。

 ところが律法学者はそのことから目を背けています。よく知っている課題があり、それが出来ないでいる現実がある。しかし、何かほかの近道か、容易な道はないものか。「何をしたらよいのでしょう」という問いには、そういう思いが隠されています。そしてイエス様の真正面からの答えに、彼はもう一度自分を弁護しようとしました。「私の隣人とは、いったい誰のことですか」。それに対してイエス様は、全く違った問いを、改めて律法学者に対してなさったのです。

 もともとイスラエルの人たちは、隣り人といえば自分たちの仲間であるイスラエルの人たちを考えていました。せいぜい自分たちの中に共に住んでいる寄留の他国人をも含めていたくらいのことで、それ以上には積極的に隣り人の範囲を広げて考えるようなことはありませんでした。ところがイエス様はいわゆる「良きサマリヤ人」の譬で、もう一度律法学者に問い返されたのです。

 エルサレムからエリコに下る途中、強盗に遭い着物をはぎ取られ、半殺しの目にあった人がいました。ひとりの祭司が通りかかったけれども、倒れている人の向こう側を通って行ってしまった。レビ人も同じく見て見ぬふりをして行き過ぎました。ところが、ひとりのサマリヤ人が通りかかり、日頃はユダヤ人とは付き合いもせず敵意をもっている仲であったのに、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒で手当てをし宿の世話までしてやった。この三人のうち、誰が強盗に襲われた人の隣り人になったのか。そうイエス様は問われました。

 私どももいつも全く同じように、自分を中心にものを考えてゆこうとします。神様のみわざについても、ほかの人々の行為についても、社会の問題についても、私を動かない基準として考えようとします。聖書は隣り人を愛しなさいというけれど、私にとって隣り人というのは誰のことだろう。そのように問いを発しようとします。ところが、イエス様は全く違った形で私たちに問い返されます。ここにいるこの人、この人の隣り人に誰がなろうとするのか。相手の方が中心で、動かなくてはならないのは私の方なのです。

 良きサマリヤ人の譬の中の誰として私は登場してくるのか。私たちはいつも心して考えなくてはなりません。しかしその時にもなお注意してみる必要があります。ここに強盗に襲われた人がいます。強盗どもはいち早く逃げて消え去りました。そしてその後、積極的な意味で登場してくることはありません。レビ人や祭司は、同じ道をたどってきました。「あのような愛の心のない者たちになってはならないぞ」と私たちは思います。しかし、この人たちは強盗に襲われた彼に対して加害者ではないのです。単に通りがかりの者にすぎません。旧約の法によれば、死体に触れることはけがれを受けることでありました。彼らは倒れている人を、死者として見たのかもしれません。自分にも同じ危険が迫っているかもしれないと恐れたとも思えます。この譬の中で、加害者である強盗はさっと消えてしまいます。あとには被害者と、被害者同様おびやかされた者たちだけが出てきます。そして、この被害者とおびやかされている者とが、どう関わらなくてはならないのかが問題なのです。私も危ないのだということで何もしないことを弁護はできないのです。

 事実多くの場合、だれが加害者でだれが被害者か明瞭でないことがあります。教育ママで、その子を一生懸命叱咤しているお母さんと、その叱咤されている子供と、いったいどちらが加害者で、どちらが被害者なのか。お母さんにしてみれば、この子がちっとも勉強してくれないから、心配で私はこんなに痩せてしまってと、子供を加害者にしたてようとします。子供の方は「ママゴン」などといっておびえているかもしれません。おそらくどちらも被害者意識を持っていて、実は自分がほかの人に迷惑をかけ、思わぬ影響を与えていることに気づかない。そのような状態が私たちの実情ではないでしょうか。

 サマリヤ人は、いわばそういう状況の中に入ってきたのです。彼はそのような被害者意識を持っていません。サマリヤ人はユダヤ人から害を被っていたし、敵意をもっている間柄が両者の間にありました。けれども、彼は恐れず、軽蔑せず「いい気味だ」とも思いません。強盗はいつまた出てきてこのユダヤ人の被害者のように、彼を散々な目にあわせるかもしれません。けれども彼は自分も危ない、同じ目にあうかもしれないと逃げてゆきません。この倒れているユダヤ人が、自分の心を重くする。関わりあいになりたくないが、見捨てるのも気の毒だ。いったいどうしよう。こんな心に負担を与える存在を憎んでしまう。そのようなこともありません。彼は極めて素直に倒れている人に近づいてきます。何も自分の責任ではない。しかし、彼はここにある事態に自ら関わってゆこうとしたのです。

 私たちは慎重に身構えて、何か助けを与えることの出来るような、かわいそうな人がいるかな、と周囲を見回します。誰を私の隣人としたらよいだろうと探します。自分は安全に保てることを前提に気の毒な人に何かの助けを与えて、それで十分満足してしまいます。自分もまた同様の危険にさらされている状況、心の備えのない突然の出来事には、極めて弱いのです。しかし、このサマリヤ人は違います。そして私たちもこのような事態の中でも、進んで関わってゆく、いつでも隣人となってゆく愛を、強く持ってゆかなくてはならないと思うわけです。

 けれども同時に、一番初めの事を考えなければなりません。律法学者は、聖書の言葉を知っていて実はそれを行うことが出来なかったのです。それだから、自分で確信が持てないから、イエス様のところへやって来たのです。しかし、彼はそこで自分を弁護しようとしました。その事が問題だったのです。実際知っていても、そのように行うことが出来ないというのは、お互いさまです。私どもも全く変りはありません。

 「だれがこの人の隣り人となったのか」。イエス様の問いかけの中に、二つの面を感じさせられます。私たちは、「あなたも行って、そのようにしなさい」というお言葉に対し、その通りしっかりともう一度受け止めてゆかなければならない。私たちの行為で応えてゆかなくてはならないと思います。しかし、私たちは、そこまで深く出来るのでしょうか。本当に私は隣人となれるのか、という心配が消すことの出来ない本音としてあります。イエス様は、私たちが出来ない者であることを、表面的にならとにかく本当に深い意味でできない人間であることを、知っていられるお方です。「あなたの答えは正しい。行ってそのとおり行いなさい」と言われたお方は、この律法学者が行うことは出来ない、否すべての人ができないということを、ちゃんとと知っていられるお方です。だからこそ、十字架のゆるしへと、私たちへの神の赦しの愛を示すように進んでこられたお方なのです。

 自分を弁護するのではなくて、自分が出来ないでいる者であることを告白しなくてはなりません。座して考えているのでなくて、行うように立ち上がってゆかなくてはならないのですが、行ってゆく時に、実は私自身が行うことができず、誤解され、打ち叩かれて、半死半生の道端に倒れている者であることをを知らされるのです。そして、誰が隣り人であるのか。私にとって、良きサマリヤ人である主イエスを、この譬の中で見てゆかなくてはならないと思うのです。それがこの譬のもう一つの面です。

 路傍の他人でしかない私に、何の関係もない様に見えた私に、ユダヤ人にとってサマリヤ人がそうであったように私にとって異邦人であられる、異なる人、天からの人、イエス様が隣り人となってくださるのです。愛をもって関わり、責任を負ってくださるのです。

 そして同時に私たちは、この主を私の隣り人として得たからには、自分の被害者意識をさっぱりと捨てなくてはなりません。私がどんなにみじめで、無力で、傷つき、半死半生の態であっても、その私が「良きサマリヤ人」となるように、主は求められます。主が私の隣人となってくださったからです。

 しばしば引用される個所ですが、マタイによる福音書の25章には、「私の兄弟である最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのだ」というイエス様のみ言葉があります。それは主が人の仮面を通して私たちに近づいてこられることを示しているといってよいでしょう。私の隣人であり良きサマリヤ人であってくださるイエス様は、具体的なだれかれの人間を用いて私の手を引き、助け起こしてくださいます。そして、同じ主が、私もまた良きサマリヤ人であることを求めて、半死半生の人の背後にいられます。私の友人、私の先輩、知人である人を通してイエス様は私の隣り人です。私の助けを求め、私が手を貸すようにと求めている人たちに、私が隣り人となることによって、私はイエス様の隣人となります。私と私の隣人であられる主イエスとの間に、いっさいの人々がいます。私の隣り人として、私が隣り人となってゆかなくてはならない人々としています。私たちは、そのような関係の中に生かされているのです。

 主によって許されながら、またその主のみ言葉に従って、出来なくてもなお、そのとおり行いなさいと呼び掛けられています。私たちは今朝も、そのように呼び掛けられ、みむねに従って歩みだすようにと呼び集められています。そうすれば、いのちが与えられるという御約束のもとに。

(1969年8月31日)