説教 「憐れみの使者として」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マタイ福音書 9:35-10:15

主イエスの地上での働きの中心は「教え、いやす」ことであった。しかし教え、いやすときイエスが目を留めておられるのは単に、群衆の無知だけではない。群衆の病だけではない。イエスの教えといやしは対症療法ではない。群衆の状態の底にあるものを見つめ、見抜いておられる。そしてそれは、群衆が飼う者、導く者のない状態にあること、それゆえに「弱り果て、打ちひしがれているのを見て」おられるのである。教えといやしの中でこのことに注目し、このことに注目しつつ、教えといやしの働きをお続けになる。

だからイエスは「深く憐れまれた」のである。これはイエスの「内なるものの激動」を意味する。「はらわた傷む」のである。これこそ教え、いやす働きの中を貫く、イエスの基本姿勢にほかならない。群衆の状態は、群衆自身が気付いている以上に、イエスの心、イエスの腹の痛みなのである。群衆の痛みは、イエスの腹に響く痛みにほかならない。(これは私達にも向けられている、イエスの愛の目である。)教えといやしは、このような内なる痛みの、外に現れた働きにほかならない。

私達に与えられている日課が九章で終わっていないことに意味がある。日課が章を越えて続くケースは多くはないが、ここではこの継続に注目していきたい。(このところ続いている聖日日課も、いくつかの段落の集まったものが多い。こういう場合、説教者には二つの可能性がある。そのうちのひとつの段落だけを取り上げて説教するか、全体を通している主題、メッセージを読みとるかである。私は今年後者の試みを続けている)。

このような「はらわた傷む」深い憐れみ、内なる痛みは、直ちに弟子たちの派遣にもつながる。「腹の痛み」はイエスご自身のうちに止まらない。この思いは外にあふれ出て、働き手の派遣の必要を鋭く感じ取り、弟子たちを遣わそうという願いとなる。群衆のニードを確認して深い憐れみから出る、積極的な対応と働きへと展開する。

そのためにイエスは、12人を選び、準備し、装備する。整えるのである。それは知恵の装備ではない。「汚れた霊に対する権能」をもって装備するのである。この装備が霊的なものであったことが分かる。イエスに遣わされる者にとって、必要欠くべからざるものが、この霊的装備であることが分かるであろう。

霊的な準備、装備ができた後で、具体的な派遣が起こる。派遣には具体的な指示が伴うからである。弟子たちの派遣は、イエスの宣教の線上のことである。イエスご自身の教えといやしの中で育てられ、今直接イエスご自身によって派遣される弟子たちもまた、主イエスの教えといやしの働きに加えられ、用いられる。

かつての日、群衆への深い憐れみの中で、12人の弟子たちに起こったことは、今この複雑な社会の中に生きるキリスト者、私たちひとりひとりにも起こる。主の憐れみ、腹の痛みにも触れている、主の憐れみ、腹の痛みによってこそ、生かされている私たちもーいや、そのような私たちだからこそー「憐れみの使者」とされて、遣わされるのである。他者との出会い、他者との共生は、主の憐れみ、腹の痛みに基礎付けられ、主に派遣されて可能となり、私たちの課題になると言えよう。
(1996年 7月 7日 聖霊降臨後第6主日)