説教 「失せたものの発見」 石居正己

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。




聖霊降臨後第3主日

 ルカによる福音書15章 1~10節

 取税人や罪人たちが、皆イエスの話を聞こうとして近寄ってきました。ユダヤの古い律法の定めによれば、取税人、強盗、殺人、いかがわしい物売り、そういったものが罪人として記されています。しかし、そういう人たちだけでなく、広い意味で当時の人々が、あれはしてはいけないと考えていたようなことをやっている人たち全てを、罪人として考えていたと思われます。

 こういう様子を見ながら、パリサイ人や律法学者たちは、「罪人達と食事を共にしている」と、イエス様について批評をしました。人々の中に受け入れてはいけないような、爪弾きされる様な人たちを好んで自分のところに呼んで食事をするとは何ということだと言ったのです。

 この人たちの心には、イエス様に対する期待と自分たちについての自信があります。イエス様がこんな人々の仲間となられるべきではない。もっと立派な、恐らくは自分たちのような宗教的な人間を招いてくださるべきだと、彼らは心の中に考えたのだと思うのです。イエス様の中に、神様による権威を認めながら、自分たちの標準に合わないその行動に、ねたみ半分の批評をしたのです。

 その時、イエス様は有名な、また大切な譬を語られました。迷った羊の譬であります。羊飼いはいなくなった一匹の羊を追って、残りの九十九匹をそこに全部残して、捜しに出掛けてゆきました。おそらくはもう、いなくなった羊のことで頭が一杯になっていたのでしょう。野越え山越え、谷を渡り、林をわけて、その羊を捜しに行ったわけです。そうしてとうとう見つけた時、いとおしくてたまらず、自分の肩に乗せて家に帰り、それだけでなく黙っていられず、近所の人にも「一緒に喜んでください」と言って触れ回っているのです。

 ヨーロッパの有名な神学者ヘルムート・ゴルヴィッツァーという人が、ルカによる福音書の講解を書いています。そして、この羊の話の所につけた表題を、そのまま書物の表題としています。「神の喜び」という題です。それがこの話の、そして福音書全体の主題とされているのです。たしかに、私たちはここに、神がどういうことを喜ばれるのか、どのように喜ばれるかを学びます。神様のもとから見失われていたものが今見いだされる。それを喜ぶ喜びは、ひとり包んでおくことが出来ず、友人や隣人を呼び集め、「私と一緒に喜んでください」と、あふれ出る喜びなのだということが、私たちに告げられています。

 イエス様の譬は、その主題をしっかりつかまえてゆくことが必要なのですが、この譬を見るとき、それだけではないいくつかのことを考えても良いような気がします。この譬は、大変印象深い話ですけれど、話としてはいろいろな穴があるような気がするのです。

 羊飼いは、九十九匹を野原に残しておいて、迷った一匹を見つかるまで捜しに行くといわれています。昔から今に至るまで、この九十九匹について、あれこれ想像がめぐらされます。羊飼いは九十九匹をちゃんと檻に入れておいたのだとか、ほかの人が番をしていたのだとか、九十九匹自身がおとなしく待っていたのだとか、考えられています。私たちもこの九十九匹の意味することを、少し考えてもよいのではないかと思います。

 私たちが自分の状況を見てみると、ある意味ではイエス様の譬は譬として良い例が生かされているのだろうかと思わざるを得ない面があります。イエス様のみもとに確かに従っている羊は、むしろ一匹くらいのもので、他の九十九匹はどこかへ行ってしまったというのが実態ではないでしょうか。

 イエス様はイエス様は、この九十九匹を、皮肉な意味でパリサイ人や律法学者にたとえられたのかもしれません。主のもとに確かにいるのではなくて、羊飼いなる主のもとにいると自分で思っている人たちは、実は羊飼いを欠いている。自分たちは一番行儀の良い、敬虔な羊たちで、決して迷ったりはしませんと考えているパリサイ人や律法学者たちは、なるほどある程度の人数がおり、おとなしく神様のもとに集まっているように見えます。しかし実は、肝心な羊飼いは別のところで別の羊を捜している。実は羊飼いに本当に従っているわけではない。私たちはちゃんとイエス様のみ旨に従ってここに集まっております。間違ったことはいたしません。そうそう迷いもしません。そのように私たちが考えながら、羊飼いが散々苦労して迷った一匹を捜しているのを知らず、あるいはその苦労をただ迷った羊のせいにして、自分たちは知らぬ顔で、自分たちの交わりの中でじっと心を暖めあっている。それでは、本当の意味で羊飼いに従っている羊たちとはいわれないのです。

 羊たちはよい羊飼いの声に聞き従ってゆくのだとイエス様は言われました(ヨハネ10・3~5)その羊飼いが迷った羊をたずね求めて出掛けてゆくのなら、私たちもそれに従ってゆかなくてはならない面があります。人口の一パーセントに満たない位しかクリスチャンのいない我が国では、数的にいえば九十九匹の方が失われた羊であるかもしれません。当時のユダヤの場合は多少違っていたかも知れませんが、それでも迷っている者の多いのが、いつの時代、どの場所でも事実だったと思うのです。それだけ捜し求める主のみわざに従う必要があります。

 それと共に、一匹が迷っていると主がいわれたことの中には、数的な問題でない確かな意味があります。迷っているのは、何よりも先ず私自身です。ひとりの私です。羊飼いである主が、私一人に問い掛け、近づいて来てくださるのを見てゆかなければなりません。沢山の中で、どうでもよい一匹としてしか考えられていないのではなくて、私たち一人ひとりに、主は全力を注いで尋ね求められます。獅子が一匹のウサギを捕えるのにも全力を尽くすと言われるように、この羊飼いは私という一匹に向かってこられます。

 もし人が全世界を得ても、自分の魂を失ったらどうなるだろうと、イエス様は言われました。他の人と比べてそんなに価値のあるとも思えない、よい仕事をするとも保証できない私に、しかし何者にもかえがたい肝心な一匹であるように対してくださいます。私の魂が失われないようにと向かっておいでになります。失われた一匹の羊は、まさしく迷いだすような勝手な心しか持っていません。黄金の羊毛を生やしていたわけでもありません。数からしても、その性質からしても、それがうみ出すものを考えても、どうでもよい、取るに足らない一匹に、イエス様は全力を注がれました。み子自身が与えられました。十字架がその一匹でしかない私に向かって立てられたのです。

 神の大きな喜びの前には、大きな悲しみが先行しています。それは愛の悲しみです。一匹の羊自身の持つ価値によってではなく、迷った一匹に関わってゆく愛の悲しみであったのです。羊にかけられた神様の愛が、これをかけがえのない一匹としたのです。そしてこれを見いだして喜ぶのも、神の愛の喜びであります。

 けれども、私たちはまた、迷った羊を捜し求める神の追求がここに示されているのですが、むしろ逆の面もありはしないかと思います。私たちは何とか正しい、よい羊飼いを求めています。確かに信頼できる神様を見つけようと、私たちが探しているという面があるのではないでしょうか。あちらこちらと、まことの神を尋ね求めていた私たちが、ついに神に出会った。そういう譬もっ聖書にあってもよいのではないか。その方が私たちの実感にあっているのではないでしょうか。

 創世記第三章には、罪を犯したアダムとエバがかみさまのみ顔を避けて茂みの中に姿を隠したと記されています。神様はおいでになって、「あなたはどこにいるのか」と尋ねられました。しかし、神様は聞かないとどこにいるのかお分かりにならない、薮の中に隠れた人間を見分けることの出来ないお方ではない筈です。一匹の羊がどこに倒れているのか、分からないような方ではない筈です。ようやく見いだしたのは、羊飼いがあちこち捜した揚げ句だというよりも、実は問題であるのは、羊の方がようやく捜し求めていた羊飼いを見いだしたということではないでしょうか。

 神様のもとから迷いだしているのは、いわゆる罪人や取税人だけのことではありません。すべての者が、私たちみんなが、神様のもとから逃走しようとしているのです。そして、捜し求めてくる羊飼いである主をあくまでこばもうとしています。私たちが迷い疲れ、悪あがきをやめて、もう逃げおおせないと観念するとき、私たちは意外に身近に、私を捜し求め、恵みのみ手をのべてくださる主を見いだすのです。私たちが見いだしてゆくのでなく、私がだれによって見いだされ見守られているかを知らされるのであります。それはパウロが「今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに」(ガラテヤ4・9)と言う通りです。イエス様も「あなたがたが私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」(ヨハネ15・16)といわれました。私たちの実感の裏に、神のみわざの側面を見てゆかなくてはなりません。私たちが自分でする、自分で出来ると考えて進んで行こうとする時、いつも不安につきまとわれます。

 自分で出来る、私はこれだけ人から期待されているのだから、クリスチャンなのだから、と思ってやってゆこうとすると、どれほどのことが出来るのか、限りがないじゃないか、もともと自分に力があるのか、と不安にされてしまいます。そうではなくて、羊がとうとうくたばってもう動けないという状態になってしまったように、ジタバタしても駄目だと観念する時にそんな私をも、この羊飼いは見つけて、背負って帰ってくださる。私たちの罪を、私たちが出来ないでいることを、主は拾い上げて背負ってくださる。そういう風に見いだされることを見いだしてゆきたいのです。

 羊飼いは喜んで羊を肩に乗せ、家に帰ったと主は語られます。しかしこの言葉にも考えさせられます。背に負われたというのは、どういうことによってであったのでしょう。羊がもうのびてしまっていたので、かついでゆかざるを得なかったのか、頑固でまだ逃げようとするので、無理やりに背中にのせたのか。

 イザヤ書の9章には、預言者がメシヤについて述べている個所があります。「ひとりのみどり子がわれわれのために生まれた。まつりごとはその肩にある」。まつりごとはその肩にあるというのは、もともと王様が支配の権威を示すしるしを、ストールのように肩からかけていたことによったのでしょう。ルターはこの個所の説教で、まつりごと(政事)、支配、神の国は、キリストの肩に負われている。キリストの力と恵みに背負われていることによってこそ、神の国である。といいます。私たちも主に負われなくてはならない者たちです。背負っていただかないと動けませんという者かもわかりません。頑固で、無理にもかついで行っていただかないと仕方がないという者であるかもしれません。多かれ少なかれ、この二つの面を兼ね備えているのが私たちの実態であるかも知れません。

 いずれにしても、主は本当に喜んで背負ってくださるのです。私たちも自らを背負われている者として見いだしてゆくべきです。一匹を失ったことに大きな悲しみを覚えられる主が、一匹を回復した大きな喜びを告げられます。

 神の喜びに与るように、神の喜びのもととなるように、私たちは呼び掛けられています。悔い改めへと招かれています。動けなくて泣いている者も、とうとう主に捕まったと半ば悔しく、半ばは本当の安心を得ている者も、神の大きな喜びの中に合わされるよう、「一緒に喜びなさい」といざなわれています。主は私たちを見つけていてくださる羊飼いです。その方の喜びの問い掛けに、私たちも応えなくてはなりません。本当にこの主に喜ばれる一匹に自らなってゆきたいと思います。

(1969年6月22日)