説教 「試みに会う」 石居 基夫

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。




四旬節(レント)第1主日

マルコによる福音書 1章12~15節

ちょうど先週の水曜日が灰の水曜日と呼ばれ、その日から四旬節が始まりました。イエス様の受難、十字架の道行きに心を向けていくときであります。十字架の道行きというとき、もちろん、イエス様の生涯すべてがそこに向かっているといってよいのですが、単に、イエス様が十字架にお掛かりになるべきエルサレムにむけて確かな歩みを進めていかれたという旅の道行きをたどるということではありません。私たちは、イエス様が何を目指し、いや何のために十字架に向かわれたのかということを考えていかなくてはならないと思うのです。そして、そのときに私たち自身が、主の十字架への歩みに深く関わっていることを見出すのであります。イエス様は私たちのために、十字架に向かって歩まれたのです。それゆえに私たちはこの季節を悔い改めのときとします。それは神様との関係をもう一度自分の中に回復していくべきときという意味です。私たち自身が、十字架にお掛かり下さったイエス様によって神様との正しい関係の中に取り戻されるということを知り、また私たち自身がイエス様を通して神様のもとに立ち返っていくためのときを過ごしたいのです。

その受難節の最初の主日であります今日、聖書の個所は、イエス様が荒れ野で誘惑に、試みに会われたところです。イエス様が40日間荒れ野で過ごされ、そこでサタンから試みを受ける。ここでイエス様は神様の思いに敵対する者、野獣どもと闘われたのです。

この荒れ野で誘惑に会われた後、イエス様はガリラヤでの力強い宣教を始められたことが記されています。ですから、イエス様は、この荒れ野で試みるサタンを退けられ、神様の力を示されたといってよいでしょう。私たちはサタンをも退けられる力を表わし、イエス様がその宣教に向かわれたことを知るのです。

しかし、イエス様が試みに会われているというその姿は、実は私たち自身の姿を映しだしているのです。本来「試みな会う」のは、人間である私たちです。神様のひとり子であられるイエス様が、サタンの誘惑に会うとは一体どういうことなのでしょうか。それはイエス様がこの荒れ野でサタンの誘惑を受けられたのは、主が全く私たちと同じところに立て下さるお方であることを示しています。イエス様は、私たちと同じ苦しみ、同じ悩みを知って下さるお方として、私たちの本当の友となって下さったのであります。それで私たちは、試みに会われたイエス様の姿に私たち自身の姿を見出すのです。そしてまた、私たちは誘惑、試みについても学ぶのです。

誘惑や試みは、私たちを神様から引き離そうとするものです。神様とは関係なく生きることが出来るかのようにいざなうもの、私たちは多分、幾度となく、この試みに出会っているのです。いや、たった今だって生きるということは、とどのつまり自分の問題であって神様など役には立たないとささやく声を聞いているかも知れません。私たちは、どれほど信仰に篤くあるようでいても、このささやく声を自分の内に外に聞かないで過ごすことは出来ません。「神様など、結局関係ないのだ」。ささやく声を私たちは聞いているのです。

その誘惑はどこからやって来るのか。イエス様は荒れ野で試みに会われました。荒れ野。そこは孤独に包まれるところです。見渡すかぎり何もなく、命の息吹が感じられないところ。照り付ける太陽に灼かれ、身を守るものが何もない、厳しさだけがある場所です。死が隣り合わせているのです。このことから、私たちは、試みの持つ恐るべき性格を知るのです。神様から引き離されたとき、私たちはただ孤独と死が襲い掛かってくることを知らなければなりません。また逆に私たちが孤独や、寂しさや、空しさや、死を身近に感じているのであれば、それがサタンの誘惑のときだと知らなければならないのです。

イエス様は、40日間にわたって、そこにとどまられたのです。40日は、モーセが山に過ごし神様の戒めを与えられたときや、エリヤが山で神様に出会うまでに試練を受けたときと同じです。それは決して短い時間ではないことを意味しています。イスラエルの人々が奴隷とされていたエジプトを出て神様の約束の地カナンにたどり着くまでは40年と言われます。やはり、相当長い時間を表わしています。

私たちが試みに会うのは、決して短い時間でそこを切り抜けられるというものではないのです。いや、むしろ、私たちには本当に長い時間であるということが実は試みの姿であるといってよいのかもしれません。試みのときが決して短くはなく、長いということが、実は、私たちにとっての苦しみなのです。

例えば、私たちが病気になったとします。私たちは重い病気にかかるならば、なぜ神様は自分から健康を奪われるのかと思う。あるいは、私たちは、神様が守って下さるはずなのに、こんなはずではないと思うかも知れません。既に誘惑は始まっています。私たちに神様など本当はいないのだと思わせようとする試みがあるのです。

けれども、その時間が短いのであれば、きっと私たちは病気を与えられたことの意味を自分なりに見出すに違いありません。この苦しみを通して神様は私に何かを教えようとされたのだとか、自分には必要な病気であったとか、自分の傲慢を思い直すようにされたのだとか。私たちは試練からなにものかを学ぶのです。この苦しみのときに意味を見出そうとするのです。神様から与えられた意味を捜し出すのです。

しかし、もしもその時間が長いならば、どうでしょうか。私たちはたちまちにして誘惑のとりこになってしまいます。試練の時が決して短いものでないとき、私たちはそれを耐えるための意味を見出すことが出来なくなるのです。耐えるための力を失うのです。何のためにこの試みがあるのか。何のための試練であるのか。そして、結局は、「神様などいない」という結論だけがまるで当然のように私の前に口を開けて待っているのを見出すのです。

旧約聖書の詩編の中には、この長く続く試みに耐えかねたように祈られる祈りがあります。「主よ、いつまでですか」。「主よ、いつまでですか」。

深い悩みのうちに、私たちは神様に叫びます。「神様、もう十分です。私は分かりました。自分の罪、自分の悪かったことを改めます。だから、どうぞこの重荷を取り除いてください。私にはこれ以上耐えることができません」。それが私たちの叫びなのです。

しかし、それでも試練がなくならないとするならば、私たちはこのことに何の意味があるのか、何のために与えられるのかと思うのです。せっかく自分が悔い改め、神様に心から信頼していくことができる時がきているのに、それでも試練が去らないならば、私たちは再び、神様を見失ってしまうのです。そして、本当のところ、神様などいないのではないかと、改めて私たちは思わずにいられないのです。

そのときこそ、試練がもっとも厳しく私たちを試みている時です。そして、私たちは神様と自分との関係について思いを向けていかなければなりません。

「神様などいない」その通りなのです。私の思う、私に都合のいい神様などいないのです。私がこのように思い私がこう考えたから、それにぴったり合うような神様を私たちが求めているのであるならば、私たちは神様を自分の頭の中に納めてしまっていることになるのです。私たちは、私の思いをはるかに超えた、確かな神様を知らなければならない。そして、その神様と私との関係を、今一度私たちは求めていきたいと思うのです。

けれども、私たちは一体どのようにして、この私の思いを超えた神様と再び結び付いていくことが出来るのでしょうか。恐らく私たちはもはや自分の為すべきところを知らないのです。そして、もし私たちが、諦めや絶望のうちにと留まるなら、試みは見事に私たちから神様を奪い去ったことになります。

しかし、私たちはその時にこそ、イエス様が私たちのために試みに会われ、私たちにその試練に打ち勝ちたもうたことを知りたいのです。イエス様はこの試練の只中で、私とともにいてくださるのです。

試練は長く続きます。しかし、終わりがないのではありません。40日をもって終わる。それは、イエス様の勝利によって終わるものなのです。次には新しい一歩が始まるのです。私たちは、イエス様を信じイエス様とともにあることによって、この勝利に与る者となる。そこに、私たちは本当に大きな希望を持って良いのだと、約束されているのです。

イエス様は、私たちのために私たちの受ける試みに会われ、真実の友となり、私たちのためにそれに勝利されました。この主に心から信頼をして、試練の中にあって、なお希望を持ち、私たちに与えられた時を生き抜く者となりたいと思うのです。

(1994年2月21日)