説教 「地の塩、世の光」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ
を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




 

「あなたがたは、地の塩である。あなたがたは、世の光である。」( マタイ6:13-16)

塩は、ものを保存するため、光はものを照らし出すために用いられる。塩も光も、それ自体のためにではなく、周囲に力を及ぼすものとして働く。

あなたがたは、地の塩である。世の光であると、主は言われた。私たちは、つねに自分の主張、自分の考えを通してゆきたがる。勝手なことを考え、勝手なことをしたい。しかし、塩とか光とかにたとえられる働きは、人々を保ち、支えるための仕事である。自分をあらわし、人をさばくのではない。

闇夜のからすは、真黒なすみの中にぬりつぶされてしまう。光をさける人間は、周囲の闇の中に埋もれてしまう。いっさいの相違はぬりつぶされ、自分自身の限界は見失われる。私どもの声は、広い大きなくらやみの声のように、思いこまれてしまう。

塩や光の示す連帯性は、それとは全く逆の意味をもっている。光はすべてのものの実体を明らかにする。明らかになるだけではない。「明らかにされたものは皆、光となる《(エペソ5:14)私たちは、自分の限界や罪を知らされながら、しかも積極的な連帯へと向うようにうながされる。

しかも、このようなみことば、山上の説教のみことばは、だれがだれに語られたのであったかを、明らかにみてゆかなくてはならない。「あなたがたは……である《といわれている。あなたがたは塩のようであれとか、世の光となれとか言われているのではない。しかも、これは山上の説教の中のことばである。マタイによれば、これを聞いたのは、長い訓練をへた主の弟子たちではない。すべての主のみことばに耳をかたむけようとする人々に語られている。

それは単にあの山上にいた人々だけではない。すべての人を対象としている。吊前を削除されるべき人はひとりもいない。だれひとり自分は違う、自分はとてもまだそんなみことばを聞く資格などありはしない、私はその語りかけとは無縁な、ちょっとぬすみぎきしているやじうまにすぎません、などと言うことはできない。すべての人に「あなたは、地の塩、世の光である《という主のみことばの呼びかけがなされている。

それは全く無茶な暴言のようでさえある。私たちは、「~である《といわれるほどの準備は全くないからである。主は全く冗談を言っておられるのだろうか。あるいはこれは、人間の中にあるよさをまことに楽天的に認められたみことばなのだろうか。皆が多少とも、心の中に光をもっているのではないのだろうか。

主は人間の罪性をあきらかに認めていられるのだから、そう楽天的になるわけにはゆかない。むしろ私たちは、これを語られた主がいったいどういう方であるかをこそ、考えてゆく必要がある。

主ご自身が「世の光《でありたもうた。暗さの中に来りたもうたまことの光(ヨハネ1:9)であった。すべての人を明らかに照し出す光であり、どんな人にもその限界とみにくさを明らかにされる。どんなかげの人、見逃されようとする人をも神の恵みの光の中に入れられる。神よりの救いを私たちにみちあふれさせたもう光である。

主ご自身が「地の塩《でありたもうた。自らを十字架につけつつすべての人への救いを成就し、あがない、支えたもう。

私たちは、このような主によって、しかも神による権威にみちて(マタイ7:29)呼びかけられている。いつの日か、このようになるようにとではなく、このことを根拠に考え、成長してゆくようにとではなく、始めであり終りである方としての権威をもって宣言される。主が十字架を負い、私たちの罪を引きうけ、神の子とよんで下さるからである。

私たちは、くらやみに属する者のように自らをかくしてはならない。群衆の中に顔を失う者となってはならない。神の光を示すものとなってゆかなくてはならない。

私たちは、味を失った者となってはならない。ことばにも行状にも、健全さ正しさを忘れてはならない。それだけでなく、人々の中で単に批判的なことば、いやみな行状、裁きの心でなくて、ユーモアをもって正しつつ、建設的な態度を忘れてはならない。すべての人々の、それぞれの立場や気持ちに同情できる広さをもち、すべての人々に神による希望をわかち合ってゆくように努めてゆかなくてはならない。私たち自身も、塩であり光である主に清められ、支えられながら、「あなたがたは塩である、光である《という呼びかけ、宣言を正しく受けとめてゆきたい。

◎以上6編の説教は『武蔵野教会だより説教集 1969年1月号』より復刻