説教 「招かれた人々」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




三位一体後第20主日

(マタイ22:1-14)

天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。イエスは、たくさんの天国のたとえのひとつとして、婚宴のたとえを語られた。それは、どこかに清く静かに、美しく存在している天国の様子をえがき出し、天国に対するあこがれをかきたてられたというのではない。天国は、会社のデスクに坐っていたり、機械油にまみれたり、台所でぬかみそをかきまわしたり、教科書をひろげて勉強していたりする、わたしたちの毎日の生活と関わることとして告げられる。わたしたちが眺めている画面としてではなくて、わたしたち自身が登場人物であり、わたしたちにかかわる招きとしてこのたとえは語られる。そして、わたしたちは。このたとえの中に登場する特定の人物ではなく、AでもBでもCでもあり、またそうありうる者として存在している。

さて、天国はひとりの王が王子のための婚宴をもうけられるようなものであるといわれる。ところがこの云い方の中には、少し現実的でない面がある。王が、どの程度の王としていわれているのか定かでないが、どんな小さい領土の王であろうとも、王であればそれ相応の権威をもっていてもよい。婚席に文武百官がきらびやかに立ち並び、国中をあげて、お祝いをするということであってよい。それに招かれた人々は、一世一代の光栄として、喜び勇んで出かけるだろうということが、王子の婚宴というできごとが、われわれに想像させることである。

ところが、ここに語られている王は、まことに権威のない、力をふりまわさない王である。みんなの中のひとりとして、身をかがめている王である。招かれた人々が、いよいよの時になって、ことわっても平気であるような相手である。しかし王である。

わたしたちは、信仰をもって見なければ、そんな重大な招きとわからない招きに出会う。大したことではないような宴の中に、まことに決定的な神の招きがひそんでいる。

しかも婚宴に招かれるのは、結婚する当人たちと親密な交わりをもっている人たちであり、当人たちの喜びを自分の喜びとしてくれるような人たちにほかならない。選びに選ばれて、婚宴にかくことのできないような人たちが招かれる。ぜひに来てもらわなければ、王も王子も、司会者も淋しいばかりか、予定がくるって困惑してしまうかもしれない。

招かれていた人々は、いざの時になって、行くのを中止した。もっと忙しい、だいじなことがあるという口実で、肝心な招きをことわった。彼らは、ほかの人の主催に招かれてゆくような時間も気持ちも持っていなかったのであろう。自分が招く立場に立ちたい。そしてそれに来ない人でもあれば、さんざん怒るでもあろう。自分を中心に、自分も王でありたい。自分が成功した時には、やがてあなたも招いてあげるから、きょうのところはかんべんして下さいと言うつもりであったかもしれない。神の招待を今は受ける余裕もないが、そのうち、神さまあなたもご満足ゆくようにお招きいたします。

そこには、ほかの者の意志に、神の意志と喜びに喜んであずかりましょうという心はない。自分の人生は自分のものであり、これを犠牲にしてほかの人のことを考えることはない。善人でも悪人でも、区別はない。この婚席に連なることのできる唯一の資格は、神の喜びに与るということである。すなおに、驚きながら、与ってゆくのである。人間的喜びの満足ではない。

しかし、ここにしいて連れてこられた人たちの中にひとりだけ礼服をつけていない者がいた。近東の習慣では、家の入口で礼服をうけとって、つけた。したがって、礼服をつけていなかった者だけが、準備ができていなかったのではない。すべての者が、自分の資格も準備ももってはいない。ただ神の備えたもうた準備を受けとってゆくだけなのである。礼服をつけなかった人は、それをしない。自分なりの礼服をつけていて、それに自信があったのかもしれない。正しい入口から入ってこなかったのかもしれない。そこにもすなおに神の喜びの意志に与ろうとしない心がある。

いったい何が神の喜びであったろうか。王子であるかたの婚姻である。黙示録には、小羊の婚姻が、教会がその花よめのように備えして、天よりくだってくることがえがかれている。聖書はいろいろなイメージを自由に用いている。婚宴に招かれる者が信仰者であると共に、同時に王子の婚姻の相手である花よめが信仰者でもある。

信仰に縁のないもの、世俗の仕事に忙しいというものも、みな神の招きにあずかっている。この婚宴にたいせつな、かくことのできない者として登場しなければならない。神の喜びのわざは、われわれとの和解があると共に、その喜びにあずかるように求められる。

外の闇におい出された者の姿は、この美しい、清い喜びにふさわしくない不協和音である。それは、この神の喜びのわざがよいかげんなものでない、真剣な恵みのわざであることを示している。

わたしたちをお互いもまた、主の招きを受けている者である。どのようにそれに応じるかを、きめてゆかなければならない。まことに神の喜びたもうことを知り、与ってゆかなければならないのである。

(三位一体後第20主日)

◎以上5編の説教は『武蔵野教会だより説教集 1968年1月号』より復刻