説教 「東方の博士たちの捧げ物と一冊の式文」 賀来周一

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。




顕現主日

マタイによる福音書 2章 1節

日本福音ルーテル教会の初期の伝道の歴史を記したものにピーリーの『日本伝道開始の記録』というのがある。訳者は青山四郎先生である。同書によると、ピーリーとほとんど同時期に来日したシェラーは、明治25年(1892年)二月、最初は東京に足を踏み入れている。翌年一月、宣教の働きを佐賀で開始するため、英語教師として赴任することとなった。英語教師の方が宣教師として伝道地に赴くより抵抗がなかったからだとピーリーは記している。

シェラーは、ほどなくだれも借り手のない一軒の借家を借りて、日曜日に礼拝を始めるが説教が始まるや怒号と投石に悩まされたらしい。九州でも佐賀はことに封建色の強い土地であったから、宣教はいたって困難を極めた。

ほどなく、最初の受洗者が誕生することになるが、その人の名を清水徳松といい、二十六歳になる大工さんであった。シェラーと彼を助ける山内量平牧師は、三年間の信仰訓練を清水徳松にほどこし、やがて洗礼式が行われることとなった。洗礼式は、シェラー宣教師の書斎、そして、その場に列席したものは合わせて五名にすぎなかった。けれども、このたった一人の受洗者のために、最大の努力を払って洗礼の式文が作成されたとピーリーは記録している。

ただ一人の受洗者のために、最大の努力を払って受洗のための式文を作成したことは、ことに特筆されてよい。式文とは礼拝を定める大切な言葉と順序を含んでおり、幾世紀にもわたって、教会が信仰を最も高められた形で表現するために、みがき抜かれてきたものである。とうてい簡単に作り上げることができるものではない。おそらくは何百人、何千人の会衆が繰り返し使用して、不備を正し、次第に完全な形に整えられてきたものにちがいない。そうした歴史と伝統と信仰の中身をもっとも濃密に抱え込んだ式文を、たった一人の受洗者のために作成した努力を高く評価したい。通常の感覚で考えれば、更に十人、二十人と受洗者が増えて、礼拝らしい雰囲気がでてきて考えれば良いようなものである。けれども、初代のルーテル教会の宣教師は、この点で手抜きをしていない。たとえ、たった一人の受洗者であっても、そして司式者も含め、たった五人の礼拝出席者であっても、信仰は珠玉のように輝くのである。そしてそれにふさわしい式文は是非ともなくてはならぬものであったに違いない。

今、最初のクリスマスの出来事に思いを馳せている。おそらくは、この幼な子イエスを中心とした最初の礼拝も五人であったと思われる。三人の博士とそしてヨセフとマリヤがそこにいたに違いないからだ。しかも教会というにはあまりにも懸け離れた馬小屋であったことを考えれば、佐賀のシェラー宣教師の書斎での五名と何となく符合するではないか。

博士たちは手にした最大の贈り物を幼な子に捧げた。おそらくは、それ以上高価なものは当時他にあるはずはなかった。考え得る最高のものを、博士たちは捧げている。しかも、それを捧げるには、ふさわしい環境をもっているとは思われない。貧しい場所には貧しいものがふさわしい、そう思うのが私たちの論理である。

クリスマスはその論理を破る。

(1986年)