説教 「起きよ、光を放て」 大柴譲治

イザヤ書60:1-6/マタイ福音書2:1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

2007年最初の主日礼拝にあたって

新年おめでとうございます。2007年の最初の日曜日、ご一緒に聖餐礼拝を守れることを感謝いたします。しかしこの一週間はいろいろなことがあって大変長く感じられた一週間でした。

毎年1月6日は顕現日、主の栄光が異邦人にも現わされたことを覚える日です。福音書の日課は東からの占星術の博士たちが黄金、乳香、没薬をもって拝みに来る場面です。そこではイエスさまが「ユダヤ人だけの王」ではなくて「全世界の王」であることが宣言されている。本日は主の栄光の顕現ということに焦点を当てて、み言葉に聴いて行きたいと思います。

主の栄光の顕現

イザヤ書60章の預言がイエスにおいて成就した。これは真に味わい深い光の到来宣言です。

起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で、  主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい、
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、
おののきつつも心は晴れやかになる。
海からの宝があなたに送られ、国々の富は
あなたのもとに集まる。
らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、
あなたのもとに押し寄せる。
シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。
こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。  (イザヤ60:1-6)

二つの対極的な反応

この光に対して二種類の正反対な人間の反応があることに注意したいと思います。一方では喜びに満たされる人がおり、他方では恐れや不安に満たされる人がいる。ちょうど光が照るとその反対側に影ができるのと同じです。

東からの学者たちは喜びに満たされました。それゆえ黄金、乳香、没薬という三つの高価な献げ物を携えて、あのアブラハムのように行き先を知らないで出発したのです。ここで「三つの献げ物」が何を意味するかは諸説あります。「黄金」は王としてのイエス、「乳香」は神としてのイエス、「没薬」は人としてのイエスを意味すると説く立場もあります。それが占星術の商売道具であったとする説もあります。いずれにせよ、それが高価な宝物であったことは論を待ちません。しかもその旅は星に導かれての旅でした。暗闇の中で星と足下の両方を確認しながらの困難な旅です。懐中電灯もなければ、舗装された道路も街路灯もありません。また博士たちはおそらく高齢であったことでしょう。人からは「何と無茶な!無鉄砲なことをするな」と止められたり、「大人げない」と笑われたかもしれません。強盗に遭うかもしれない。

しかし、彼らにとってそれは大事なことでした。どこか遠い国の、自分には関係のない出来事ではなかった。馳せ参じるよう星の光が彼らに呼びかけていたのです。戻ってくることの適わない旅かもしれません。彼らは人生を賭けて旅立った。それは彼らがその星を見つけてそれほど大きな喜びに満たされたからです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とある通りです。この光を見出すこと、それは生きることの本当の目的と意味と方向性とを知るということなのです。彼らはこの光と出会って生きることの喜びを知りました。シメオンの讃歌と同じ喜びの調べがそこには感じられるように思います。

光を見て喜びに満たされた者がいた反面、恐れと不安に満たされた人たちもいました。領主ヘロデとエルサレムの人々がそうでした。エルサレムに辿り着いた博士たちから「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という言葉を聞いた領主ヘロデやエルサレムの人々は、不安と恐れに囚われました。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。その光によって自分たちの生活が脅かされると感じたのです。

この光は確かに人間の中に不安を引き起こすのです。ヨハネ福音書はそれを独特な言い方で表現しています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3:19-21)。

光に対する反応が真っ二つに分かれると申し上げましたが、何が二つを分けるのでしょうか。何が喜びと恐れとに分けるのか。ヨハネ福音書はそれを「悪を行う者」と「真理を行う者」の違いであると見ていますので、何が悪を行う者と真理を行う者を分けるのかと問うこともできましょう。しかしそれほど簡単にシロかクロか分けることができるのでしょうか。私たちの中にはその両者が混在しているように思います。私たちはシロクロまだら、あるいは灰色の存在ではないのかとも思います。

杉谷克忠兄の最後のちらしと愛唱讃美歌『主にしたがいゆくは』

ここに一枚のチラシがあります。クリスマスのちらしです。これは1月3日に75歳で天の召しを受けられた杉谷さんが作って下さった地上での最後のチラシとなりました。伝道熱心な杉谷さんのことですから、天上でも伝道委員会に入って頑張ろうとしておられるかもしれません。そこにはこう記されています。「むさしの教会の輝くステンドグラス、響くクリスマスキャロル。クリスマスにはぜひ教会へ」。杉谷さんの熱い思いと祈りが込められたキャッチコピーです。

杉谷さんはこの場所に、このステンドグラスの前に多くの人を招くことを自分の使命/天職と考えていました。「(主キリストに仕える)武士の一分」という言葉で告別式で語らせていただいた通りです。このキリストに光の中にこそ私たちの大きな慰めと平安と喜びがある。そう信じておられたのです。

厳格な明治時代のキリスト者であるお祖母さまにローマ書5:1-11を繰り返し暗唱するよう鍛えられたと杉谷さんは証しされていました。「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というあのパウロの言葉です。杉谷さんは幼い頃にご自分のお母さまを失うという悲しみを通し、また椎間板ヘルニアという痛みを通して、このみ言葉の力に支えられ生かされてきたのでありましょう。闇の暗さに苦しんだからこそ、キリストの光の中に大きな慰めと喜びを見出すことができたのだと思います。

私たちもまた苦しむこと、悩むこと、悲しむことを通してキリストにまで導かれる。ヘロデやエルサレムの人々は不安や恐れの中に自分を閉ざしました。その結果は悲惨なベツレヘム周辺の2歳以下の嬰児殺しです。人間の闇の深さに震撼させられます。しかし東からの博士たちは光に向かって心を開き、すべてを託しました。

光を見上げ、光に従う時、そこには大きな喜びが与えられてゆく。杉谷さんが愛唱讃美歌としてこどもさんびかの『主にしたがいゆくは』を歌っておられたことを思い起こします。今は天国にあって、あのよく響く声で聖徒の群れの聖歌隊に加わって大合唱をしておられるのではないでしょうか。

十字架という艱難を最後まで忍耐して背負うことを通して私たちに罪の赦しと神との和解と復活の希望を与えて下さったお方がいる。あのステンドグラスに描かれた私たちの羊飼いの愛の力が、私たちを清め、強め、私たちを恐れと不安の中にある者から喜びに生きる者へと造り変えて下さるのです。自分を捨て、自分の十字架を負って主に従う時に、私たちには大きなキリストの喜びの祝宴が約束されているのです。

主にしたがいゆくは いかによろこばしき
心の空  はれて  光はてるよ
みあとをふみつつ  共にすすまん
みあとをふみつつ  歌いてすすまん

主にしたがいゆくは いかにさいわいなる
あしき思い きえて 心はすむよ
みあとをふみつつ  共にすすまん
みあとをふみつつ  歌いてすすまん

主にしたがいゆくは いかに心づよき
おそれのかげきえて 力はますよ
みあとをふみつつ  共にすすまん
みあとをふみつつ  歌いてすすまん

本日私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「あなたの罪のゆるしのために流すわたしの血における新しい契約」と言って私たちにパンとブドウ酒を差し出して下さるお方がいる。私たちもまたこのお方の与えてくれる救いの光の中をご一緒に、歌いながら、主に従ってまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年1月7日 主の顕現主日聖餐礼拝)