説教 「木と枝」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




▼三位一体後18主日

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」(ヨハネ15:1-17)

ぶどうは、世界中で一番多くとれる果実である。しかし、もともとの原産地は、西部アジアであり、有史以前から人々に利用にされてきた。イスラエルの人たちも、古くから沢山のぶどうを食用に供していた。イスラエルのシンボルのひとつとして用いられたくらいである。

しかし、預言者はぶどうの木にたとえられたイスラエルに対してまたきびしい戒めをも与えている。

「人の子よ、ぶどうの木、森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか。その木は何かを造るために用いられるか」(エゼキエル15:2-3)。つる木であるぶどうの枝は、枝としては何の利用されることもない。「見よ、これは完全な時でも、なんの用をもなさない」。

それにもかかわらず、主はそのぶどうの木と枝とに、自らと信ずる者との間をたとえられる。ぶどうの枝は、それぞれの部分だけで用いられない。枝だけでは、何にも用いられない。全体として、生きて、実を結んでいるものとしてのみ、それは有用である。

主は、「わたしにつながっていなさい」、「わたしの愛の中にいなさい」、「わたしはあなたがたとつながっていよう」といわれる。そこには、二様の結びつきが示されている。あたかも外にある二つのものがつぎ合されるように、つながっていよ、ということと、愛のうちに、内的な交わりの中にあるということの二つである。

主イエスとの交わり、結びつきは、つねにこの二面をもっている。それは決して外面的な結びつきだけではない。しかし、愛の中にあるといって、心理的、感情的なものにひたっているだけでもならない。

ぶどうの果から作られたものが、契約の血として用いられたように、主イエスとの結びつきは、贖罪の血による結びつきである。外面的な似かよいや、単に内的な心の問題とだけは言うことができない。だから、それはまた、私たちが主に従い、主のみことばにとどまる以上に、主が私につながり主が私を赦し、生かしてくださる力によっている。

このつながりは、しかものびてゆき、実を結んでゆく結びつきなのである。

愛は、たまり水になるときにくさってゆく。矢内原忠雄先生は、ひとから「あなたは、神の愛が足りないから、人の愛を求めているのではないか。人から大事にされたいのではないか」といわれて、がく然となったということをしるしておられる。ただ貪欲に求め、たくわえてゆこうとする時、肝心の愛そのものが変質する。それは常に広がってゆき、あらわされてゆき、伝達されてゆく時にこそ、常に新しい、力ある、そしてみちたりた愛を、ぶどうの木である主から受けることができるのである。

枝が実を結ぶのは、枝自身の力ではない。枝の実を結ぶのではない。ぶどうの木の実を結ぶのである。私たちが何かの結果を求めてあせってはいけない。私たちが手先でこねくり作るのでなくて、木自身が力と時に従って、実を生じる。

とても立派な枝とはいえませんが、かろうじてはしにつらなっている枝です、と謙遜して言いたがる。しかし、そのはしの小枝にこそ、実は結ぶ。その実によって、木全体がはかられもする。そして、枝であるわたしたちは実を結ばせるのであって、あなたはおいしい実を食べることができますよといわれているのではない。実によって、喜ぶことのできるのは、ほかの人々であって、われわれ自身ではない。いいかえれば、結ばなければならない実は、私自身のためではなく、隣人に仕えるためなのである。だからこそ、「行って、実を結」ばなくてはならない(ヨハネ15:16)。

パウロは、御霊の実の例として「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」をあげている(ガラテヤ5:22)。私たちは、自分自身の救いについて心配するのでなく、本当に、人々のために、キリストご自身の働きとして、豊かに実をむすぶことができるように、しっかりと、生き生きとみきに固着していたい。

(1966年 三位一体後18主日)