「読書会ノート」 ツルゲーネフ 『散文詩』 岩波文庫

ツルゲーネフ 『散文詩』 岩波文庫

鈴木 元子

 

「読者よ、この散文詩を、ひと息に読み給うな。今日はこれ、明日はあれと、気の向くままに読み給え、その時、中のいずれかは、ふと君の心に触れるかもしれぬ。」ツルゲーネフ自身がこう告げるように、80篇余の散文詩は一つ一つ深い意味をもち、私達の心を現実の世界から形而上の思惟の境地に導いてくれる。

彼は同じ神の被造物である人間の傲慢を指摘し、ノミ一匹にも神の憐れみがかかっていることを示し、自分が関わる犬や猿とも心情の通い合う経験をし、小さな鳥に見る愛と勇気に励まされ、番の鳩の深い慈しみの姿に自らの孤独を慰める。

六十五才で世を去った彼が病身の晩年五年間の作だけに、老いや死への思いを綴る作品は多い。砂時計を見つめる様な生の終末への戦慄。広い海原を翼休める島影も見い出せず、遂に海に落ちる鳥の姿や、群の中一羽だけ射落される小鳥の運命に、また人の身を重ね合わせる。

「仕合わせならんと願うなら、まず学べ、苦しむ術を」(処世訓)のこの結びは意味深い。苦しみから逃げず、苦しみを経て与えられるものの貴さを知る。信仰に生きる者ならば、自分の苦しみが神のそれに融合されたとき、苦しみは平安に転換される。

ツルゲーネフはよく夢の話を記す。『キリスト』と題して「自分がまるで子供になって村の教会にいる夢を見た。薄暗い古びた聖像の前に大勢の人々が立っている。ふいに誰かしら後の方から歩みよってわたしと並んで立った。すぐにその人がキリストだと感じた。わたしは思い切って隣の人の顔を見た。当り前の顔だった。『これがキリストなもんか』と私は思った。『こんな当り前の普通の人が!』私が眼を外らすかそらさないうちに、この人はやはりキリストなのだという気がした。また勇気を出してふり返った。またもや同じ顔。すると急に悲しくなって眼がさめた。その時はじめて、普通の人と少しも変わらない顔–それこそ正にキリストの顔だと悟った。」

 

–キリストはいつも普通の人の中に宿って、その手を用いてみ業をお届けになる–私にはそう思われた。