「読書会ノート」 講演会 『生と死を支えるスピリチュアルケ』 報告

 賀来周一牧師・日野原重明医師 講演会報告 『生と死を支えるスピリチュアルケア』

堤 毅

 

二月の読書会は右記の講演会に参加しました。当日は大柴牧師夫妻始め読書会メンバーの外他の婦人会の方々も参加されました。

終末医療の問題について賀来先生は宗教家の立場から考察された。

最近世紀に飛躍的な発展を遂げたといわれる「科学」でさえも人間の実存的な問いへの答を見出し得ていない。この問いが未解決であるところに現代社会の病理があるといわれる。

その問いは先ず「事物が何故存在するか?」人が死に臨んだ時「存在」のみが露呈しその存在理由は何かが問われる。

之への対応はDoingよりBeing 即ち貴方も私も神から愛されることは同じだ。自分の存在を相手の存在に置く。それには誰かが傍にいる必要がある。

次に「事物は結局何の為にあるのか?」 死に際して「この私は死んだらどうなるのか?」という目的論的問いに対してはルタ―の「明日が世界の終わりでも今日林檎の木を植える」という有名な話と介護研修の神学生の患者に対する挨拶「また明日ね!」を示唆された。

最後に現代科学が答えを持ち得ない問いとして不条理の問題がある。「何故このようなことが私に起こるのか?」「何故今起こるのか?」「どうして他の人ではないのか?」という問いに対しては女神学者ドロシー・ゼレの「神も一緒に銃殺される神」と曽野綾子氏の「苦しみの共有者」の話を述べられた。

この答がない問いには問いそのものを受容する以外に道はない。その決断が必要であり「お任せする」、委ねるということである。

日野原先生は医師としての立場からスピリチュアルケアについて述べられた。92歳の先生は尚矍鑠として私たちにバイタリティを与えた。

人間の尊厳は老人自身が最期の時まで冷静に考えることが出来ること、ノーマルに感じる感性を持ち続けられるということではないか?

ホスピス・終末医療については治療優先、延命第一の医学より即ち強心剤注射より痛みのために苦しむ患者にモルヒネを早く使う緩和ケア(palliative care)が肝要である。

賀来先生の論と若干重複があったが最後に Being with the Patient!(更に最後の時までユーモアを失わずに!)を強調され、時間を三十分延長された熱演を終えられた。

(2002年 5月号)