説教 「聖霊の教えてくれる真理とは」 大柴譲治牧師

使徒言行録 2:1-21

じめ

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

ペンテコステ~教会の誕生日

今日は教会の誕生日です。ですから私たちは、お誕生日おめでとうございますとお祝いをしなければなりません。天から聖霊が降って教会が生まれました。「教 会」とは、建物や組織ではありません。十字架と復活のキリストを信じる者の群れのことです。信じる者を「聖霊」とは神さまの生命の息吹きのことであり、創 世記を読むと世界はこの神さまの息吹きによって、神さまの息吹きの中に創造されたことが分かります。ですから、その意味で、聖霊降臨とは新しい天地の創造 なのです。

無から有を創造された神の生命の息吹きが私たちの中に吹き注がれるときに、そこに新たな生命が造られる。ヨハネ黙示録の21章 には「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」新しい天と新しい地の到来が約束されていますが、実は、この死や悲しみや嘆きや労苦ばかりあるこ の地上のただ中でキリストを信じる者の群れが誕生したということは、本当に不思議なことですが、新しい天と新しい地が既に始まっているということを意味し ます。その最終的な完成の姿は終わりの日まで待たなければならないにしても、今、既に私たちが主を信じて生きることの中に、神の新しい創造が始まってい る。パウロは「私たちの国籍は天にあり」と言いましたが、この地上に生きながら私たちは同時に天国に生きているのです。

これは必ず葬儀の 時に読まれるみ言葉ですが、「わたしは復活であり生命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者はいつまでも死ぬこと がない」という主イエスが愛する兄弟ラザロを亡くして嘆き悲しむマルタに語られた言葉は、私たちがそのまま信じてよい言葉なのです。聖霊が教えてくれる真 理とは、この世に生きつつ、信仰者は天につながって生きている、天においても生きているということです。「いまだ死もあり、いまだ悲しみも嘆きも労苦もあ る」この現実の世界の中で、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」信仰の世界に同時に生きているのです。信仰の与えてくれる「心の平安」と はそのようなところから与えられています。それは「為(せ)ん方つくれども希望を失わず」というような告白をもさせてくださる。

先週の火 曜日と水曜日(5月29日、30日)はここでご葬儀がありました。昨日(6月2日)は同じこの場所で結婚式がありました。今日は礼拝が守られており、後で 洗礼式と聖餐式が行われます。私たちはすべては主のみ手の内で起こると信じています。私たちは悲しみや死や、苦しみや罪や恥の中にありつつ、復活の主とつ ながっているがゆえに、それを越えて生きているという次元がある。

これはまことに不思議な事柄です。教会がここにあるということ、キリストを信じる者の群れがここにあるということ、そしてこの教会は人生におけるすべての出来事にかかわるということ、この事実の中に、神の聖霊のご臨在が目に見えるかたちで示されているのだと思います。

最初のペンテコステに誕生した教会は、迫害を越え、時間を越え、空間を越え、言葉や習慣の違いを越えて、二千年の間、続いてきました。キリストの十字架と復活を信じる者の群れが継承されてきたのです。

ペンテコステの出来事はバベルの塔の出来事の正反対の出来事です。バベルの塔の物語では神のようになろうとした人間が言葉を乱され、全地に散らされてゆき ました。創世記は告げています。「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを 全地に散らされたからである」と(11:9)。これは神のようになろうとした人間が互いにコミュニケーションできなくなったという出来事です。心と心が通 じ合わなくなった。孤立し、敵対する以外になくなった人間は、バラバラになってゆく以外にないのです。それに対してペンテコステの出来事は、むさしのだよ りの巻頭言にも書かせていただきましたが、バラバラであった人間が、イエス・キリストにおいてもう一度互いに心を結び合わされてゆくという出来事です。心 と心がつながるということが出来事として私たちのただ中で起こるのです。

クーシランタ先生の体験から

私は先週の月、 火(5月28日、29日)と、八ヶ岳で開かれたベテル聖研の研修会に参加いたしました。ベテルの聖地旅行や北欧旅行、オーバーアマガウ旅行などの同窓会の ような集まりで、開会礼拝を頼まれていました。そこには静岡教会からテレルボ・クーシランタ宣教師も出席されていました。クーシランタ先生は1998年、 語学研修中の一年間、むさしの教会の礼拝に通ってこられたフィンランドからの婦人信徒宣教師です。神学校を卒業し、ヘルシンキの国立聖書学院の校長先生を 長く務められた後に、今私たちの教会で働いてくださっているヨハンナ・ハリュラ宣教師と共に、日本への宣教師となる決意をもって来日された先生です。私は その暖かいお人柄から女ムーミンと呼ばせていただいておりますが、久しぶりに旧交を暖めました。その時に語ってくださった不思議なエピソードがありますの でご紹介いたします。

私の父はベテル聖研の主事をしていますが、1997年にベテルのグループ旅行でフィンランドを訪問した折りにクーシ ランタ先生とお会いし、これから日本への宣教師になるという先生に、「あなたは歳だし、これから日本語を学ぶのは大変だから、考え直した方がいい」とアド バイスしたそうです。旅行団の他の参加者も皆がそう思ったそうです。しかしそれから4年が経って、現実に日本に来られ、日本語で説教されるそのクーシラン タ先生の姿の中に、今も生きて働いておられる神さまの聖霊の働きを目の当たりにする思いでした。

テレルボさんは日本に来て最初の一年目 に、毎週日曜日、このむさしの教会に出席されました。まだ日本語が全く分からないときに礼拝に出席された。テレルボさんはある時、教会員のご葬儀に出席さ れました。テレルボさんはその時不思議な体験をしたと語ってくださった。「全く日本語が分からない私に、不思議なことに大柴先生の語られる説教が分かった のです」。このことは私自身は以前にもお聞きしたことがあったのですが、ペンテコステを前にして改めてお聞きするとき、聖霊の働きとはこのようなことを言 うのだと思えてなりませんでした。言葉が分からなくとも、聖霊が働くとき、キリストの福音は心に響くのです。言葉や文化習慣の相違を越えて、聖霊が心と心 をつなげてくださるのだと思います。

逆に言えば、私たちが心が通じ合うと感じるとき、そこには神さまの聖霊が働いていると言うことができるのではないかとも思います。

使徒言行録は語ります。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家 中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々 の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1-4)。一同がほかの国々の言葉で話し出した事柄は、イエス・キリストの十字架と復活、その救いの出来事について です。このキリストを信じる信仰が私たちの孤立した状態を破って、一つに結びつけてくれるのです。

エフェソ書が次のように語る通りであり ます。「(14)実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、(15)規則と 戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、(16)十字架を通して、両者を 一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

聖霊の教えてくれる真理~心が通じ合うということ

私はここで人間の理想を語ろうとは思いません。聖書を読むと教会であっても理想的な状態からはほど遠いことが分かります。その証拠に、パウロの手紙はすべ て教会に宛てて書かれています。初代教会の時代から律法主義であるとか、愛が乏しいであるとか、問題だらけであったことが分かります。私たちはキリストを 信じる者であっても、対立があり、いさかいがあり、好き嫌いがあり、誰が一番偉いかという競争があることを知っています。簡単には心は通い合うことができ ないということを知っている。そのことは12弟子たちを見れば分かります。人と人との心が通じないという現実の中に私たちは生きているのです。依然として バベルの塔の物語がそのまま当てはまる世界に私たちは置かれている。

しかしそのような人間的な思いを越えて、神の聖霊が働くという次元を 見てゆく必要があると思われます。それぞれ限界を持ちつつも、一生懸命にキリストの福音を宣べ伝えようとしている者たちがいる。それが教会の姿です。心が 通じ合わなくなった世界で、それにも関わらず、心を通わせるために懸命に努力している人々がいる。戦争や飢餓や拷問といった非人間的で暴力的な力が圧倒的 であるこの現実の中で、キリストの平和のために、人々を愛するために自分の命を差し出そうとする人々がいるのです。

12弟子は私たちと同 じ弱さと限界を持った人間でした。しかし彼らは聖霊によって、別の人間へとされてゆく。喜びに満たされ、困難な状況にあっても聖霊によって押し出されてゆ く。口べたであったペトロも雄弁に恐れることなくヨエルの預言を解き明かす者へと変えられてゆくのです。ですから私たちは恐れる必要はないのでありましょ う。聖霊は自由に働くのだろうと思います。突然他国の言葉で語り始めるような働き方もありましょうし、長い年月をかけてじっくりと外国語を学ぶ中で働くと いうあり方もありましょう。言葉が不自由でも、心が通じ合うということは宣教師の働きを思うときに明らかです。

今日は礼拝に島田療育セン ター(多摩センター)から四人の兄弟姉妹が来ていますが、島田療育センターと関わりの深かったドイツ人宣教師で、11年前に亡くなられたヨハンナ・ヘン シェル先生の働きを思うときに、私たちの心は熱くなる。そこにも確かに聖霊の働きがあるのです。ヘンシェル先生には確かに怖いくらいに厳しい面もありまし たが、異国の地に骨を埋めてまで、キリストの愛を伝え、隣人に仕えるために生命を捧げてくださったそのご生涯は、私たちの心に忘れることができない深い刻 印を殘しています。ヘンシェル先生の働きは、キリストの愛が先生を捉え、押し出してゆかれた働きだと思います。

これこそ聖霊の働きです。「聖霊が教えてくれる真理」とは「キリストの愛」なのです。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたがたに与えるわたしのからだ。」「これはあなたがたの罪の許しのために流すわたしの血における新しい契約」。主イエス・キリストはこう言ってパンとぶどう酒を分かち合ってくださいました。

キリストの愛が私たちを捉える時、そこには聖霊が働いている。そして、キリストの愛において今も私たちが心を通い合わせるような出会いを体験しているとす れば、そこには聖霊が現在も脈々と働き続けているのです。その聖霊の息吹きを感じながら、新しい一週間を過ごして參りましょう。

聖霊がお一人おひとりを守り続けますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 6月 3日 聖霊降臨祭 礼拝説教)