「ミネソタの風(2)9・11雑感」 上村敏文

ミネソタの風(2) セプテンバー・イレブン雑感

上村敏文

渡米してから早いもので一年経ちました。いろいろな事がありましたが、何といっても九月十一日のテロ事件は、アメリカに住み始めて間もなくでしたので忘れることができません。キャンパスセンターを通りかかるとテレビが特設されており、貿易センターに突入する飛行機の映像が生々しく繰り返し放映されていました。「一体何が起こったのだろう」とわけがわからないまま互いに顔と顔を見合わせていました。ある者は床にしゃがみこみ顔を覆い、ある者は目に涙をうかべ画像を見入っていました。「これが戦争が始まる前の雰囲気なのか」と思うやいなや、テレビのコメンテーターが「これは第二のパールハーバーだ」と絶叫するのを耳にしました。真珠湾の時もこのような雰囲気だったのかもしれないと思いつつ、自分が日本人であることを意識しはじめました。

ノースキャロライナ大学が新入生に対し、夏休みの課題として『コーラン』を宿題にしたところ、父兄からも反対の声があがり裁判沙汰にまで進展しています。昨年の出来事ですがある高校で戦争反対を訴えた学生が深刻ないじめを受け退学にまで追い込まれました。ニュースも画面の左には星条旗がはためき、コマーシャルの時でさえ、老若男女、あらゆる民族的背景を持つ人達が「アイ ラブ アメリカ」と唱えているのを見て、また戦争へと駆り立てて行く報道姿勢を見て、さすがに寮の友達も「国営放送ではないのにやり過ぎではないのか」と批判していました。

一方、ルーサーセミナリーの中では、すぐにイスラム教のリーダーを招待してチャペルでパネルディスカッションが行われ、学生同士、クラスでも討論が活発に行われました。ある教授は「オサマビンとアルカイダの兵士のために祈る」と、講義前の祈りをささげておられました。一般世間とは異なるこうした風潮は、イスラムスタディプログラム、クロスカルチャー等の講座を通して、異文化に対する理解の仕方が深いからではないかと思います。 今年2月、サウスダコタ州で開催されたノルウェー系大学連合主催のノーベル賞平和会議に参加した時、金大中大統領代理で参加された在米韓国大使が「太陽政策」に触れ「対話には時間と忍耐が必要だ」と発言されていました。全く同感です。また、あるアフリカ系のパネリストは「アメリカは、何故、攻撃されたのを考えたことがあるだろうか」と、問題提起をされていました。

最近でこそ、現在の戦争に対して反対する意見も散見するようになりましたが、それでもアメリカ政府自身は、すでに報道されているように戦争拡大も視野に入れているのは実に残念な事だと私は思っています。あるカンボジアの学生は「アメリカは何故大騒ぎするのか。私の国では、このような事件は日常茶飯事の事」。またケニアの牧師候補は「アメリカ人は外国の事を知らなさすぎる」と批判していました。「世界の警察」としての役割としては、一方的な見方、保守的な傾向が強すぎるように私も感じています。

「人種の坩堝(るつぼ)」というよりは「サラダボール」としてのアメリカ。すなわち、民族、文化、宗教的背景が融合というよりは、単に混ぜ合わせた状態の国家においては、かつての日本がそうであったように、まとまりの統合、象徴としてのフラッグが必要なのかも知れません。そのフラッグがさらに尊い命を奪う象徴とならない事を祈らざるを得ません。