クリスマス随想「飼い葉桶」 賀来周一

「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶のなかに寝ている乳飲み子をみつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」

ルターは「聖書はキリストが横たわる飼い葉桶である」と言います。まったくルターらしいなぁと思います。かつウーンと唸りたくなります。

もし飼い葉桶を現代人らしく解釈してーイエスの時代には飼い葉桶というものは長方形の石灰岩を桝状に刳り貫いたもので、その中に刈り取った草や脱穀の時に出たわら、時にはぶどう酒の搾りかすも加えたーなどと説明しても、味も素っ気もありません。「ああそんなものか」と思うだけです。腹の底から、ウーンという声は出てきません。

有名な心理学者C.G.ユングは、スイス改革派の牧師を父親にもつ人ですが、父親があまりにも通り一遍の聖書解釈をするので、愛想を尽かし、キリスト教信仰に反発するようになったと言われます。しかし、彼の父親への反発は、通り一遍のありふれた解釈は、聖書の普遍性を失わせるという彼のキリスト教観を産み出すことになりました。それがのちに「すべての宗教的言語は象徴的意味をもつ」という定義にまで発展することになりました。ユング心理学の入門書とも言われる「人間と象徴」は、彼と弟子たちの著作ですが、そのなかで聖書の言葉がいつの時代にも普遍性をもつためには、宗教言語がもつ象徴性を知ることが重要だと言っています。現代のキリスト者が聖書を解釈する時に注目してよいことではないでしょうか。

比喩と象徴はよく似ていますが、比喩はときとして無理なこじつけや押しつけがましい解釈がつきまといがちです。聖書の出来事を解釈するのに、荒れ狂う嵐を俗世界、玩ばれる舟は教会であるなどというのは典型的な比喩的解釈です。

象徴はそれとちがって、背後に歴史や文化をもっています。かつ時間を越えて、意味されたことを普遍化します。

ルターが「聖書はキリストが横たわる飼い葉桶である」と言うとき、これをこじつけと言うでしょうか。あるいはルターの勝手な思い込みなのでしょうか。もし歴史的実証主義に忠実であろうとして、ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶が、単なる牛馬の餌のための道具であるとの辞典的な説明で終わるなら、クリスマスの出来事のなかでの飼い葉桶の役割はほとんどなんの意味ももたないでしょう。

ルターは飼い葉桶に象徴性をもたせました。その瞬間、飼い葉桶は、最初のクリスマスの事実と意味を失うことなく、「今ここ」に現在するものとなりました。この季節、過去が過去に終わらず現在のものとなる、この不思議さをルターの解釈を通して知るものでありたいと願います。