<なまけクリスチャンの悟り方>No.1 事始め NOBU市吉




<連載> むさしのだより編集長による連載がいよいよ満を持して始まりました。お楽しみに。 大柴記




「なまけ者のさとり方」の著者タデウス・ゴラス、「怠け数学者の記」の著者小平邦彦の二人に捧げる。

 

大学の頃、こんなことがあった。ある雨上がりの晩、帰宅途中に下宿近くの小さな本屋で少し立ち読みをして店を出た。月を眺めながら歩いている内に、傘を忘れたことに気づいた。すぐに取って返したが、既に傘はなかった。店主に聞いても分からないと言う。その間10分足らず。誰かが持ち去ったに違いない。

非常に悔しい思いがした。置き忘れた自分への腹立たしい思い、黙って持ち去った誰かへの恨み。「きっと下らない奴だ」と、相手への悪意を感じてしまう心の暗黒。さらに、そういう奴に恨みを感じて心を乱されていることの悔しさ。

その時、ふと思い付いた。「傘の紛失は減価償却と思えば良いのではないか」と。減価償却というのは、親から耳学問で聞き知っていた会計用語である。簡単に言えば、資産は時と共に価値が減るということである。例えば、1年に1万円相当の物を失くしたり、壊したりということを予め支出予算として計上していれば、傘を失くすことは残念ではあっても、心を乱したり、人に恨みを抱いたりする程の事ではなくなる。

乱れていた心が落ち着きを取り戻し、有用な気づきが得られたことに、むしろ満足感を抱いて、家路に就いたのだった。

この出来事がきっかけになり、過ちを犯したり不幸な出来事に遭遇する度に、それから学んで、新しい発見をしようというのが私の習慣になった。最近では、「信仰的にはどう理解できるか」、あるいは「信仰理解に何か光を当てるか」ということも考えるようになった。(電車の中でぼんやり考え事をしたり、家で家事をしている時に、ふと思いついたりするので、忘れない内にメモするようにしている。)

上の減価償却の話について言えば、仏教で言う諸行無常の事だと最近気づいた。形あるものは常ならず、形を変え、また消え去ってゆく。それは宇宙の法則である。常なることに執着することから苦しみが生じる。自分が傘を失くして経験したのは、矮小ではあるが、正にそれだった。そして、減価償却に気づいて心の平静を得たのは、ささやかな悟りだったと言える。失くすまいと張り詰めるのでなく、失くすことを許容してしまうのだから、なまけ者の悟り方に違いない。

資本主義のインフラである企業会計が「減価償却」という言葉で「諸行無常」を表現していることに、何とも言えない妙を感じる。しかし、考えてみれば、諸行無常は宇宙の普遍的な真理なのだから、経済活動にもそれが現われることは至極当然のことである。「使う前より美しく」という理想主義・精神主義でなく、「使えば減る」と割り切るリアリズム。

これが「なまけクリスチャンの悟り方」の事始めである。若い時からの沢山の気づき(それは、本との出会いや人からのアドバイスからも多く与えられてきた)がなかったら、私はもっと悲観的で消極的な人間になっていたことだろう。そう思うと、自分にとってかけがえのない財産である。人生に悩みを持っているかも知れない方々に、その幾つかをお裾分けしたい。そんな気持ちである。その他、キリスト教に関わる若干理屈っぽい考察も記してみたい。これから約1年、宜しくお付き合いください。

(むさしのだより2004年4月号より)