「ビルマ訪問記」 中山康子

「この機はこれから着陸態勢に入ります。」のアナウンスに雲間から眼下に見えてきたのは、緑の多いうっそうとした眺望。夕暮れ時なのに灯火がみえるのは、わずか。アウンサン・スーチーさんが軟禁されている国、軍事体制の国(参照:ビルマ情報ネットワークhttp://www.burmainfo.org /)。その昔、従兄弟がビルマで結婚式を挙げたと言って、ジャスミンの花に溢れフルーツがたくさん盛られた写真を送ってきた時の印象がある。

アジア教会婦人会議(ACWC)の役員会・加盟18カ国の代表者会議開催6月8日-14日に「観光ビザで来るように」と招かれた。ACWCは、日本では7教派の婦人会が加盟。ルーテルからは当教会の原尤子姉、大岡山教会の鈴木直子姉と私が委員。今回は、隔年に開催する代表者会議。日本代表の日本基督教団牧師郷かしこ姉と私の二人が参加。先立って開催の役員会のため私は一人で出発。タイのバンコクから小一時間でヤンゴン着。ミヤンマー代表のムウ・パウ・ナウさんが出迎えてくださり、ミヤンマー基督教会会議の車で、人影少ない、明かりが少ない、車もバスも日本製の10年以上前の型式が多い街を通り抜けて、宿舎であり会議場である「パンダホテル」へ。このホテルは、クリスチャンが経営しているので、何を話しても先ず大丈夫とのこと。すでに到着していた会長、主事、書記と一年ぶりの再会。大学を出た27歳の教会奉仕者の賃金は、一時間あたり28円余。視覚障害者のための訓練学校から派遣されたマッサージは90分で旅客には550円足らず。地元民には30分の一の低料金という。ミヤンマーの貨幣価値は1ドルが4000チャット。新札で高額札のほうが他より高率で交換。平均は6%だが部族によっては80%がクリスチャン人口。

ホテルの前にキリスト教主義の学校があり制服姿の生徒が見える。それにしても周囲は豊富な緑。雨季のため数時間豪雨が降ると道路は川になることもある。地元民は、例外なくビーチサンダルと言うのも頷ける。男女共腰下は平布を足首迄の巻きスカート様に着用。

日曜には、25名の委員が9教会に分散。私が出席した教会は100年の歴史があり、前日の洪水の後始末もほどほどに、会員数700人のうち400人ほどが礼拝に出席。その日は子供礼拝とのことで、礼拝の司式、聖歌隊、聖書朗読などすべて高校生以下の子供たちがリード。ピアノにバイオリン奏者数名が奏楽担当。聖壇いっぱいに70名位の聖歌隊は、大曲を四声部で数曲歌った。英語の歌だったので、聖歌隊に飛び入りした私。お祈りの後、いきなり「康子の説教よ、私が通訳します」とムウ・パウさん。何の準備もないまま、国境を越えて18加盟国全てが揃ったACWCが体験した奇跡、ミヤンマーの歴史上初めての国際会議が開けたことの感謝、眼を外に向けていただきたいこと、神様のなさるわざに不可能はない、など話した。礼拝の途中でまたも停電。冷房はなく、外気は焼け付くような暑さの中、2時間の礼拝が終わると全員で記念写真。子供から大人から握手攻め。家族の都合でたまに日曜の礼拝時間内でも行われる葬儀のため不在だった主任牧師がもどり、パパイヤとマンゴ-たっぷりの心のこもった昼食を頂く。

その午後に訪問したムウ・パウさんの自宅へは、家の前の川が氾濫して、板の橋、泥水に浮かぶ土嚢を伝い渡った先が玄関口。「これが現実よ」とムウ・パウさん。80歳のお母上ポシャさんがお孫さんで8歳のビッキーちゃん共々嬉しそうに迎えてくださり、いきなり日本語で、第106兵団病院の看護婦をしていたと、当時の中将、軍医の名前も覚えておられ、毎日ご無事を祈っていると。戦後60年間1人で歌っていたという、賛美歌をひらがなで自写したノートを見せてくださった。台所に野菜の切れ端もない電気のないこの村でACWCのミヤンマー代表が、日本軍に仕えた母上と共に暮らすその家は神様の祝福に満ちていた。

(むさしのだより2004年7/8月号より)