合同修養会基調講演要旨「宣教する教会」 柴田千頭男

むさしの教会・市ケ谷教会合同修養会 基調講演要旨「宣教によって生きる教会」2004/10/11 柴田千頭男





10月11日にルーテル学院大学で催された市ヶ谷・武蔵野教会合同修養会での柴田先生(日本ルーテル教団牧師・ルーテル学院大学名誉教授)による基調講演の要旨を掲載します。貴重なメッセージを多くの方々に伝えたいと思いました。柴田先生にご相談したところ、快諾してくださり、さらにご自身で2ページに圧縮してまとめて下さいました。そのため簡潔な文体となりましたが、却ってエネルギッシュな講演が彷彿とするようです。
はじめに
教会が宣教のためにある、という根拠については、多くのことが、書かれ、語られてきているので、多言は不要である。ただ、この一年間パウロ書簡だけの研究会の指導をしたが、キリスト教には不変不動の二つの極があるという結論だった。福音と、そのための宣教という二極だ。そしてこの二極の間のすべては、福音と宣教によりよく奉仕するために、弾力的であるべきだ。これがわたしの話のわくぐみである。

なるたけいろいろな教会で実践された事例や、いまも行われている事例を分かち合いたいが、日曜を中心に集まっている礼拝共同体としての教会だけでは不十分。初代教会では迫害で散らされていった信徒たちが、宣教を担う先駆者になった。この事から、信徒をこの世に『散らされた教会』としてダイナミックにとらえ、その散された教会をも宣教的に構築していく二重構造が重要だ。各教会のおかれている状況は、それぞれ違う。だからA教会の事例がそのままB教会に妥当するとは思われない。むしろ重要なことは、それぞれの教会が自分のおかれている状況を十分に理解し、それに対して自分たちの教会が本当に宣教的に何ができるかを研究、計画、実践することだ。この場合他教会の事例は真似るためにあるのでなく、そこに学ぶことがあるということだ。計画立案の際、1)みんながやれる、2)継続性がある、3)実行に喜びがある、4)必要なら軌道修正をする弾力性をもつという4点が大切である。以下は研修会の4テーマに従っていささか述べてみたい。
1)奉仕をする信徒(第一ぺトロ 2:9)
ルーテル教会の信徒論は『万人祭司』である。その聖書的な根拠であるここでペトロはわたしたちが救われ、神の民、聖なる国民、祭司とされた目的を語る。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」あのクリスマスの夜、天使が「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と告げたあの宣教行為が、わたしたち全員に委ねられたのだ。ティーリケはキリスト教の真理は、その真理によって救われ、生かされている人々が他に伝えることで、他の人にとってもそれが生きた真理になる、と言う。しかしそのためには、わたしたちもすべてをあげての工夫が必要である。わたしがかつて協力牧師として奉仕したワシントンD.C. のFirst Trinityルーテル教会の事例をあげたい。入院している人や施設にいる信徒には、牧師も含め、教会の各グループから、かならず週一度の訪問がある。青年会は、心の病が癒され、社会に復帰する直前となった人々と、病院側の協力で、月一度の交流のときを持つ。知的障害の子どものための教派を越えた教会学校をもち、その父母たちとの懇親会もある。失業している人々の援助のための職業訓練や、一時的住居のためのアパートを運営する。このため連邦政府の援助も導入し、職員もおいた。信徒は地域ごとに区分され、月一度、夜間の聖書研究会を信徒の家で行う。会員200名ぐらいだが、周到な計画と訓練のもと、これらが実行されていた。個々の信徒の活動としては、日本でも学ぶべき教会は多い。教会員全体を3~4名ぐらいの伝道グループに組織し、具体的にだれに、どのように宣教していくか、をいつも研究、実践している教会。信徒が自分の家を教会学校に開放し、教育を通して地域に貢献することを宣教の柱としている教会。そうした教会学校が12以上ある。どこに宣教の視点をおくかが大切。
2)信仰継承の問題(出エジプト 12:24-27)
ここには、エジプトからの解放を、永遠に記念するための過ぎ越し祭設立の記録があるが、「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。」と言われる。「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ね」たら、きちんと親が答えることをすすめている。ザカール(記念)とは単に想起ではない。その出来事の連続の中にいま自分がおかれているということの確認である。この過ぎ越し祭に、歴史的には聖餐が繋がっている。これは古色蒼然とした宗教儀式ではなく、信仰継承の核であり、家族生活の中心にある。また家族的な祈り、聖書の学び、それにお祝いごとの礼拝化など、要するに信仰の生活化が必要だ。それなしに信仰継承は有り得ない。日本宗教の研究者H・オームス加州大教授は、日本の年間諸行事、33回忌まで継続する死者儀礼などが人々の生活のリズムや枠になっていると指摘するが、聖書では信仰はまさに家の宗教だ。
3)きょうの教会、あすの教会(フィリピ 1:12)
パウロは投獄されたことを、福音の前進に役に立つと受けとめた。ここにきょうをあすにつなげていく強力な精神と洞察力がある。フィレモンへの手紙を熟読してほしい。いま必要なのはイエスが言われるように、『時のしるし』を読んで行動する教会だ。「はやく歩きすぎたので、心が追い付かないから、心が追い付くまで待つ」と言ったアンデスのシェルパの言葉は預言的だ。『俺』と『あいつ』に分裂して争ういまの世界は、憎しみがエネルギーになっている。心がおいてけぼりの世界だ。しかし愛がエネルギーでなければ平和はない。これこそ時のしるしだ。教会の使命のひとつは預言者になることだ。そのためには、4)として、聖書の学びを本格的なものにすることを強調したい。教会はイザヤ、エレミヤその他、時のしるしを読み行動した多くの先達をもつのだから、そこからエネルギーを汲み出すべきだ。

(2004年10月11日 むさしの教会市ケ谷教会合同修養会基調講演要旨。むさしのだより2004年12月号掲載)