「<なまけクリスチャンの悟り方>No.13. 敗戦60年に思う」 NOBU市吉

大学時代にルース・ベネディクトの『菊と刀』を読んだ。「名に対する義理」に関連する章で、「失敗や無能の汚名に対する日本人の反応…。このような神経過敏さは、人と競争して負けた場合に特に顕著に現れる。…彼は自信を失い、憂鬱になるか、腹を立てるかどちらか、あるいは同時にこの両方の状態におちいる」(社会思想社版定訳版39刷、p177)と指摘している。これは日本人の精神的弱点の一つと言って良いと思う。この度読み返し、現代日本人の《キレやすい》、《鬱な気分になりやすい》性質は、過去から受け継がれたものではないかと思わされた。

ベネディクト女史は、太平洋戦争末期に日本研究を委嘱され、文化人類学の手法を用いて日本人の精神構造を分析し、日本人捕虜や敗戦日本国民の行動をそれに当てはめて理解する試みをし、1946年に『菊と刀』としてまとめた。今、日本人が読んでも様々な気づきが与えられる。

この夏、私たちは先の戦争の敗戦60周年を迎える。戦争の要因は複雑だが、絶望的な戦争に突入してしまった最終的なポイントは、日本人精神の暗黒面であったと言わざるを得ないと思う。日本は列強に負けない強国になることが世界の「一等国」になる条件と信じ、手段を選ばず東アジアの「盟主」になろうと目指したが、苦境に陥り(中国大陸での泥沼、欧米列強の包囲網)、「行くも地獄、退くも地獄」の状況に追い込まれ(あるいは、自らを追い込み)、「キレた」ように米国相手の戦争を始めた。

真珠湾攻撃は、当時のルーズベルト米国大統領が仕向けたという説もあり、一定の真実を含むようだが、仮にそうだとしても、無謀な戦争が正当化されることにはならない。「親が悪いから、社会が悪いから、自分は駄目になった」と言う青年を社会が一人前扱いしないのと同様、「他国が悪いから自分たちは無謀な戦争をした」と言う国は国際社会から大人の国として扱われないだろう。

問題は現実を受け止めて自ら方向転換できなかったことにある。自らの理想・信念を否定することは難しい。「名に対する義理」意識の強い日本では特に。しかし、挫折を認められないところに留まると、現実を見ない振りをし、曲解する、《現実を生きない者》となってしまう。精神は物質に勝つとして、あらゆる不合理な意思決定と国民教育を行い、1945年8月15日まで負けていることを認めなかった日本…。

キリスト教はそんな日本と日本人を救う力を持っていると私は思う。狭い思いに囚われた自らを乗り越え、解放し、より広い世界に新たに生きてゆく人間を作ること。《キレやすい》、《鬱な気分になりやすい》という精神的弱さを軽減すること。其処において。

<追記1> 司馬史観を採用すれば、明治維新から日露戦争までの日本は《保守派》(列強の中で相対的に弱小な立場を自覚して行動)であり、日露戦争後は《革命派》(右派・民族派)(自らの力で世界秩序を形成したい)と言えよう。敗戦後の日本は《改良派》というより、《保守派》(右派)と《革命派》(左派)の対立・共存(55年体制)のようである。

<追記2> 先の戦争に関して膨大な数の本があるが、山本七平『日本はなぜ敗れるのか~敗因21カ条』、森本賢吉『憲兵物語~ある憲兵の見た昭和の戦争』(中国での現実)など、「現場」における事実(特に非合理・不条理)を記録し、後世に伝える本に強い感銘を受ける。

(むさしのだより2005年 7月号より)