「ウィーンの思い出(8)卒業試験」 野口玲子

前回、前々回と感謝をこめて書かせていただいた恩師エーリック・ヴェルバ先生のリート・オラトリオ科を1971年6月に卒業することができました。「欧米の大学では、入学は簡単だが卒業は難しい」とよく云われますが、音楽大学の場合も例外でなく、日本と比べて試験の課題の量、質共に大学卒業というステータスの差を、また声楽家としての認識の差を痛感いたしました。

卒業年次になっても、まず担当教授から卒業資格があると認められないと卒業試験のための手続きがとれません。特別の事情がある場合でも、教授が優秀であることを認めないと留年出来ないことは前回に述べましたが、卒業試験が受けられないということは、そのまま放校されてしまうということです。そして試験を受ける許可が出ても、試験会場で他の試験官の教授たちが認めなければ不合格となります。再試験などありません。私の卒業試験のときには、私の前に歌った学生は不合格でした。教授たちはその学生が少しでも良く歌えるようにと時間をかけて試したのですが、結局落ちました。そのため私の番が来るまで他の人と比べて、長い時間待たされたことを覚えています。

リート・オラトリオ科の試験は、バロックから現代までの各時代別のオラトリオ作品から、全曲の自分の声部全てをマスターしておかねばなりません。そしてバロックから現代曲までのリート作品から、作曲家別の決められた課題に従って全18曲を選んで提出します。試験当日はまずその中の1曲を自分で選んで歌いますと、直ちに目の前の教授たちは提出したプログラムを基に協議し、曲目を指定してきます。勿論必ず暗譜です。そして合格となると、プログラムとは別の曲目で30分の公開演奏をしなければなりません。更に試験に提出するプログラムの曲は4分の3がドイツ語であること、と決まっています。

このように卒業するためには、かなりの勉強が必要なことがおわかりいただけると思いますが、反面オペラ座の契約が決まってし まった優秀な学生にとっては、卒業試験など関係なく、無頓着。要するに実力があれば問題ないわけですが、私は、卒業試験を受けるために勉強することで身につくものが多いだろうと考えました。

そこで発声を中心に学ぶGesang科の卒業試験も受けておきたいと思い、グロスマン先生にご相談し、私に合う音大の先生を探していただき、学長夫人の Dr.エミー・ジットナー先生に推薦していただきまして、入学試験を受け、合格となりました。了解なく複数の先生に習うことは良くないので、私は、グロスマン先生がご紹介くださる先生に決めたわけです。

ジットナー先生は必ずしも評判の良い先生ではなかったのですが、戦後の東西緊張が激しかった当時、先生の許には複雑な事情で東欧諸国からウィーンへ来た才能豊かな学生が多く在籍し、共に学べたことは貴重な経験でした。彼らの必死で学ぶ姿、コンクールを受けたり、オペラ座で歌う日を目指して挑戦する姿には、切羽詰った情況が見て取れ、恐怖すら感じました。彼らは簡単には祖国へ帰れないのですから。私がジットナー先生に就く前に卒業し、直ぐにウィーンのオペラ座で活躍したルーマニアの世界的なソプラノ歌手、イレアーナ・コトゥルバシュもその一人でした。オペラ科を受講しなかった私ですが、ジットナー先生の専属コレペティートア、ミミ・フライスラー先生からは特にオペラについて、そしてアリアを数多く学ぶことが出来ました。1年半後、卒業試験をうけることになりました。アリアを10曲、歌曲を10曲、やはり4分の3がドイツ語であること。リート・オラトリオ科と同様に試験が行われ、合格すると30分の公開演奏。幸いにも私は最優秀賞を戴くことができました。

今当時を振り返ってみて、病気ひとつ怪我ひとつせずに、災害にも被害にも遭わず、落第もせず、無事に帰国できたことの運のよさには驚くばかりです。神様のお導きなしには考えられないことです。あらためて心からの感謝をお捧げいたします。

(むさしのだより2007年5月号より)