「ウィーンの思い出(10)最終回」 野口玲子

大柴先生から「野口さんにとって大切なintegration(統合)の機会になることでしょう」とお勧めいただき、「ウィーンの想い出(I)」として、カトリックの国で初めて迎えるクリスマスのことなどを書かせていただきましたのは2005年12月号でした。この号は、教会会堂の耐震補強工事が完成し、6月号で休刊になっていた「むさしのだより」が再開され、隔月の発行へと変わったときでした。市吉伸行兄による名文「なまけクリスチャンの悟り方」に替わっての連載となりました。今回、10回目を迎え、最終回とさせていただくことといたしました。とりとめもなく、また拙文にも関わりませず、お励ましいただき、お読みくださいました方々に心から御礼申し上げます。

私が留学しておりましたのは1968年春から1971年秋までですが、1970年の大阪万博を境に日本は大きく変わったように感じました。その頃はお金持ちの農協関係者の海外への団体旅行が話題になりました。それまではウィーンにいる日本人は大使館員か留学生が殆どでしたが、まだまだ東西冷戦中の東欧圏と取引の起点となり、徐々に商社や会社の駐在員が多くなっていきました。それでも私の留学中は日本の銀行は一つもなく、日本茶もお煎餅も梅干も買えません。勿論、日本料理店など当時は一軒もありませんし、昨今のように日本料理が好まれるとは想像すらできませんでした。

今は英語が話せればウィーンに旅行しても不自由は感じませんが、当時は街中でも殆ど通じませんでした。友人たちもフランス語はできても英語はダメでした。元貴族たちやちょっと気取った人々は、ハープスブルク時代の名残からのフランス語を話し、大学教育を受けた人たちは、外国語としてフランス語を学んだからということでした。その友人たちも今では英語がペラペラ。必要に迫られてでしょうが、ゲルマン系という共通点もあり、彼らの習得の速さには、その後ウィーンを訪ねるたびに驚いたものです。

食文化でも驚いたことがあります。例えばセロリ。下宿の小母さんから「セロリのサラダ」といってご馳走に与ったものは、一見信じられない代物でした。大き目の八つ頭のようなものを1cmほどの賽の目にして茹でてドレッシングで和えてあり、セロリ独特の香りが一層強く美味しいものでした。何とセロリの根っこ。キャベツはどんなに細く刻んでも硬くて、生では食べられませんでした。パンはライ麦入りの薄黒い固めのパンが主流ですが、朝食はセンメルというフランスパンに近い白パンが好まれています。感動したのは、大きめの丸型やオーバル型のパンを初めてスライスするとき、パンの裏側にナイフで必ず十字を切る習慣があるのを目にした時でした。パンはまな板を使わず、手に持って回し切りするように切ります。おもてなしの際でも、メイン皿の左にお皿なしで直に置きます。また、毎週金曜日は断食日として、お肉などのご馳走を口にしない習慣は、当時は普通のことでした。ダイエットにもなりますね。

ウィーンへ留学した年から数えて来年で40年になります。覚束ない記憶を頼りに文章をまとめながら、毎回文末になると感謝の気持ちが込み上げてまいりました。牧師のひ孫でありながら当時はまだ洗礼を受けていない私が、どうして神様のお導きに従って歩むことができたのでしょうか。不思議なしあわせには驚くばかりです。細々ながらも音楽生活を続けることが許され、お陰様で、今秋35回目の自主リサイタル開催の運びとなりますのも、ウィーン留学時代からの神様のお恵みに支え続けられてのことと、あらためて感謝をお捧げいたします。 

大柴先生からいただいた「integrationの機会」は、真に音楽から神さまへ、感謝へと導かれた喜びの時との出会いでした。

むさしの教会の方々とご一緒にウィーンを訪れることができますよう、お祈り申し上げます。ありがとうございました。(完)

(むさしのだより2007年9月号より)