「JELC全国総会2010を終えて」 大柴譲治

全国総会については『るうてる6月号』にある立野先生によるオフィシャルレポートを参照してください。私は今回の総会で感じたことを個人の視点からレポートしたいと思います。

教会には常に「組織体としての側面」と「運動体としての側面」の二つがあります。現在のJELCは、122の「各個教会」が五つの「教区」を、五つの「教区」が一つの「本教会(全体教会)」を構成しています。そしてJELCは「教団」ではなく「教会」である点にその大きな特徴があります。どこを切っても私たちの教会は一つの「日本福音ルーテル教会」なのです。

今回は渡邉総会議長・立野事務局長の体制になって二度目の総会となりました。種々の工夫によってその特色が出た総会でした。まず、出席者の座席を教区別に分けたことによって出席議員のほぼ半数が東教区所属であることが認識できました。賛成は青、反対は赤、保留は黄色というカードを用いるよう色分けしたのでカウントが容易になりました。全体としての傾向は、東教区側が青、西・九州教区側が赤カードの挙がることが多かったように思います。立野先生をはじめ舞台裏を支えてくださった方々のご尽力に感謝します。今後総会がもし二日間になればエコに貢献することになり、皆にとっても有り難いことになります。

2013年5月には現在の教区体制が敷かれて50年の節目を迎えます。JELCが教区を「軸」とした体制を敷いて50年となるのです。そこには「教区自立」という前提がありました。北海道「特別」教区が設置されてからも既に30年。4教会7礼拝所5牧師を擁する北海道を今後どのように位置づけ支えてゆくかがJELC全体の課題の一つです。JELCの教会論の特色が個教会、教区、全体のどこを切っても一つの「教会」であるところにあることは上述した通りです。しかし同時に、その構造が無責任で甘えた依存体制を生じ易いことも事実でありましょう。そこから「本教会幻想」「教区幻想」が生じます。それは確固とした教会行政があるべきであるという幻想です。「責任転嫁」はアダムとエヴァの時代から「第二の罪」と呼ばれました(「第一の罪」はもちろん「禁断の木の実を食べたこと」です)。しっかりした教会行政システムがあって欲しいという期待は理解できますが、そのためには私たち一人一人が責任をもって関わるしかないのです。教会行政は「小さな政府」であるべきであり、あくまで「各個教会に宣教の主体と責任がある」ということを繰り返し私たちは心に刻む必要がありましょう。私たちはどこまでも「聖書中心主義」「現場主体主義」「各個教会責任主義」でゆく以外にはないのです。運転席に誰も座っていない車のハンドルを、乗っている皆が手を伸ばしかろうじて指をつけて運転していることを想像すると冷や汗が出る思いがします。それが今の私たちの現実の姿かもしれません。

JELCが未曾有の財政危機を迎えていることが今回の総会の一つの基調音でした。昨年の新型インフルエンザとリーマンショックの影響で収益事業が冬の時代に入っていることがその主たる理由です。教会年金制度の変更等、一連の財務緊急提案がなされ認められました。管財室の責任を負っている中山格三郎兄の重責を思います。「教会」は組織や建物ではなく「人」です。責任を担う「人々」を私たちは祈りで支えてゆかなければならないと強く感じさせられた総会でもありました。

同時に、チャプレン団を中心とした総会の諸礼拝を通して慰めと希望を与えられたのは私一人だけではなかったと思います。例えば閉会礼拝で重冨克彦牧師はこう言われました。「私たちのルーテル教会がもし歴史においてその使命を終えるとするならば、神は祝福された終わりを備えてくださるであろう」と。神がこの混迷を極める現代社会において私たちを「福音の使者」として用いられるのです。「神の御言こそわが強きやぐら」というルターの作曲した讃美歌を思い起こしつつ、2010年度の総会を終えました。これこそ信仰者にとって真の基調音なのです。先は見えません。しかし、「アドナイエレ(主の山に備えあり、創世記22:14)」を信じ、主ご自身が私たちJELCを用いてくださるよう祈ってゆきたいと思います。

(むさしのだより2010年 7月号より)