「レクイエム(1) 橋本直大兄」 大柴譲治

レクイエム(1)
橋本直大兄の思い出

大柴譲治


 

4月17日(日)の朝、橋本直大さんが83歳のこの地上での生涯を終えて天へと帰って行かれました。それはキリストが子ロバに乗ってエルサレムに入城されることを記念する棕櫚主日、受難週の始まりの日曜日のことでした。18、19日とむさしの教会でご葬儀が行われたのですが、告別式の中でとても不思議なことが起こりました。司式者として私がヌンク・ディミティスを棺を背にして聖卓に向かって歌っている時に、伊藤節彦神学生が天から不思議な光が橋本さんの棺の上に射してくるのを見たのです。しかもその光は西側からではなく東側の窓からだったと聞いて、私は強く畏怖の念に打たれました。私たちの人生には確かに神さまの聖なる光に照らされる瞬間があるのでしょう。橋本さんのご生涯はそのような光に包まれていたように思います。

「今わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り、しもべを安らかにさらせて下さいます。この救いはもろもろの民のためにお供えになられたもの、異邦人のこころを開く光、み民イスラエルの栄光です。」(「ヌンク・ディミティス」、ルカ2:29-32)

橋本さんは機関誌『るうてる』の2009年7月号に「信仰生活を一言で」と問われてこう答えておられました。「ずいぶん病気などしましたが、『闘病』という言葉は好きになれません。病気も神様から与えられたものであれば、素直に受け入れ、付き合っていくほうが楽だと思います。すべてお委ねしていこうというのが楽天家の信仰生活なのでしょう」。これはすべてを神さまの御手からいただくという橋本さんの信仰をよく表している言葉です。

「楽天家の信仰生活」と語っておられますが、そこに至るまでには様々なご苦労がおありだったと思います。苦労を苦労とも思わず、それを飄々と、淡々と、軽やかに、そしてしなやかに、確かに、明るく笑って受け止めてゆかれた「橋本美学」といったものを私はそこに感じます。それを支え続けた奥さまやご家族の存在も大きかったことでしょう。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」というヨブ記の言葉を想起します(2:10)。

橋本さんの愛唱聖句を引いてこのレクイエムを終えたいと思います。橋本さんの83年間のご生涯が私たちの直中に置かれていたことを神さまに感謝し讃美しつつ、私たちにも上からの不思議な聖なる光が注がれていることを思いながら。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8:35-39)

s.d.g.

(むさしのだより2011年5月号より)