たより歴史「むさしの教会だより」の思いで」 西村 友則

私が「むさしの教会だより」の発行にたずさわったのは1972年(昭和47年)7月号からで1978年(昭和53年)12月号までの7年間であった。

 1972年5月頃、賀来牧師から信徒のS兄と組んで「むさしの教会だより」の発行にたずさわってほしいとの依頼をうけた。この依頼の背景には若い信徒の育成という役員会の意向があったらしい。そこでS兄と私の二人はこの任を引き受けることになった。

 「むさしの教会だより」の今までの発行状況は不定期で年に3回から4回発行されている。そして原稿集めから編集、印刷まで一切を牧師一人で行っているため、牧師にとってもそれなりの負担であったと思われる。この部分で我々信徒がその責任の一端を負うことができるだろうし、役員会の意向もこの辺にあると思われた。

 「むさしの教会だより」の発行は教会員相互の交わりを深めると共に、伝道にも利用価値が大きいので、私たちの活動もこの点に絞られた。

 発行は今までどうり不定期とするが、出来れば発行回数を増やしてゆくように努力することにして、1972年7月号を出した。「むさしの教会だより」の発行回数を増やすには原稿集めとともに教会予算の制約もあった。当時はワープロやパソコンがなく、謄写版か印刷屋に出して活版印刷にするかである。後者が一番よいが、前者は読みにくく手間もかかるが安価である。1972年7月号から1973年4月号まではこの両者を組み合わせて6回発行された。1973年5月号からは妻の協力を得て、当時宣教師として武蔵野教会にいらしたキスラー先生の和文タイプをお借りして横書きの「むさし教会だより」が5回発行された。和文タイプ印刷では横書きになるが、外注してもかなりコストを下げることができた。1973年12月号からは外注され、1975年1月号まで7回外注で発行されている。

 「むさしの教会だより」の発行も回数を重ね、1975年5月武蔵野教会に週報月報委員会が作られ、私が委員長に就任した。週報もぐっと大きくなって読みやすくなり、「むさしの教会だより」の発行も一段と強化されることになった。予算とメンバーが強化され、1975年7月号からはこれまでの「むさしの教会だより」を初版から数え直し、第50号とした。印刷も横書きタイプ印刷をやめて、縦書きタイプ印刷になり、一層読みやすくなった。さらに1975年11月号より毎月発行に踏み切り、月報の体裁も整った。「むさしの教会だより」の編集方針も大きく変わった。「むさしの教会だより」は従来教会行事の報告記事に偏っていたものを、教会行事を先取りし、これに積極的に参加するようになった。その結果、「むさしの教会だより」が夏の修養会におけるハンドブックの役割を果たしたり、年頭に行われる武蔵野教会総会資料として使われる等、教会行事の中で重要な役割を果たすようになった。

 また長く連載された読み物として1973年5月号から始まった青山四郎牧師の「私たちの教会」は1976年7月号までに21回連載され、1976年10月号からは石居正己牧師に引き継がれ、1977年11月号までに11回連載された。この読み物は1978年10月『私たちの教会50年』の発行につながる。また山田実先生の「礼拝を生き生きとするために」は1976年1月号から1978年12月号までに28回連載された。

 1976年1月、三鷹礼拝がルーテル神学大学228番教室でひらかれ、三鷹礼拝に出席していた私は、三鷹礼拝の円滑な運営に力を注ぐようになり、1978年12月号を最後の委員長の任を辞した。