マタイ

説教「二人または三人の中にいてくださるキリスト」 大柴譲治牧師

マタイによる福音書 18:15-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「私を、あなたの友にしてください」

「私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」
(八木重吉 第一詩集『秋の瞳』 序)

魂に響く言葉が存在するのだということを私はこの詩人から教えられたように思います。これは信仰の詩人・八木重吉の第一詩集『秋の瞳』の序の言葉です。神学校時代に石居正己先生がやはり八木重吉を授業の中でしばしば引用されていました。八木重吉1898-1927・明治31年-昭和2年)は29歳で肺結核のために亡くなりましたが、彼が詩を書き始めたのは24歳。亡くなるまでの5年間に実にたくさんの詩を作っています。

もう一度お読みします。「私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」

私たちは友の存在に大きく支えられるということを知っています。友愛(フィリア)というものを重んじたアリストテレスやキケロといった哲学者のみならず、『走れメロス』を書いた大宰治などのことをすぐに思い起こします。るうてるの福音版に毎月優れたコラムを書いておられる堀肇先生は、ポール・トゥルニエという精神科医を紹介しつつ、「友情というのは動物には存在せず、人間固有のものであり、友愛というものは人間にとって最も美しい価値である」と最近考えていますと私におっしゃってくださいました。私自身も友情の大切さを考えます。夫婦であっても、親子であっても、兄妹であっても、互いに友愛の情を保ち続けることはとても重要なことなのではないかと考えています。なぜかといえば、友情というものは、上下関係でもなく、強弱の関係でも、優劣の関係でもなく、人間として対等な「我と汝」の関係を前提としているからです。

本日の使徒書の日課でパウロは次のように言っていました(新共同訳聖書には「隣人愛」というタイトルがついています)。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:8-10)。この「隣人を自分のように愛する」ということで、実はパウロもまた「友情」について語っているのではないかと私には思わされるのです。

友情の大切さを私たちは体験的に知っています。私たちは友が欲しいと心底真剣に思っている。しかし現実の私たちは、友の大切さを知りながらも、なかなか真の友を見出すことができないでいる。人間関係の困難さの中で、照れ臭さや見栄などもあって、なかなか重吉のようには素直になれず、「私を、あなたの友にしてください」と言えずにいるのです。だからこそ私たちは、先ほどの言葉に表された八木重吉の寂しさがよく分かるのだろうと思います。

友とは何かというと、それは深いところで大切なものを分かち合う関係でありましょう。響き合う関係といってもよい。しかしそれはまたただ単に響き合うだけでない。本当の親友というものが喧嘩をした後に仲直りをすることを通して与えられ、友情が対立を乗り越えることで互いに深められてゆくように、真の友情とは、言いにくいことをも互いに言い合うことのできる関係、よい意味での批判し合える関係を意味していることも忘れてはなりません。遠慮しあっていては、表面的なことばかりでは、本当の友は得られないのです。

八木重吉の詩を読むときに私たちの心の琴線が震えるような気持ちになるのは、そこに重吉の、弱さや破れや恐れや憤りを含めたごまかしの無い本当に正直な思いが、率直にそして正確に言葉化されているからだと思います。そしてその正直さに心動かされ、そこに自分自身の姿を重ねて見ることができるからではないかと思います。別の言い方をすれば、詩の真実な言葉を媒介として、私たちが時空を超えて、心の深いところでつながる(哀しみの中で響き合う)体験を持つからだと思います。

罪を忠告し合うことができる関係

本日与えられているイエスさまの言葉は、兄弟についての教えですが、そのような真の友情について語られているように思います。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(マタイ18:15-17)。

最後の「異邦人か徴税人と同様に」という言い方は少し気になるところですが、細かいところにこだわって大切なことを見失わないようにいたしましょう。これは私たちに罪を忠告つまり戒め合い、悔い改め合い、赦し合うという相互の関係を求めた主の言葉です。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではなくて無関心である」と言いましたが、それは私たちに隣人との深い関わりを求めた言葉です。教会の兄弟姉妹の交わりというものは、無関心の関係ではなく、互いにほってはおけない関係なのです。「忠告する」というのも「裁く」ということとは違います。人を裁くということも、多くの場合、無関心の変形(ヴァリアータ)にすぎないのではないかと私は思っています。ここで言う「忠告する」とは(傍観者的に「裁く」のではなく)「愛をもって向かい合うこと」を意味しています。

二人の間で問題となるのは「罪」と「義」の次元です。聖書で用いられる「罪」という言葉は、何か悪いことをしたというよりも、むしろ本質的には神さまとの破れた関係を表す言葉ですから、神さまとの関係を忘れてしまっているということでありましょう。そこではもう一度神さまとの正しい関係に立ち返ること、「和解」ということが求められているのです。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:18-20)。

この18節の言葉はマタイ16章で、ペトロに天国の鍵を授けるとイエスさまがおっしゃったところにも出てきた言葉です。この地上で罪を赦すことと赦さずにおくことが即天上での出来事、つまり救いの出来事に結びついているというのです。「罪」ということはそのような決定的な次元の事柄なのです。神さまとの関係が修復されるか破れたままであるかということは大問題なのです。

私たちはふだんはあまり「信仰」の持つ力について感じませんが、ギリギリの切羽詰まった状況に置かれたときに気づかされるのです。私たちが生きる上で、そしてそれだけではなく死ぬ上でも、神さまとの関係こそが一番大切な事柄であるということを。パウロはそのことをロマ書14章でこう言い切りました。「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と(14:8)。

本当の友情とは、このような無くてはならぬ唯一の次元へと互いを導くことなのです。主は言われました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(19-20節)。この言葉を友情に対する祝福として受け止めたいと思います。二人または三人の真実な交わりの中には主が共にいてくださるのです。

キリストのまなざし

先ほど教会賛美歌298番を歌いました。その3節にはこうありました。

われを見たもう、救い主の愛に満つるひとみ、
罪をゆるし、やすき与え、いのち満たしたもう。
嘆きいたむわれを捕えたもう、
神の愛のひとみ わが主のまなざし。

キリストのまなざしを私たちはどこに認めることができるか。それは私に真剣に向かい合い、関わってくれる友のまなざしの中に、それを認めることができるのです。我と汝の出会いの延長線上に永遠の汝の熱いまなざしがあるのです。友との和解と神との和解はそこでは一つに重なっているのです。

「私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」

八木重吉は神への詩を歌うことでそこに真の友を求めようとしました。神を求めることの中に本当の友が与えられてゆくということなのです。地縁でも血縁でもない。聖霊縁とも言うべきつながりの中に本当の友情が上から、恵みとして与えられてゆく。私たちは互いにキリストにある友として、和解の使者として出会うのです。

二人または三人の中に(もちろん、それはキリスト者だけに限定されるわけではありません!)キリストが共にいてくださるということを、私たちはそのような交わりに対する祝福と約束と希望の言葉として受け止め、聴いてゆきたいと思います。

八木重吉の言葉で始めましたので、もう一つの八木重吉の詩で終わりたいと思います。

ひとよろこべど
そのよろこびにわれはおどらず
われかなしめど
わがかなしみにひとはなかず
くるひたるがごとく
けふもあゆみゆくなり
ああたれかありて
おなじおもひをかたるものはなきか
(欠題詩群(一)より)

ここにお集まりのお一人おひとりの上に神さまの豐かな祝福がありますように。私たちに与えられている夫婦、親子、兄弟などの家族や、学校や職場や地域における他者との一つひとつの交わりがキリストのゆえに豐かに祝福されますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 9月25日 聖霊降臨後第19主日礼拝)

説教 「子を思う母の信仰」 大柴譲治牧師

マタイによる福音書 15:21-28

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

主イエスの冷たい態度

本日の日課に記されている出来事はマタイとマルコの二つの福音書にしか記されていません。これは大変に心に残るエピソードです。なぜ心に残るのか。いくつかのポイントがあると思います。

第一に、イエスさまの不思議なほどの冷たさが印象に残ります。いつもであれば重荷を負うて苦しんでいる者たちに対しては底抜けに心優しいお方が、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫び続ける異邦人であるカナンの女性に対しては冷たい態度を取られるのです。まなざしは穩やかであったかもしれませんが、最初は沈黙されている。

やがて発せられた言葉も冷たく響きます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。イエスの前にひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と続ける婦人に対してもこうです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。やんわりとした拒絶です。神の子供であるユダヤ人のものを子犬である異邦人には与えないと言うのですから。

これらのやりとりの背景にはユダヤ人と異邦人の切断された関係があるわけですが、これはその深淵をもイエスさまが超えてゆかれたエピソードとして理解されるべきなのでありましょう。しかも、マルコ福音書には記されていない、マタイだけが記している28節の言葉がそれをさらに強調してゆきます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。

福音書は、イエスさまがしばしば異邦人の信仰をほめたことを記しています。たとえば、マタイ8:5-13には病気の家来のためにお言葉をくださいと申し出た百人隊長がほめられています。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」主イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

これらのエピソードに共通しているのは、神の権威とその憐れみに対する絶対的な信頼です。神はユダヤ人にも異邦人にも揺るぐことなく憐れみ深い。そのようなお方として存在しているのです。イエスさまの異邦人の女性に対する冷たい態度は、しかし、結果的には弟子たちの目をユダヤ人と異邦人の隔ての中垣(壁)を越えてゆく次元に導いてゆくものとして働いたのだと思います。

子を思う母の愛

イエスさまの冷たい態度が印象に残ると申し上げましたが、次に印象に残るのは、やはり「母は強し」という点です。無視されても、拒絶されても、ひたすら病気の娘のためにイエスさまにおすがりしてゆこうとする一人の真摯な母の姿。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」という叫びの中に現れている子を思う母のひたむきさが私たちの心を打ちます。

子を思う親の気持ちは歴史や洋の東西を超えて私たちの心に響いてきます。私はこの母親の姿の中に自分の母の姿を見るような思いさえします。皆さんはいかがでしょうか。母なるものをこれほど深く表現した場面は多くはないのではないでしょうか。

そして本日示されているのは単にひたむきさだけではない。私たちはこの婦人の、ユーモラスとも呼ぶべきしなやかな、機転の效いた賢さにも心打たれる思いがいたします。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われると、その言葉と同じライに沿ってこうその婦人はこう言うのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。自分を食卓の下の子犬として位置づけている。注意してください。しかし子犬も、食卓の下にいたとしても、やはり同じ神の家の住人だということが前提とされています。

私たちはともすれば、必死になるあまり、冷静さをなくし、余裕がなくなってしまうことが多いように思います。しかしこの女性はそうではありません。どこまでも謙遜で従順な立場を貫きながら、主であるイエスさまの憐れみに拠り頼む姿勢を崩すことなく対話を止めないのです。「頑張らない」「あきらめない」という書物が最近ありますが、まさにそのような何としてもあきらめない態度です。「求めよ、さらば与えられん。搜せ、さらば見いださん。たたけ、さらば開かれん」というイエスさまの言葉を地で行ったのです。

いや、そう見てゆくだけではおそらく違うのかもしれません。彼女の余裕のあるように見えるはどこから来るのか。実は彼女には直感的に分かっていたのではないか。イエスさまを一目見るだけで、このお方は自分の叫びに必ず答えてくださるお方だと直感したのではないか。困難な弱い立場に置かれた者には、確かに「虫の知らせ」と言いましょうか、「第六感」とも呼ぶべきものが働くことがあるからです。

苦難の中で

病いに苦しむ娘と一緒の生活の中で、彼女は自分の無力さをつくづく味わってきたのだと思います。「悪霊にひどく苦しめられている」という表現の中に、娘とその母の苦しみは表されています。

「悪霊につかれる」というのは、具体的にはどのような症状であったかは記されていませんので分かりませんが、七転八倒するような苦しみでありましょう。どこにも出口の見えない持続的な苦しみです。人間にはどうしようもない次元がそこでは語られている。しかしそのような絶望的な状況の中でその母は、「この子には自分しかいない、この子を捨てるわけにはいかない」ということに気づかされてゆく。そこに踏みとどまり、自分を捨て、子供ために生きようとするその母親のひたむきな姿が私たちの心を打ちます。母親はその娘の病気を通して変えられていったのだと思います。

子育ては祈りに似ています。子供が病気になったときなどは特に親は自分の無力さを感じたり、自分を責めたり、自分が子供の身代わりになってもよいとさえ考えたりします。しかし自分の力ではどうしようもない現実は変わらないのです。自分のそのような無力さ、辛さ、限界と向かい合いながら、彼女は打ち砕かれ、自分を超えたところに自分の子供の将来を託してゆく者へと変えられてゆきました。

子供や家族の一人が重い病気や障害や課題を抱えている場合、家族の全体がその一人の存在によって変えられてゆくということが起こります。ノーベル文学賞を取った大江健三郎氏も、光さんという重い脳の障害を持って生まれた長男によって自分は生きるものとなることができたと語っています。大江光さんは作曲家として自分の世界を打ち立ててゆきました。

それと同じように、そのカナン人の母親は娘と共に苦しみを分かち合う中で、打ち砕かれ、悟ったのではないか。命は神さまのものであって、われわれのものではないということを。人間は命を私物化することはできないのだということを。生命は「天からの授かりもの」ではなく、「天からの預かりもの」だということを。そして私たちは、その天から預かったものを最後まで正しく管理するよう求められていて、最後は再びそれを神さまにお返ししてゆくのだということを。

天の食卓から落ちるパンくず

母親は主にこう答えました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。彼女は苦難の中で知ったのです。私たちは神さまの憐れみによって生かされているということを。私たちに備えられている日ごとの食物、それは天の食卓から落ちてくるマナ(いのちのパン)なのです。

主は、娘と共に苦しみを背負い続けてきた母の中に働く神さまのみ業を認めたのです。「『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」とマタイ福音書は記しています。この主イエスの言葉は、苦しむ者に対する祝福の言葉ではないかと思います。

苦しむ人々に接する牧師の仕事をしていて感じることは、苦しみにはそのような神さまの特別な祝福にあずかるという意味があるということです。先週も教会員のNさんのご主人をご自宅にお見舞いしてまいりました。昨年秋に突然の大動脈瘤破裂で手術を受け、九死に一生を得た後、原因不明の高熱と戦いながらも、ようやく10ヶ月あまりの入院生活を終えて、8月初旬に退院し、現在は自宅療養をされておられます。まだお話は少し不自由ですが、少しずつ言葉を発することもできるようになり、車いすに座ってしっかりと私をお迎えしてくださいました。

「神さまのお守りの中に、死線を超えてこられたのですね」と申し上げますと、涙を流してうなずいてくださいました。私もその姿に思わず目頭が熱くなりました。お祈りをした最後にはっきりと「アーメン」とおっしゃってくださり、奥様も「今まで『あ』という言葉がうまく発音できなかったのに、ちゃんと言えたわね」と喜んでくださいました。最後はわざわざ玄関までお見送りくださり、その笑顔と涙に私は心の洗われるような思いをしてご自宅を後にさせていただきました。

私たちは神さまの食卓から落ちる恵みのパンくずをいただいて生きるのです。そのことを思いながら、ハッと気づかされました。子を思う母の信仰が本日の主題ですが、実はそこには、私たちを子と思う母であり父である親なる神さまの熱い思いが重なっているのだということを!悪霊に苦しめられている状況から私たちを何としてでも救い出したいと願われたがゆえに、神はその独り子イエス・キリストをこの地上に派遣してくださったのだということを。

本日私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンとワインを差し出してくださった主イエス・キリスト。これこそ、私たちを生かすために天の食卓から落ちる恵みのパンであり、ワインです。そのことを思い巡らせながら、ご一緒に聖餐式に与りましょう。そして神さまの恵みをいただいて新しい一週間を歩み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの豊かなお恵みがありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 9月04日 聖霊降臨後第16主日礼拝)

説教 「冷たい水一杯でも」 江藤直純牧師

マタイによる福音書 10:34-42

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

この礼拝堂ができたのが1958年、今から47年前のこと。それから何度か手が加えられました。1959年には正面の壁面には真っ黒の大きな十字架が架けられていたのが、アメリカの教会から寄贈されて現在の美しいステンドグラスに変わりました。武蔵野教会といったらあの羊飼いであるイエス・キリストの絵と誰もが思い出す、このステンドグラスです。梁(はり)が剥き出しだったのが真っ白な天井板が張られました。エアコンもスピーカーシステムも改善されました。牧師館の東側のお部屋の上に乗せる形で教会の和室を増築しました。狭かった台所はきれいで広いお手洗いに変わり、玄関の西側に新しい台所や食堂、二階の集会室が加えられました。現在の駐車場の中央部に鷺宮の神学校の物置小屋を解体して担いできて、組建て直し、畳を敷き、掘っ立て小屋なのに石居正己牧師を覚えて「石居記念館」などという大層な名前をつけて4畳半2間の教会学校の教室を手作りで作ったのはもう35年も前のことです。現在の会員の方々の多くがご存知ではないエピソードを話せるなんて、わたしも随分と年をとってしまったものだと思わず苦笑いをしないで入られません。

でも、お話したかったのは、個人的な感慨ではありません。現在地に移転してから47年にわたっていろいろな成長発展を遂げたけど、一貫して変わらなかったのは、ノアの箱舟をかたどった礼拝堂そのものですし、礼拝堂全体の三分の一もある広い聖壇、その中心にある聖卓、聖書朗読台とこの説教壇です。聖霊を象徴する純白の鳩、神の小羊を刻んだテラゾー、六コのブロンズの燭台、外壁の野あの箱船のレリーフはそのままです。そして、なにより変わらず続いたのが、この説教壇から語られる福音のメッセージそのものです。青山四郎先生野後を受けた益田啓作先生からから現在の大柴譲治先生まで牧師は何人も交代し、国内外から多くのゲストスピーカーを説教に招きましたが、そこで語られる福音は、聖書が証しする神の愛、イエス・キリストの十字架と復活によって明らかにされた神さまの限りなく大きく深い愛でした。主日礼拝であれ、教会学校の礼拝であれ、結婚式であれ、葬儀告別式であれ、少しも変わることなく、全くぶれることなく神の愛の福音が語られました。

聖書に基づき、少しもぶれることなく、同じ福音が語られてきたと申しましたが、実は聖書には一見すると正反対に見えること、あそことここでは違ったことを言っているように思えることが少なからずあります。先々週の福音書の日課には「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリヤ人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところに行きなさい」とイエスさまが仰っているのに、同じマタイ福音書の最後では「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と全世界への宣教の大命令を発しておられます。もっと小さなことでは、金持ちの青年が永遠の命を求めてなにをなすべきかと尋ねると、イエスさまは「あなたにかけているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積む」と実に厳しいことを仰ったかと思うと、その一章後では、あの徴税人ザーカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人に施します」と誓うと、「今日、救いがこの家を訪れた」と言って喜んでくださってます。全財産だったのが半分でよくなったのでしょうか。

そして、今日の福音書の日課です。山上の説教の中の有名な一節「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」、口語訳で言えば「平和を作り出す人たちは幸いである」というあのイエスさまの教えを、皆さんは胸に刻み込んでいらっしゃるでしょう。旧約から新約に聖書全編を通して、愛と平和と正義、この三つは繰り返し繰り返し語られています。アッシジの聖フランシスに帰せられているあの平和の祈りを愛唱していらっしゃる方々も少なくないでしょう。この8月3日には東京教会で、パレスチナ人のルーテル教会牧師ミトリ・ラヘブ牧師を招いて「爆弾には愛を。ー瓦礫から生まれたガラスの天使の物語ー」という講演会を催し、平和を訴えようとしているではありませんか。(ガラスの天使を見せる)

それなのに、聞き違いではないかと我が耳を疑うようなイエスさまの言葉が記されているではありませんか。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」(34節)。さらに続く言葉にも驚かないではいられません。「人をその父に、娘をその母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(35節)。家庭崩壊だ、ドメスティック・バイオレンス家庭内暴力だ、虐待だ、子どもによる親殺しだなどなどさまざまに病んだ社会の現実を毎日のように目にしていますと、イエスさま、あなたがここで仰っていることは一体どういうことでしょうか、としがみついてでも尋ねないではいられなくなります。

宗教の違いで仲違いせよというような教えであるはずがありません。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」という時の「もたらす」は「投げ込む」とも訳せる言葉です。「平和ではなく、剣を投げ込むために来たのだ」と読めるのです。イエスさまが教えておられる、いえ、教えるだけでなく、自ら十字架にかかって打ち立ててくださった平和は、外からぽんと投げ込むような形で実現するものではありません。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人を造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ2:14-16)。

この平和は、外からポンと投げ込めるような、仲間内だけの小さな仲良しという意味の平和ではありません。親子や嫁姑が父や母、姑の支配のもとで保っている「平和」、あるいは同じ民族、同じ宗教の者同士が固まって保とうとするような「平和」、そんなものがイエスさまの仰る平和ではありませんでした。むしろ、そのような自然的な、内に固まり外に壁を作って敵対するような集団内の「平和」は一度切り離さなければならないのです。「わたしは敵対させるために来た」と言われる意味は、そのような内には一見平和そうだけど、外に対しては敵対するような、あるいは内側でも秩序や支配で保たれている、そのような「平和」は一度ばらばらにされて、真の平和を築かなければならない、私はそのために来たということなのです。「剣」とはそのような既存の排他的「平和」を一度組み立て直すための道具なのです。

でも、十戒で「あなたの父と母とを敬え」と教えられて以来、神さまが家族を大切になさらないはずがありません。ですから、ここでイエスさまは「わたしか、父や母か」「わたしか、息子や娘か」という二者択一を迫っておられるのではありません。「わたしよりも」という意味は、親子関係や嫁姑関係、同じ民族、同じ宗教集団というもののほうがいちばん大切と思いがちなわたしたちに、それらはもちろん大切なのもの、大事なものだけれども、それがそれ自身でいちばん大切なものではない、それが神さまの地位に座ってはいけない、と仰っているのです。もしそうなったら、その関係以外、つまり他の民族や他の宗教集団とは憎み争っても仕方がないということになります。あるいは、家族内でひとたびなにかがおかしくなったら、親子でさえも殺し合うほどの歯止めが利かない事態が起こります。現に起こっています。中東ではイスラエルとパレスチナ、ユダヤ教とイスラム教、世界規模ではイスラム教原理主義とキリスト教原理主義、東アジアの関係のもつれも深刻です。

そのような閉じられた関係、集団の中の「平和」ではないのです。秩序や原理原則やもろもろの伝統に縛られてなくてもっと自由な、また、自分の属する枠の外の人々に対しては謙遜な、さらには、誰に対しても愛に満ちた、そのような平和とは、「神さまを中心にし、キリストを一番にし、それぞれが『自分の十字架を担って』」初めて実現する平和です。自分の欲望を中心にしないのです。誰かを犠牲にして成り立つ自己実現ではないのです。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」、このイエスさまの言葉で、「わたしのため」というところを「愛のため」とあるいは「神さまのため」と置き換えると、すっと納得がいくのです。

ラヘブ牧師野講演題になっている「瓦礫から生まれたガラスの天使の物語」とは一体なんでしょう。イスラエル軍がベツレヘムとかラマだとかパレスチナの領域に侵攻してきて街や建物が破壊され瓦礫の山が出来た時、彼は住民達と共に瓦礫の中から拾ってきて彼が所長を務めるベツレヘム国際センターでガラスの破片で天使の人形を作り、愛と平和のシンボルとして平和活動に役立てているのです。ですから、講演の題は「爆弾には愛を。」なのです。

マザー・テレサが、「愛の反対はなにか」との問いに対して、多くの人が予想するように「愛の反対は憎しみです」とは答えず、「無関心です」と言われたことは有名です。憎しみがいいことではないのは言うまでもありませんが、少なくとも憎む相手として存在を認めています。それに引き替え、「無関心」はそもそも相手に関心を払っていません。もっと強く言えば、その人の存在そのものを無視している、認めていないのです。だから、愛の感情はもとより憎しみの念さえ湧かないのです。そこには打ち立てるべき平和の前提としての相手の存在すらないのです。身内あるいは仲間、同胞、利害を同じくする集団にしか目が行かないとき、イエスさまは「剣を投げ込まれ」、自分自身を切り離して最初からやり直させてくださるのです。「敵対させる」とか「敵となる」とはいささか強すぎるように響く言葉ですが、家族や民族、国家、宗教を排他的に最高のものと思っているとき、それらをとらえ直すためには、これくらい強い言葉もショック療法には必要でしょう。

そのように「キリストを一番」にする人、つまり「愛を一番」にする人、そのために「自分の十字架を担って主イエスに従う」人のことを、イエスさまはほってはおかれません。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と仰いました。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とまで仰るのです。つまり、あなたがたを受け入れる人はキリストを受け入れ、キリストを受け入れる人は神さまを受け入れるのだ、と。自分の十字架を担って愛のために生きる人、愛のために自己中心的な思いを抑えて、逆に人に仕え人と平和を築いていく人、そのような人を受け入れることは、結局は神さまを受け入れうことになると言われているのです。それほどまでに神さまはそのような生き方をする人を愛し尊び受け入れてくださるのです。

この教会の大柴麻奈ちゃんと佳奈ちゃんが、全国のルーテル教会の青少年16名とともにアメリカにワークキャンプに行きます。外国で、会ったこともなくこれまでに名前も知らず、これからも再び会うことはないかもしれない人たちのために、これまたこれまで一度も会ったこともなく、言葉もよく通じない外国の友達とともに、汗水流して働くのです。体を使い、時間を使い、お金を使って。それもまた真の平和を築くための一つの試みです。戦争がないという意味での平和ではなく、心の深いところでの平和です。キリストの平和です。

ここにいらっしゃるお一人おひとりも、それぞれの場で、キリストを一番にすることから見えてくる、真の平和を作るための営みに加えていただくために、それぞれの場でのワークキャンプに参加しましょう。それが家庭においてか、職場においてか、地域社会においてか、人々とのつながりの中でか、あるいは寝たきりのベッドの上でか、いずれであれ、キリストに従っていきましょう。そのような者に主イエスは「わたしにふさわしい者よ」と声をかけてくださるのです。

アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 7月17日 聖霊降臨後第9主日礼拝)

説教 「悪人にも善人にも」 大柴譲治牧師

マタイによる福音書 5:38-48

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題~「敵を赦すこと」

本日の主題は明確です。本日の福音書の日課の山上の説教において主イエスは「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」と語られていますし、旧約聖書の日課であるレビ記19:17-18にはこう記されています。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

これほど「言うは易し行うは難し」という戒めもないだろうと思います。「あの人だけは赦せない」とか「他のことは赦せたとしてもあの行為だけはどうしても忘れられない」という思いが私たちの心の底には潜んでいる。ふだんは忘れていても、何かでスイッチが入ってしまうと連鎖反応を起こしてそれらを思い出して腹が立つということがあるのだと思います。そして、赦すことが私たちに求められていると分かっていてもできない。だからこそ私たちは苦しむことが多いのだと思います。あるいは、私たちはもう最初から自分には赦すことなどできないと開き直る以外にはない。そのような諦めに似た気持ちさえしてきます。それほどまでに怒りと憎しみというものは私たち人間の現実の中に力を持ち、それをコントロールするということは難しい。怒りと憎しみの連鎖反応というものは私たちを越えて突き動かしてしまうもののようです。

そのような私たち人間の現実の中で、何を本日のみ言葉は語りかけているのか、それを思い巡らせてまいりましょう。

「悪人にも善人にも」

自分には到底できそうもない「敵を愛し迫害する者のために祈る」ということの大切さに、天を見上げるときに突然気づかされる時があります。自分の外を見る時、突如として神の恵みが分かることがある。主は言われました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 太陽の恵み、雨の恵みがある。大自然の恵みはすべての人に等しく注がれています。悪人にも善人にも豊かに注がれている。大自然を見つめる時、否、自然に打たれる時に、私たちは自分の小ささ、自分の狭いこだわりなどに気づかされ、突然パーンと殼がはじけて割れるような、目からうろこが落ちるような体験をすることがあります。

かつて大阪の淀川キリスト教病院で精神科医をされていた柏木哲夫先生の話をお聞きしたことがあります。日本人が心を慰めるものに三つある、と。何だと思われますか。水と緑と魚だそうです。水と緑と魚? そう、それだからこそ日本人は日本庭園を見ると心が落ち着くのだそうです。日本庭園には苔むした緑の真ん中に心字池があって鯉が泳いでいます。水と緑と魚が揃っている。柏木先生は患者さんたちから話を聞くことの中でそれを発見して、ホスピスの小さなベランダに箱庭のような日本庭園を造られたそうです。すると患者さんや家族がその小さな庭を前にして深く心を落ち着かせることができるようになったということでした。

私は1995年から2年間滞在していたフィラデルフィアでも同じ体験をいたしました。子供が熱を出したので急いで近隣の病院に連れて行くと、そのロビーに大きな熱帯魚の水槽が置かれていました。色とりどりの魚を見てなぜかホッとしたことを思い出します。水と緑と魚、それと出会った時に深く慰められた思いがいたしました。また、昨年夏に三ヶ月滞在しホスピス研修を受けたサンディエゴでも同じです。七つの介護ホームにいる15人の患者さんを担当して週一回のペースで訪問したのですが、そのうちの二つの施設にはやはりロビーに大きな熱帯魚の水槽が置かれていました。それらの施設は総合的に見て雰囲気もよく、穩やかで、入所者たちによいケアを提供していると感じました。そのように自然は、日本人のみならず、アメリカ人にとっても心を癒してくれる存在のようです。

確かに日本では、映画でもテレビドラマでもよく観ていると、何か心が抉られるようなショッキングな出来事、悲しい出来事などが起こった直後の場面に、遠くの山であるとか、風にそよぐ森であるとか、流れる川であるとか、空を飛ぶ鳥であるとか、自然のワンシーンが映し出されることが多いことに気づかされます。川べりなどを散歩すると緑の木陰や小川の流れが本当の自分をもう一回取り戻す思いを与えてくれることを私たちは体験的に知っています。自然には私たちの心を慰め、落ち着かせてくれる何かがあるのです。水と緑と魚。確かにそれらは不思議な力を持っているようです。「野の花、空の鳥を見よ」と主は言われましたが、その言葉は(本日の日課の)天の父が備えてくださる太陽の恵み、雨の恵みと重なるように思います。

悲しみや憤りや憎悪などの激情に捕らわれている時、私たちは自分自身に囚われているのでしょうが、自分の外を見てゆくことがどうしても必要なのです。2003年の大河ドラマ『武蔵Musashi』の中で、剣の達人・柳生石舟斉が武蔵に剣の稽古をした後でこう問う場面が印象に残っています。「その時お前は風を感じたか。鳥の声、水の音が聞こえたか」。石舟斉にまったく齒が立たなかった武蔵は自分の心の中にある悔しさだけしか見えていなかったのですが、その問い掛けにハッと気づかされるのです。全く外の世界が自分には見えていなかったことに。自分は風も感じなければ、鳥の声、水の音も全く知らなかった。それに気づく。

この場面は私にとってはとても印象的でした。私たちはそのような存在なのです。自分の中にある激情に囚われている限りは、本当の事柄は見えてこない。真実が見えてくるためには、自分から目を離して自分の外を見なければならない。自分の外にある神の創造された世界を見つめ、そこに神の恵みの現実があり、自分がそれとつながっていることを見てゆくことが求められているのです。

「インマヌエルの原事実」(滝沢克己)

最初に教会賛美歌382番を歌いました。そこにはやはり被造物における神の恵みが歌われていました。

1.ここは神の世界なれば あめなる調べは四方に聞こゆ。
岩も木々も空も海も くすしきみ業をさやに示す。

2.ここは神の世界なれば 野ユリも小鳥も神をたたう。
風にそよぐ草木にすら とうときみ神のみ声を聞く。

3.ここは神の世界なれば 悪魔のちからはやがて滅ぶ。
わが心よ、などて嘆く、王なるわが神 世を統べます。

そして神の恵みが私たちを取り囲んでいることが見えてくるのは、自分の努力や修業によるのではなくて、100%向こう側から与えられる恩寵なのです。自分が無となり、自由となって、自分の執着から離れた時なのです。どうすることのできない人間の悲しみや苦しみの現実の中にあって、そしてすべてが揺れ動く万物流転諸行無常の世界の中にあって、一つだけ決して揺れ動くことのないものがある。それが神の言であり、神の愛です。

西田幾多郎、カール・バルトという東西の碩学に師事した滝沢克己という信仰者は、それを一言で「インマヌエルの原事実」と言いました。「インマヌエル」とは「神われらと共にいます」という意味です。天地が揺れ動こうともこの「神われらと共にいます」、「インマヌエル」という事実は決して揺れ動くことはない。すべての現実をその根本にあって支えているという意味でそれを滝沢克己先生は「原事実」と呼んでいるのです。

時々遠くに目を向けること。悪人にも善人にも等しく注がれる太陽の恵み、雨の恵みに思いを馳せてゆくこと。つまり自分を越えたものとつながって生きること、生かされていることを知ること。それが私たちを自分の苦しみや悲しみ、怒りや憎しみに囚われていたところ(私たちの「バビロン捕囚」)から解放してくれるのだ、そう思います。それは神の聖霊による捕囚からの新しい解放なのです。

聖餐式への招き

本日私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンとぶどう酒を分かち合ってくださったお方。その主イエスの言葉は、どのような時にも神がわれらと共にいますということを宣言する言葉なのです。昨晩は大雨が降る中でカントリーコンサートが行われましたが、雨に悩むの時にも確かに神さまの置かれた虹はかなたにあるのです。この教会堂がノアの箱船を模して造られているということは深い意味があると思います。この壁の外側には虹を見上げる動物たちが描かれています。インマヌエルという私たちを根源的に支える恵みの事実をそれは証ししています。聖餐を通して私たちはそのわれらをとらえたもう神の深き愛を確認し、怒りと憎悪の渦巻くこの世界にあって、キリストの十字架の上に成し遂げてくださった赦しと平和とを見上げて、確信をいただいて、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神様の豊かな祝福がありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 6月5日 聖霊降臨後第三主日聖餐礼拝)

説教 「おはよう!」 大柴譲治牧師

コロサイの信徒への手紙 3:1-4 / マタイによる福音書 28:1-10

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

上からの光~使徒書の日課より

イースターおめでとうございます! 教会では一年中で今日が一番嬉しい喜びの日でもあります。十字架の上に死したキリストが三日目によみがえられた! 圧倒的な力を誇ってきた死がキリストによって突破され、死が死を迎えたのです。死は終わりではない。死の向こう側にある究極的な命が勝利した。ですから私たちは今日、大いなる喜びの日を迎えています。たとえ私たちが未だ絶望的な悲しみや苦しみの中にあるとしても、私たちはこの喜びの日を迎えているのです。確かにまだ夜は過ぎ去っていないかもしれません。しかし既に曙の光が射し登ってきている。それが復活日の意味であります。

使徒書の日課のコロサイ3:1-4でパウロはこう告げています。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。どのような悲しみや苦しみがこの世において私たちを圧倒しようとも、すでに曙の光は私たちの所に射し込んでいる。そのことを大いに喜び祝おうではありませんか。

パウロは「あなたがたはキリストと共に復活させられた」と言います。だから「上にあるものを求めなさい」と勧める。そこではキリストが神の右の座に、栄光の座に着いておられる。曙の光の中にキリストの栄光が輝いている。だから私たちは上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにすべきなのです。

しかしそれはどのようにすればできるのでしょうか。パウロは言います。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と。私たちは死んだのだと言うのです。そして私たちの命は今はキリストと共に神の内に隠されていると言う。「隠されている」というのは「見えない」ということです。私たちは死んでその命は神の中に隠されている、見えないのだと言う。それが見えるようになる時はいつか。それは、私たちの命であるキリストが現れる時だというのです。その時に私たちもキリストともに栄光に包まれて現れるであろうというのです。

パウロは私たちがキリストと共に復活させられたと言いつつ、同時に私たちは死んで私たちの命は隠されていると言っています。上のものを求めなさいということは、神の内にキリストと共にある隠された命を求めなさいということでありましょう。私たちは生きるにしても主のために生き、死ぬにしても主のために死ぬのであります。生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものだからであります。

ここには上からの光が射しています。この地上においては悲しみと苦しみの多いイバラの人生、十字架の人生を歩まなければならないとしても、そこには復活の光が射しているのです。明るく輝いている。そしてその明るさはたとい天地が揺れ動くとも決して揺らぐことのない明るさなのです。イースターはそのような明るい神の復活の命の光の中に私たちを包み込んでくれる出来事です。この光に与るためには無条件、無代価でよい。私たちの側には何も要求されない。100%恵みです。

主は兄弟ラザロを亡くして嘆き悲しむマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる。また生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことはない」と。この主の言葉を信じる時に不思議なことが起こるのです。信じる者は不思議な上からの光に包まれるのです。苦しまなくなることでも悲しまなくなることでもありません。依然として私たちは苦しみと悲しみ、迷いと行き詰まりの中にあります。しかし、不思議な力が上から与えられて、それらを乗り越えてゆく道を備えてくれるのです。

パウロはだからこのように言うことができた。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:1-5)。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(2コリント4:7-11)。

復活の主のゆえに、「為ん方尽くれども望みを失わず!」(文語訳)なのです。

復活の主の「おはよう!」

本日の説教題は「おはよう」と付けさせていただきました。それはマタイ28:9に復活の主が二人のマリアに対して「おはよう」と挨拶をされたところから取られています。

「おはよう」!? そんな言葉があったのかと驚かれた方もおられるかもしれません。私たちが長く親しんできた口語訳聖書では「平安あれ」と訳されていたからです。私自身も今回、新鮮な思いでこの言葉を聞きました。それは、私たちが復活に与る時に、最初に目を覚ました時に聞く言葉が主イエスのこの「おはよう」という挨拶であるかのように思うからです。そして、すでにこの地上にありながら、私たちは復活の朝日の中で復活の主のこの「おはよう」という挨拶に与ることが既にできていると思うからです。

この「おはよう」と訳されている言葉は、もともとは「ごきげんよろしく」というような一般的な挨拶の言葉でありました。原語を直訳すれば「(あなたたちは)喜べ」という意味の言葉です。

マタイ26:49(イスカリオテのユダがゲッセマネで祈るイエスに近寄り「先生、こんばんは」と言って接吻することから、主イエスが逮捕される場面)や27:29(十字架刑の直前にローマの兵卒たちがイエスを着物をはぎ取り、イバラの冠をかぶせ赤いマントを着せて侮辱する場面で「ユダヤ人の王、万歳!」)などの場面にも使われています。人間の裏切りの言葉、侮蔑の言葉が復活の主の「おはよう!」という挨拶の言葉によって変えられてゆくのです。復活の光に与る時に私たちの中では不思議なことが起こってゆく。

この「おはよう!」は、復活の主が私たちに対してなす挨拶の言葉であり、そして私たちがやがて主の復活に与る時、主のみ国において目覚めた時に聞くであろう主の挨拶の言葉なのです。ユダの裏切りや兵卒たち侮辱を超えて、それらを凌駕するようなかたちで復活の主は私たちに「おはよう!」と呼びかけてくださっている。その確かな呼びかけの声によって、上からの曙の光の中に、私たちは新しい命を生きるのです。

本日はこれからM.Mちゃん(小児洗礼)とE.T姉(壮年洗礼)の洗礼式、N.M姉のJELC札幌教会からの転入式が行われます。このイースターの喜びの日に、上からの光に照らされて、私たち武蔵野教会の一員として新しい歩みを始められる三人の上に、またそのご家族のお一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。

そして聖餐式を通して、上から照らされる朝の光が、「おはよう!」と呼びかけてくださる復活の主の尊いみ声が、私たちの悲しみ多い現実を造り変えてくださいますように。ここにお集まりの皆さんお一人おひとりの上に復活の主の祝福が豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 3月27日 復活祭 洗礼・堅信・転入・聖餐礼拝)

説教 「隠された光」 大柴譲治牧師

出エジプト34:29-35 / マタイによる福音書 17:1-9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「体のともし火」としての目

顔の表情というものには実に深い味わいがあります。一人ひとりが個性的ですし、陰翳に富んでいる。特に赤ちゃんや子どもの表情は柔らかくすばらしいと思います。心がそのままその表情に表われている。私たちも幼い頃には泣いたり笑ったり怒ったり、多分に変幻自在でありました。しかし大人になるにつれ、それは人生の苦労を知るにつれてということかもしれませんが、次第に表情が乏しく無表情/ポーカーフェイスになってゆく。「厚顔無恥」と言うように、実際に(顔の)筋肉が硬く厚くなってきているのかもしれませんし、あるいは私たちの心が次第に無感覚・無感動になってきているせいかもしれません。

私は職業柄様々な人と接しますので、人の表情、視線の動き、声色、しぐさといったものに関心があります。そこに心が表われていると思うからです。時折、本当にいいお顔の方がおられます。顔が生き生きと輝いている。あるいはとても優しい面持ちをされている。昔は『君の瞳は百万ボルト』という歌がありましたが、目が輝いている人はとても素敵です。

目というものは本当に不思議な働きをします。外部にあるものを見るだけではない。その逆に、心の内にあるものを外に見せるような働きをもしているのです。輝く目と出会うとその輝きはどこから来るのだろうかと考えます。信仰、希望、愛、生き甲斐、使命感といった自分にとって何かとても大切なもの(つまり光)を持っている場合に人の顔はそれによって(それを反射して)輝くのではないかと思います。素敵な笑顔の秘訣を探ることによって私もそれに少し与りたいと思うからです。

イエスさまはおっしゃいました。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタイ6:22-23)。これには少し注釈が必要です。当時のユダヤ人は目は光が入ってくる窓というよりも、むしろ光を放射し、外の世界を照らす明りと見なしていたようです。パレスチナでは通常家は一部屋作りで真ん中に灯火を置いて家族のすべての者が活動できるようにしていました。それと同様に、目は身体全体を照らしてそれを機能させる光だったのです。

山上の説教には次のような主の言葉もあります。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:14-16)。

光輝く顔

本日の旧約聖書の日課には、モーセが十戒の二枚の石の板を持って降りてきた時に顔が光り輝いていたことが記されています。「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた」。

そして本日の福音書の日課である山上の変貌の出来事の中では、律法の代表であるモーセと預言者の代表であるエリヤと三人で語り合う主イエスの姿(顔)が突然輝き始めるのです。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」。

主の顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなった。場所は高い山です。山は聖書では神顕現の場でもある。福音書記者マタイはイエスさまを新しいモーセとして記録しているのです。そこでは神の臨在を表す光り輝く雲が彼らを覆い、雲の中から声が響く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。この言葉はイエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時にも天から響いた言葉でした。主イエスはこの出来事を通して、神からの大いなる然りを受け、よし行けという大きな促しと励ましの声を聴いたのです。

ルカ福音書だけはこう記しています。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)。この「最後」と訳されている言葉は「エクソドス」という言葉ですが、「エクス(出る)」+「ホドス(道)」、つまり「出口、突破口、脱出路」という意味を持っています。出エジプトも「エクソドス」と呼ばれますが、主がエルサレムで遂げようとしておられること、十字架の出来事を「エクソドス」と呼んでいるのです。ルカ福音書は十字架を「第二の出エジプト」と位置づけているのでしょう。十字架は私たちを奴隷状態から解放する出来事なのです。この山上の変貌の出来事は、そのような十字架の悲惨の中に隠されていた神の栄光が、神の救いの光が垣間見えた出来事でもありました。

主の変容主日

本日は顕現節最終主日。神の栄光が異邦人にも輝き渡った、顕現したということを私たちは1/6の顕現日より覚えてきました。そしていよいよ、今週の聖灰水曜日から四旬節レントが始まります。典礼色も本日の白(神の栄光を現す)から紫(悔い改めと王を意味する)へと変わります。主が十字架への歩みを始められるのです。レントは40日の荒野の誘惑に合わせて、6回の日曜日を除いて40日間続きます。十字架の苦難へ歩み出そうとする直前に、本日の山上の変貌の出来事が置かれているのです。十字架の道は苦難の道ですが、その苦難に隠された栄光が輝き現れ出たことを記念するのが本日、主の変容主日です。フィリピ書2章に記されている通りです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6-8)。

出会いにおける輝き

牧師として私は様々な場面で様々な人と出会います。輝く表情を持った方との出会いに感動し、またつながりの中でその輝きが拡大してゆくことに感動するのです。もともと引っ込み思案で社交性の乏しかった私が今このような人と接する仕事をしていること自体、不思議な思いがします。神さまは長い年月をかけて、ちょうど陶器師がろくろを回しながら自からの作品である陶器を思いのままに形作ってゆくように、私という土の噐をご用のために形成してくださっているのだと思います。そして振り返ってみると、人生の要所要所においてそのような一期一会の出会いに恵まれていたということに気づくのです。

私たちは人と人との出会いとつながりの中で成長させられてゆきます。特に、苦難の闇の中にあっても明るく輝いている人との出会いによって大きな影響を受けてゆくのです。人生において、どれだけ大きなもの豊かなものと出会ってゆくか、本物と出会ってゆくかが本当に大切なことだと思います。出会いにおいて、我と汝との真実な出会いを通して、私たちの存在は上からの光の中に不思議な輝きを与えられてゆくのです。

光るものには二種類あります。太陽のように自分が燃焼することによって光輝くあり方と月のように他からの光を反射して闇に輝くあり方の二つです。信仰にも二つの形があるようです。太陽のように、自分自身の中に聖霊を受けて燃え上がるあり方と、月のように神さまの愛の光、キリストの愛の光を受けて、それを反射して輝くあり方です。私は長く信仰とは後者であろうと考えてきました。しかし、どうももう一つのあり方もあるような気がし始めています。いや、両者はあまり違わないのではないかと感じ始めています。心(魂)が上からの光を反射するのですから。そして目は心のともしびであるとすれば、山上でイエスさまがモーセとエリヤと共に栄光の中に輝く姿を現されたように、私たちが神の恵みを入れる土の器であるとすれば、私たちの中に注がれたキリストの愛、神さまの恵みが私たちを通して輝き渡るということも起こるのだと思うのです。

主は言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と。また言われました。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」と。私たちの中でキリストが輝いていてくださるのです。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。私たちは、「これはあなたのために与えるわたしのからだ。あなたの罪の赦しのために流すわたしの血」と言って自らを私たちにあの十字架の上で注ぎ尽くして下さったキリストの命をこの土の器であるこの体にいただくのです。この口と齒で噛みしめ、舌で味わい、のどで飲み込むのです。キリストの体が私の体となり、キリストの血潮が私の体を流れる。大変に具体的な恵みとして味わうのです。ここでいただいたキリストの恵みが私たちの中で力を与えてくれる。私たちをキリストの光に与るものとしてくださり、私たちの存在を白く輝くものへと変えてくださる。キリストご自身が私たちの目を闇の中に輝くともし火として用いてくださるのです。

十字架に隠された復活の光、永遠の命の光が私たちをしてこの闇の世界に輝かせる。これが出来事として私たちを通して起こるのだと言うのです。どこにも希望の光を見いだすことのできないようなこの世の現実の中で、キリストは私たちを「地の塩、世の光」として用いてくださる。私たちはキリストの希望の光を見上げています。キリストの救いのゆえに、たとえ死の陰の谷を歩むとしても主が私たちと共にいましたもうがゆえに、絶望の中にあっても主がその絶望を共に背負ってくださるがゆえに、喜びに輝いています。今年の主題はセレブレイションです。聖餐式に与ることの中でこの不思議な喜びを味わいかみしめ、その光の中に、十字架に隠された光の中に、主の召しに応えて、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年2月6日)

説教 「わたしについてきなさい」 野口 勝彦神学生

マタイによる福音書 4:18-25

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

はじめに

このみ言葉が、教会実習最後の説教のこの時に、また、教師・任用試験を終え、いよいよ宣教の場へと派遣されるこの時に私に与えられて、今、私は、これまで洗礼に、献身に、そして、この神学校4年間の間に与えられた様々なみ言葉と出来事を、ひとつひとつを思い出しています。

それらのみ言葉と出来事は、今、振り返れば、まさに、その時、その時の私にとって必要なものでした。神様は、そのみ言葉と出来事を通して、私を一歩、また、一歩とこの説教台に導いてくださったのだと、今、この場に立ちながら強くそのことを感じ、感謝したいと思います。

弟子の召命と宣教の開始

さて、今日のみ言葉は、イエス様が、ご自分の最初の弟子たちを招き出し、具体的な宣教活動を始められたことを記したものです。

今日のみ言葉では、二組の兄弟の召命が平行的に物語られています。その中で、今日のみ言葉の中心となるのは、19節の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というみ言葉です。マタイは、同じみ言葉を持つルカが漁労の奇跡とこの物語を結合しているのに対して、マルコのみ言葉、つまり、マルコ福音書第1章16節~20節をほぼそのままの形で用いています。

これらのことを頭の片隅に置きながら、今日のみ言葉をご一緒に見ていきたいと思います。

イエス様は、ご自分の最初の弟子たちを、「ガリラヤ湖のほとり」で召し出されます。「ガリラヤ湖」、この湖は、ルカでは「ゲネサレト湖」と呼ばれています。ギリシア語原典や英訳聖書では、ルカでは、確かに「湖」と言う意味の言葉が用いられていますが、マタイ、マルコでは実は、「湖」と言う意味の言葉ではなく、「海」という意味の言葉が用いられているのです。

「海」、それは、「湖」よりもはるかに大きな広がりを私たちに連想させます。実際に、ガリラヤ湖の大きさは、南北に約21km、東西に約13kmですから、私たちが連想する「海」の大きさや広がりとは違うかもしれません。しかし、現代のような交通手段や通信手段がほとんどない当時のイスラエルの人々にとって、この大きさは、十分に「海」と言えるほどの大きさであり広がりであったのではないでしょうか。

また、イザヤ書17章12節には、当時の人々が「海」について、どのようなイメージを抱いていたかが次のように記されています。「災いだ、多くの民がどよめく どよめく海のどよめきのように」

また、エレミヤ書49章23節にも次のように記されています。「ダマスコに向かって。ハマトとアルパドは、悪い知らせを聞いて うろたえている。 安らうことのない海のように 彼らは不安におののいている」

当時のイスラエルの人々にとってこれらの記述からも分かる通り、「海」は、「どよめく海」であり、「安らうことのない海」であり、非常に恐ろしいものでもあったのです。それは、人間を脅かす世界であり、虚無的なもの、悪魔的なものを意味するものでした。

その「海」で、自分たちの生活の糧を得るために必死に漁をしているシモンとその弟アンデレを、イスエ様は最初の弟子として召し出されたのです。このことは、現代に生きる私たちに何を示そうとしているでしょうか。

それは、現代という、多くの矛盾と恐怖と孤独の「海」の中で、自分の日々の糧を得るために必死に生きていた私たちが、昨年の最後の説教で私が語った通り「主がお入り用なのです」とイエス様に召し出され、この教会に、この礼拝に集っているその姿を示していると言えないでしょうか。このシモンと、アンデレの召し出の出来事、それは、まさに私たちの召し出しの出来事であるのです。

「わたしについて来なさい」

イエス様は、シモンとアンデレを弟子として召し出されるために、彼らに言葉を投げかけられます。その最初に彼らに投げかけられたその言葉、それは、弟子として「聞きなさい」でも、「読みなさい」でも、「学びなさい」でもありませんでした。イエス様がご自分の弟子として召し出すために、彼らに投げかけられた最初の言葉、それは、だだ、「わたしについて来なさい」という言葉です。

「わたしについて来なさい」、それは、だだ「わたしに従ってきなさい」と言う意味です。「従う」、それは、何に「従う」ということでしょうか。イエス様の「教え」に従うということでしょうか。それは、イエス様というお方、自身に「従う」ことです。イエス様の教えを聞くのではなく、イエス様の教えを学ぶのではなく、ただ、具体的に行為し、「従う」ことなのです。その具体的行為とは、服従とは、ただ、イエス様のあとについてゆくということなのです。

シモンとアンデレは、このイエス様の言葉を聞き、「すぐに網を捨てて従った」と今日のみ言葉は続きます。「すぐに網を捨てて従った」、それは、これまでの生活を、キャリアを、人間関係を、生き方すべてを捨て去ることを意味しています。そして、その行為は、「すぐに」されなければならないのです。いろいろ考えたり、相談したり、調整したりした後ではなく、まさに、イエス様に呼びかけられたその時に「網を捨てて従」うのです。イエス様のその呼びかけには、人生の見積書や計算書はないのです。そして、その呼びかけに応えることは、決してそれまでの人生や生き方と連続したものではなく、一つの飛躍であり断絶であるのです。

個人的な体験から

「すぐに網を捨てて従った」、この言葉を聞くと、私は、今から4年前に神学校入学を決意した時のことを思い出します。

私は、神学校への入学前は、高校の講師を経てYMCAという団体で14年間働いていました。それまでの14年間の間に、そこでの働きに生き詰まり、何度、辞めようかと思いましたが、結局できないまま、14年間、悶々としながら過ごしていました。

しかし、神学校への入学を決意したその時、なぜか、それまでのキャリアや人間関係すべてを捨て去ることが、人生の見積書も計算書もないその新しい道へとその第一歩を踏み出すことができたのです。その第一歩、それは、まさに、私にとって、それまでの人生や生き方の連続ではなく、一つの飛躍であり、断絶でした。

「従順の第一歩」(ボンヘッファー)

この第一歩、イエス様というお方、ご自身に「従う」第一歩について、第二次大戦中にあのヒトラーの暗殺を企てたドイツの牧師であったデートリッヒ・ボンヘッファーは、その著書『キリストに従う』の中で次のように記しています。

「従順な者だけが信ずる。従順は信じられることが可能となるために、具体的な命令に対して捧げられなければならないものである。信仰が敬虔をよそおう自己欺瞞や、安価な恵みによらないために従順の第一歩が踏み出されねばならないのである。重要なのは第一歩である。その第一歩は、それに続く歩みとは質的に異なるものである。従順の第一歩が、ペテロを網から、さらに舟から離れるように導かねばならなかったし、青年を富から離れるように導かねばならない。この新しい従順によって造られた実在においてこそ、信じられることは可能なのである」

イエス様は、それまでの人生の、生き方の連続の中から、私たちを新しい第一歩へと、特別な第一歩へと歩ませるために、一つの飛躍であり断絶である「新しい従順」に私たちを招かれたのです。「わたしについて来なさい」と。

その招きは、私たちの状況を考えてとか、私たちに特別な資質や能力があるという理由によるものではありません。それは、今日の使徒書のみ言葉の中で次のように記されている通りです。「兄弟たち、あなたが召されたときのことを思い起してみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけでもなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」

イエス様の招きには、私たちの側には一切の条件はないのです。ただ、そこにはイエス様の「わたしについて来なさい」という呼びかけがあるだけなのです。私たちができることは、ただ、その呼びかけに応え、ただ「従う」ことだけなのです。

キリストへの服従

ある宗教改革者は、イエス様に「従う」とは何であるのかを次のように述べています。少し長いですが、お聴きください。

「主は言われます。あなたの理解力に応じて行くのではなく、あなたの理解力を超えて行きなさい。愚かさの中にひたりなさい。そうすれば、わたしは、あなたにわたしの理解力を与えましょう。愚かさこそ正しい理解力です。どこへあなたが行くか知らないこと、それこそ、どこへあなたが行くかを知ることです。わたしの理解力は、あなたを全く愚かにします。このようにアブラハムは、自分の故郷を出てから、自分がどこに行くか知りませんでした。彼はわたしの知識に自分をゆだねて、自分の知識のおもむくのに任せました。そうして、彼は正しい道を通って、正しい終りに達したのです。見よ、それこそ十字架の道であって、あなたは、それを見出すことができないが、盲人を導くように、わたしがあなたを導いてゆきます。それゆえ、あなたでもない、人間でもない、あなたが選ぶわざでもなく、あなたが考える苦難でもなく、あなたの選びと思考と願望に反して、あなたにやってくる業や苦難があります。そこで従いなさい。そこで、わたしは招くのです。そこで弟子となりなさい。そこでこそ時は満ちます。あなたの師は、そこに来ておられるのです」

最初の弟子たちが召された場、「ガリラヤ」、それは、あらゆる病気や悩む者に満ち満ちていました。だからこそ、イエス様は、その場所で、「わたしについて来なさい」と最初の弟子たちを召し出されたのです。

まさに、私たちは、現代の「ガリラヤ」で、「わたしについて来なさい」とイエス様に召し出され、具体的な応答を、今、求められているのです。

主の派遣

私は、今日の派遣の歌として、教会讃美歌49番を選びました。それは、私が献身を決意した時、2001年1月の母教会である挙母教会の主日礼拝で歌われた讃美歌です。この歌の三節には次のように記されています。

みことばに はげまされつつ
欠け多き 土の器を
主の前に 捧げまつって、
み恵みが あふれるような
生きかたを 今年はしよう」

この歌を胸に刻みながら、また、与えられたこの新しい一年を「主に従って」過ごしていきましょう。

祈り

一言お祈りいたします。

私たちを現代という、多くの矛盾と恐怖と孤独の「海」の中から召し出してくださった主よ。

また、新しいこの日を、この月を、この一年を与えてくださったことに心から感謝します。

あなたは、取るに足らない私たちに「わたしについて来なさい」と呼びかけてくださいました。そして、あなたの後についてく、恵みを与えられました。しかし、私たちは、その恵みを前にして、時に考え、迷い、立ち止まってしまうことがあります。どうか、そのような時に、あなたが、また、「わたしについて来なさい」と呼びかけてくださったことを思い出させてください。

そして、「すぐに」あなたの後をついてくことができる者としてください。

今、この教会の中で、地域の中で、日本の中で、世界の中で、病気や苦しみに悩んでいる人たちが多くおります。どうか、そのような中に、あなたの呼びかけに、あなたのあとに「すぐに」ついていくことができる者を召し出してください。

この小さき祈りと感謝を主イエス様のみ名を通して、み前にお捧げします。

アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年1月23日 顕現節第4主日礼拝説教)

説教 「天が開く時」 大柴 譲治牧師

マタイによる福音書 3:13-17

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題

毎年1月6日が顕現日として定められていますが、それに続く日曜日は主の洗礼日となっており、イエスさまがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた出来事を覚えて礼拝を守っています。

主の洗礼時には「天がイエスに向かって開いた」とある。その時二つの事が起こったのです。「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」ということ、そしてその時「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」ということの二つが起こる。本日は「天が開く時」と題してこの主の洗礼の意味について思いを巡らせてまいりましょう。

聖書における「水」

聖書の要所要所には水への言及があります。例えば創世記の冒頭、天地の創造物語。「水の惑星」とも呼ばれる地球の豊かさは水の豊かさから生まれてきたとも言えましょう。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。…第一の日である。神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。…第二の日である。神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。」これらは創造の最初の三日間の出来事です(五日目も水に関わっています)。

創世記2:10-14はエデンから流れ出る一本の川について言及し、それがピション、ギホン、チグリス、ユーフラテスの四支流に分れたと記す。高度な文明は豊かな水の畔に生まれたのです。後述しますが、この豊かな川の流れの記述はやがてヨハネ黙示録最終章につながってゆきます。

出エジプト14:21には「モーセが手を葦の海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分れた」とある。イスラエルの民は水の間をくぐって奴隷の地であったエジプトを脱出し、神の約束の地に向かって歩み始めました。荒野では、マラの苦い水に主に示された一本の木を投げ込むと甘くなったとか(同15:22-25)、モーセが神に示されて杖で岩を打つとそこから水がほとばしりでたとか示されています(同17:1-7)。

また有名な詩編23篇にはこうある。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」このように旧約聖書は豊かな水のイメージに彩られていると言えましょう。神の民は神からの水を通して生かされてきたのです。

目を転じ新約聖書を見ると、特にヨハネ福音書では水が重要視されています。カナの婚礼で主が水をぶどう酒に変えられた出来事(2:1-11)、サマリアの井戸で一人の女性に語られた言葉「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13-14)、仮庵の祭りの時に大声で叫ばれたイエスの言葉等、心に響きます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:37-38)。

そしてヨハネ黙示録最終章22章冒頭にはこうあります。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す」。このように水への言及で開始された聖書は水への言及で閉じられてゆくのです。聖書における水の重要性が分かります。

人生における「水」

同様に、私たちの人生の要所要所はいつも水から始まっています。調べてみると人間の身体はその約6割が水で、毎日1.5リットル程度の飲料水が必要とのことです。母の胎内にいた時に私たちは「羊水」と呼ばれる水の中にいました。そして生まれてすぐオギャーと泣いて人生を始めたのです。

人生の中で悲しい時、嬉しい時に私たちは涙を流します。要所要所で涙を流す。涙を通して一種のカタルシスが起こり、そこから力が湧いてくるということが起こります。涙には新しく歩み出してゆくための力が込められているのです。人生の最後には「死に水を取る」、つまり「末期の水を与える」ということがある。そのように私たちは水をくぐって生きているのです。

先ほど詩編23篇を引用しましたが、私には「憩いの水」ということでは思い起こす個人的な体験があります。4年前に右目網膜剥離の手術をした時のことです。まぶしい光の下で目を開けたままでの4時間に渡る手術の中で、一人の医師が私の目に水を注いで目を潤してくださった。これが本当にありがたかった。谷川の水を求めてさまよい歩く鹿のような思いがしたものです。

もう一つ水に関して、手術後に味わった恵みがあります。毎朝、起きてから冷たい水で顔を洗うことができるという恵みです。何の変哲もないことですが、水で顔を洗うということができなかった時期が手術後二ヶ月程ありました。目を患った人は眼帯をしますので、しばらくは洗顔ができないのです。もう4年が経って、失明を免れたことに感謝するのですが、毎朝冷たい水で顔を洗う時、本当に生きることのすばらしさに感謝したい気持ちになります。私にとって水とは、天の恵みによって生かされていることを想起させてくれるシンボルとなっています。

「天が開く」ということ

そして洗礼の水。これこそ私たちにとっては最も大切な水と言えましょう。大切であればこそ、死を前にした時に緊急洗礼式なども行われてゆきます。しかもそれは、牧師がその場にいない緊急の場合には、信徒が誰でも行うことができるということになっています。それほどまでに教会は洗礼にこだわってきました。それはなぜか。大切な理由があります。

洗礼を受けるということは私たちがキリストのものとされていることを確証させてくれる決定的な出来事です。それは、生けるにせよ死ぬにせよ私たちが主のものであるということを明らかにする。洗礼においては、水がみ言葉と共に用いられてゆきますが、古い自分が水の中で死に、キリストと共に新しい存在として水の中からよみがえるという出来事が起こるのです。自己中心であった私たちが死んでキリスト中心、神中心の存在へとよみがえる。イスラエルが二つに分れた葦の海を渡ったように、私たちは洗礼の水をくぐり抜けて諸々の力に縛られていた奴隷の地から神の約束の地、自由の中へと踏み出してゆくのです。

主の洗礼時同様、私たちの洗礼においても天が私たちに向かって開くのであり、私たちの上にも神の聖霊がハトのように降り、私たちにも天からの声が聞こえるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。マルコとルカでは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということになっていて、マタイとは微妙に異なっています。しかしその両面が大切なのだろうと思います。自分自身が洗礼を通して神の子としての確証が与えられるという面と、周囲に対して神が証ししてくださるという面の両面が大切。そこでは私という小さな存在に対して神の大いなる然りが宣言されるのです。そしてこの神からの然りが私の存在をその根底において支え、守り、私の人生を導いてゆく。主イエスご自身もこの声によって公生涯へと押し出されてゆきました。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。このような天の声を聴き取ることができた者は幸いであります。なぜなら、私たちは魂の奥底でこのような根源的な存在肯定の声を求めているからです。天地万物は滅びるとも神の言葉は永久に立つと聖書は告げる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という洗礼時に天から響いてきた声は、決して揺らぐことなく響き続けているのです。この神からのみ言葉は、実は人生において繰り返し私たちに向かって告げられている言葉なのです。洗礼時に私たちに向かって開かれた天は常に開き続けているのです。

それにしても「天が開く」とはどういうことか。天とは神のおられる場のこと、神のご支配のことでありますから、「天が開く」とは神とつながるということ、神との生き生きとした「我と汝」の関係の中に生きるということでありましょう。天が開くとは「天啓を受ける」ということであり、魂の深いところで神の言葉に捉えられること、圧倒されること、心の目が開かれること、納得することなのだと思います。

そのように私たち人間が天とつながっている存在であることを思い起こさせてくれる出来事、それが主イエスの受洗の出来事です。天が開く時、私たちにもまた神の然りという声が響いてくるのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神の声が。新しい年の歩みをそのような声の中に始めることができる者は幸いであります。キリスト者とはこのような天の声によって生きる者、命の水によって生きる者、神の言葉によって生きる者のことなのです。聖書は私たちを招いています。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年1月9日 主の洗礼日 礼拝説教)

説教 「ナザレの人と呼ばれる」 野口勝彦神学生

マタイによる福音書 2:13-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

2004年の終わりに

今年も残り僅かとなりました。今年を振り返ってみると、ある機関が今年を象徴する言葉として「災」という言葉を選んだことからも分かる通り、台風や地震など様々な自然災害に見舞われた年でした。そして、今年の最後の主日に私たちに与えられたみ言葉も、この言葉を表わすかのような非常に不条理な出来事が与えられています。一昨日には、200名を超える皆さんとご一緒に、この会堂でイエス様の降誕の喜びをお祝いするクリスマスイブ音楽礼拝を守ることができました。しかし、その大きな喜びの後に、このようなみ言葉が私たちに与えられているのです。今日のみ言葉は、今年の最後に、一体、何を私たちに何を語りかけようとしているのでしょうか。

ヨセフとヘロデ

今日のみ言葉は、大きく三つの内容から構成されています。それは、始まりである13-15節の「エジプトへの避難の物語」と16-18節の「ヘロデ王の嬰児虐殺の物語」、そして、19-23節の「エジプトからの帰国の物語」です。つまり、今日のこのみ言葉は、「地上の王」であるヘロデと「全人類の王」であるイエス様との対立が主題となっています。そして、この対立を通して、この三つの物語は、それぞれ、旧約聖書に記されている預言が成就する物語として描かれています。これらのことを頭の隅に置きながら、今日、私たちに与えられたみ言葉が、私たちに何を語りかけているのかをご一緒にみていきたいと思います。

今日のみ言葉には、ヨセフをはじめ、何人かの人物が登場しますが、その名で登場するのは、ヨセフとヘロデの二人だけです。イエス様とその母マリアの名は今日のみ言葉の中には出てきません。そのような意味から考えると、今日のみ言葉は、ヨセフとヘロデが中心のみ言葉であると考えることができるかもしれません。

今日のみ言葉の中のヨセフは、ただ、主の天使の言葉に黙って従うだけです。その沈黙による従順さが預言者の言葉を成就していきます。それは、信仰者の模範の姿を示しているように見えます。

それに対して、ヘロデは、ヨセフと正反対の行動に出ます。ヘロデは、歴史的には、非常に残酷な支配者として知られています。ローマ皇帝アウグストゥスからユダヤを支配することを許された王ですが、その支配を認めたアウグストゥスでさえ、「ヘロデの息子であるよりは、豚の方がまだ安全だ」と言わせしめた程の残虐性を持った支配者として言い伝えられています。実際、史実によれば、実の息子や妻など七人もの身内の人間さえも殺害しているのです。

孤独

では、なぜ、ヘロデはこのような殺害を繰り返したのでしょうか。実は、ヘロデは、純粋なユダヤ人ではなかったのです。元々彼は、ユダヤの南部に位置するイドマヤ出身であり、後に、ユダヤに編入された土地の出身であったのです。そのことが、彼が純粋なユダヤ人から蔑まれる原因となっていました。要するに、彼は、ユダヤの王権を継ぐものとしての正統性への不安を常に抱えていたのです。このような事情が、彼を殺害に、自分の王としての正統性を脅かし、その王位を窺う恐れがある者への殺害へと駆り立てたのです。そういう意味では、ヘロデは、どこにも隙のない完璧な強い人間というよりも、常に不安を抱え、猜疑心に悩まされた、非常に人間的に弱い男だったと言うことができるかもしれません。

そのことが、2章2節の「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という占星術の学者たちの言葉を「聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」という記述につながっているのです。まさに、ヘロデにとって、イエス様の誕生は、自分の王としての正統性を、自分の王としての存在を、いや、自分自身の存在の根拠をも無くしてしまうような重大な出来事であったのです。それで、ヘロデは慌てて、その占星術の学者たちにイエス様の居所を探させ、彼らが自分を裏切ったことを知ると、すぐさま、イエス様の可能性がある者すべて、つまり、16節で記されている通り、「べツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」のです。

彼が殺害をする目的、それは、ただ一つ、自分を、自分の存在を守るためです。確かに、彼に支配される者にとって、彼の存在は、恐怖そのものであったことでしょう。それは、彼を支配するローマ皇帝アウグストゥスさえ、先の言葉つまり、「ヘロデの息子であるよりは、豚の方がまだ安全だ」という程のものであったのです。しかし、彼自身も、日々、自分の存在の確かさを守るために、自分の王位を窺う者の出現や暗殺の陰謀の猜疑心の中に、その不安の恐怖の中に、ただ一人いたのです。そして、その恐怖が、自分の最も愛する妻であったマリアムネ一世をも殺害してしまうのです。彼は、このことを生涯悔やみ続けます。そのことが、彼をさらに苦しみの中に、孤独の中に追い込んだのです。そして、この孤独が、新たなる猜疑心を生み、また、彼を殺害へと駆り立てていったのです。

この彼の姿を思いながら、私は、その彼の姿の中に、自分の姿を、いや現代に生きる私たちの姿を、重ねあわせて見ている自分の姿に気づいたのです。それは、現代に生きる私たちも、このヘロデと同じように、日常の生活の中で同じこと繰り返しているのではないかという気づきです。同じこと、それは、言うまでもなく、このヘロデのように誰かを直接的に殺しているということではありません。それは、私たちが、日常の生活の中で、自分の主張を、自分の正当性を、自分の存在を守るために、周りを否定したり、批判したりして、自分こそが正しい者だ、正当な者だとして、周りの主張を、正当性を、存在を間接的に殺しているということです。自分を守るということのみに囚われ、周りに対する猜疑心に悩まされ、このヘロデのように誰も信じられないという孤独の苦しみ中に追い込まれていくと言うことです。

「孤独」、私は、この言葉を聞くと、あのマザー・テレサの有名な一つの言葉を思い出します。「人にとって一番の苦しみは飢えではない。それは孤独なのだ。」(『生命あるすべてのものに』)

ヘロデ、彼は、確かに支配者としては、残虐な王であり、圧倒的な政治力と軍事力を兼ね備えた強大な王であったことは事実でしょう。しかし、一人の人間として、その彼の生涯を見たとき、そこには、その強大さとは裏腹な「孤独」という最大の苦しみを負った生涯を過ごした一人の人間の姿が浮かび上がってきます。彼は、自分の死を予期した時、自分の死を悼む者がいないことを予想し、ユダヤ中の重要人物を集めて競技場に閉じ込めたと言います。そして、自分の死後、時を置かずにこの人々を殺させようと命令しました。それは、そうすればユダヤ中が喪に服すると考えてのことでした。それは、彼の孤独の苦しみは、自分の死後のことさえをも不安にさせるような苦しみであったことを表わしています。しかし、今日のこのみ言葉には、その彼の孤独の苦しみは、表には現れていません。ここでは、ただ、残虐で圧倒的な力を持つ王として描かれ、その彼の残虐性と強大さをただ避けることしかできない無力な幼子イエス様と対立する王としてしか描かれていません。それは、私たちの孤独の苦しみが、周りには見えない、理解されないとうことを表わしているようにも見えます。

そして、ヘロデは19節に記されている通り、その孤独の苦しみの中で死んでいくのです。誰にも悼まれずにただ一人で。

「ナザレの人と呼ばれる」

では、私たちも、このヘロデのように、孤独の苦しみの中で喘ぎながら、誰にも悼まれずに、誰にも救われずに死んでいくのでしょうか。

今日のみ言葉は、その最後で次のように記しています。「ところが、夢でお告げがあったので。ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われたことが実現するためであった。」

「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」イエス様一行は、ヘロデの死後も都であるエルサレムに戻ることができませんでした。それどころか、ユダヤから遠く離れた異邦人の地、ガリラヤ、それも、ナザレという小さな町に移り住まわれるのです。

それは、なぜか。それは、「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われたことが実現するためであった」というのです。「預言者たちを通して言われたことが実現するため」。それは、つまり、『彼はナザレの人と呼ばれる』ためです。

「ナザレの人」、それは民数記6章に記されている「ナジル人」、つまり、イエス様が神に聖別された特別な人であることを示します。そして、そのイエス様がイザヤ書11章に預言されている「エッサイの根から出る」若枝、つまり、メシアであることを示すためです。神に聖別された、つまり、神の子であり、メシアであるイエス様が、まさに、平和で、安寧な時ではなく、ヘロデのような残虐な王が支配するこの厳しい時代に、無力な人間の幼子として、まさに、今、ここに現れたことを示しているのです。それも、ユダヤの都エルサレムではなく、異邦人の地であるガリラヤで。

「ガリラヤ」、それは、イエス様が後に、「『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められ」る地です。その地に、イエス様は、『ナザレの人と呼ばれる』ためにやって来られたのです。それは、異邦人の地であったイドマヤ出身という負い目の中で、その王位継承の正統性の不安の中で、そして、愛する妻や子さえ信じることができない「孤独」の中で生涯を終えたヘロデのように、今、その「孤独」の中にいる私たちすべての救い主として、まさに神の子として、私たちと同じ「孤独」を歩まれる人間として、今、私たちの前に姿を現されたのです。それは、私たちの隠された「孤独」を癒すために、私たちの「孤独」という飢えを満たすためにやって来られたのです。そして、私たちが、その「孤独」の苦しみの中で、犯した罪を、周りを間接的に殺した罪を贖われるために、やって来られたのです。

それは、私たちが、ヘロデのように「孤独」の苦しみの中で、罪の苦しみの中で、誰にも悼まれない中で死ぬのではなく、その「孤独」の苦しみを癒され、その犯した罪を赦されるために、あの十字架に架けられるためにやって来られたのです。今日の第一の日課であるイザヤ書63章9節には次のように記されています。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。」

神様は、まさに、私たちをその「孤独」の苦しみの中から、罪の中からお救いになられるためにご自分の御ひとり子をお遣わしになられたのです。そして、その「孤独」の苦しみをご自分の苦しみとして担われ、その罪をあの十字架によって贖われるのです。

降誕後の今、私たちは、まさに、その「孤独」の苦しみから、「罪」から解放され、喜びに溢れた新しい人生を、命を生きていくのです。

その喜びは、イエス様が『ナザレの人と呼ばれる』ことで、ユダヤ人だけではなく、異邦人である私たちに、全世界の、すべての人に伝えられた喜びなのです。この喜びに満ち溢れた新しい人生を、命を与えられたことを覚えながら新しい年を共に迎えていきたいと思います。

祈り

一言お祈りいたします。

聖なる主 全能の父 永遠の神よ。
今年一年をあなたのみ守りの中で、豊かに過ごすことができましたことを心から感謝します。
私たちは、自分自身を守るために、自分の正当性を主張し、周りを否定し、疑い、自ら、その疑いの中に、不安の中に、孤独の罪の中に追い込んでしまいます。
そのような闇の中にいる私たちに、あなたは、その愛するみ子イエス様を私たちと同じ、孤独を負う人間の姿で、その罪を贖ってくださるために遣わしてくださいました。そのお姿は、私たちにとって、まさに光であり、希望です。
どうか、その光の中で、希望の中で、また、新しい年も私たちが歩んでいけますよう守り、導いてください。
特に、今、様々な災害の中で、苦しみの中で、孤独の闇の中で喘いでいる人たちにのことを覚えます。どうかそのような人たちにもあなたの暖かな光が、希望が一日でも早く、もたらされますように切にお願います。
この小さき、祈りと感謝をあなたが遣わしてくださったみ子イエス様のお名前によって、み前にお捧げいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年12月26日 降誕後主日礼拝説教)

説教 「星のオリエンテーション」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 2: 1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

夜の物語

クリスマスの物語は暗い夜の中から始まります。ベツレヘムの貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた幼子イエスさま。このお方がお生まれになった時に、夜空には星が輝いていました。野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いに天使が現れたのも夜のことでした。神の栄光が闇の中に照り輝きます。クリスマスは光と影の物語なのです。

先ほど讃美歌でも歌いましたように、この救い主の誕生を告げる星が夜空に輝きます。マタイ福音書の2章には、はるばると東の国から占星術の博士たちがこの星をたよりに、黄金・乳香・没薬という宝物を持って救い主を拝みにやってきたと記されています。博士たちはおそらく持っていた全財産をこの旅の準備とこの捧げ物の準備のために使い果たしたに違いありません。それぐらいこの旅は彼らにとって重要な旅だったのです。

彼らの旅は夜の旅、星の光を確認しながらの旅でした。同じ時刻にどの方角に星が見えるかで進むべき方向を確認しながら、何ヶ月もかけてはるばると旅してきたに違いありません。山あり、谷あり、川あり。もちろんその時代には道や街灯が完備されているわけではなかったことでしょうから、ランプを灯しながら、足下を気遣いながらの旅でした。博士たちと呼ばれているくらいですから、彼らはかなり年配の人物であったはずです。慣れない道を行く旅は厳しいものであったことでしょう。また、その旅がどれくらい続くのか、いつ目的地に辿りつくことができるか、果たして本当に救い主にお逢いすることができるのか、等々、彼らの胸には一度ならずも不安や迷いがよぎらなかったはずはありません。

旅立ちへの決意

彼らの旅は星の導きにすべてを委ねての旅でした。旧約聖書の創世記の中には、「信仰の父」と呼ばれた父祖アブラハムが神のよびかけに応じて「行く先も知らないで旅立った」という記事がありますが、その学者たちも同様でした。旅支度と黄金・乳香・没薬のために全財産を使い果たしての後先を考えない旅でした。生きて帰れるかどうかも分からない命を賭けた旅だったと言ってもよい。何がそのように彼らをうながしたのでしょうか。そのような旅に出たのはやむにやまれぬ思いがあったはずです。それは内的な空しさであったかもしれません。詳しい説明はありません。しかし、この星こそ生の本当の意味を与えてくれると彼らは信じたのです。この星を追うことが人生の一大事であると考えた。だからこそ、すべてをそのこと一つに賭けて旅立ったのです。

私たちはどれほど充実した生活を送っていても、本当の喜び、本当の人生の意味を求めて、それまでのすべてを後にして出発しなければならない時が私たちの人生の中にはあるものです。星の導きにあったように正しい方向に私たちは旅してゆかなければならないのです。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(マタイ2:9-10)とありますが、彼らはその星を見て人生の意味を見出した。「黄金、乳香、没薬」という宝物は、彼ら自身の占星術のための道具であったという解釈があります。もしそうであるとすれば、彼らは自分の古い生き方をすべて捨てて、幼子キリストにすべてを差し出したとも理解できましょう。

いずれにせよ、ベツレヘムに着いた時の彼らの喜びはいかに大きなものであったことでしょうか。きらびやかな宮殿ではなく、貧しい家畜小屋の、しかも飼い葉桶の中に寝かされている幼子を見たときに、驚かされたかもしれません。しかし、彼らは星の導きの通り、ユダヤの王と出会うことができた!その喜びに満たされた。旅の苦労が報われただけでない。生きていてよかったと喜びが溢れてきたのです。そのような至福の瞬間を味わうことができた者は幸いと言わねばなりません。

星のオリエンテーション

さて、この博士たちの物語は私たちに何を告げているのでしょうか。「オリエンテーション」というよく知られた言葉があります。会議やセミナーなどで最初に持たれるあの「オリエンテーション」です。全体の趣旨や方向づけやゴールを示す大切なセッションです。私たちがこのことを通してどこに行こうとしているのかを最初に明確に示さなければなりません。広辞苑によるとオリエンテーションとは「ものごとの進路・方向を定めること。また、それが定まるよう指導すること。方向づけ。進路指導」とありました。

実はこの「オリエンテーション」という言葉は「オリエント」(日の出の地、東)という意味の言葉から来ています。語源的には「オリエンテーション」とはあるものをきちんと東に向けるという意味があるのです。(教会も本来であれば正面が東を向くように創られています。実際の方角とは別にこの聖卓の方向を東と呼ぶ習慣があります。)

研究社『新英和大辞典』を見るとorientationには次のような意味がありました。

1.a あるものを東に向くように置くこと
b 主祭壇が東に向くように教会を建てること
2.a(物の)配置(方向)
b(建物の)方位(の測定)
3.a(新しい環境・思想・習慣などに対する)適応・順応
b 新入社員などへの方向づけ、適応指導、オリエンテーション
4.a 態度(方針)決定
b 態度
c 志向(性)
5.(心理)見当識
6.(生物)a 定位
b(伝書バトなどの)帰巣本能

クリスマスは私たちに人生の生きるべき指針を示してくれているということです。星のオリエンテーションの下に、東からの博士たちだけではなく、すべての人間が置かれているのです。この方向に私たちが生きるべき真実の道がある。「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた方に身を向けて、人生を歩んでゆくことが求められているのです。その時に、私たちはどのような闇の中にあったとしても、悲しみや苦しみや行き詰まりや死や絶望のただ中にあったとしても、この光の方向に私たちの本当の命が備えられているのだとクリスマスの出来事は私たちに告げています。

東からの博士たちはこの星のオリエンテーションの下に新しく人生の冒険を始めたのです。

「光は闇の中で輝いています。そして闇はこれに勝たなかった。」

一年で一番夜が長い冬至の時期に、光の到来を祝うクリスマスが置かれていることにはまことに深い意味があるのです。

この救い主の誕生を告げる星の光がお一人おひとりの歩みを導かれますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年12月24日 クリスマスイブ音楽礼拝説教)

説教 「この最後の者にも」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 20: 1-16

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

たとえの天才としてのイエス

本日のたとえも、イエスさまがたとえ話の天才であり、優れたストーリーテラーであることをよく表しています。聴く者はそのたとえ話の世界にすぐにグイッと引き込まれてしまいますし、一度聞いたら忘れられなくなるほど印象的です。そしてハッとするやら、ホッとするやら、なるほどと思うやら、疑問を感じるやら、いろいろと考えさせられるのです。

本日は有名なぶどう園の労働者のたとえです。朝の6時から働いた者、9時、正午、午後3時、午後5時から働いた者が共に等しく1デナリオンの賃金をもらうたとえです。私たちもまた、朝から働いた者たちと同じように、「それは確かに不公平ではないか」と感じるのではないでしょうか。そして、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」という主人の言葉にどこか釈然としないものを感じるのではないかと思います。このたとえには資本主義社会の経済原理を根底から否定するようなラディカルな響きさえあって、私たちは驚かされます。

聖書の読み方

しかし、私は思います。イエスさまのたとえは、私たちが自分の姿をどこにおいて読むかによって全く違って響いてくるということを。そして、そのたとえは同時に、私たちが神さまの前にどのような存在であるのかをも明らかにしているのです。

朝6時から12時間働いた者の立場に置いてこのたとえを考える時に、主人の自分たちの扱いは全く不公平で納得できないという不満が残るのですが、その反対に、夕方5時に雇われた者の立場に自分の身を置いて私たちがそのたとえを聞く時にはどうでしょうか。彼らは主人による一方的で圧倒的な憐れみ、恵みを心から感謝し、それを身に余るものと感じていたに違いないのです。そして私たち自身が神の前においては、そのような5時に雇われた者の一人であるということを主は明らかにしておられるのです。

そもそも、朝の6時に雇われた者というのは肉体的にも屈強で、炎天下での厳しい労働に一日中耐えることのできる若者たちであったはずです。彼らは「まる一日、暑い中を辛抱して働く」ことのできた力ある者たちだったのです。9時、12時、3時と時間が経つにつれて、力のある労働者の姿は消え、後に残ったのは力のない、どちらかというと痩せて年老いた労働者たちであったことでしょう。夕方の5時というのはもうほとんど一日の終わりですが、主人が広場に行って5時に立っていた人びとに尋ねます。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と。彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えました。彼らは一日中怠けていたわけではなく、一日中仕事を求めても誰も雇ってくれずに空しく立ち尽くしていたのです。炎天下、失望と徒労の中に立ち尽くしていた。彼らの多くは力の弱い、身体の衰えた労働者たちであったことでしょう。あるいは要領が悪く、競争についてゆくこともできず、自己アピールが下手な不器用な人びとであったかもしれません。

いずれにせよ、主人はその空しく立ち尽くす姿の中に深い憐れみを感じたに違いないのです。だから後一時間しか働くことはできないけれども労働の場を提供したのです。それどころか、丸一日分の給料である1デナリオンを彼らに支払ったのです。1デナリオンというのは、当時の労働者一日分の給与だったと言われます。今の日本円で価値としてはどれくらいでしょうか。8千円前後くらいでしょうか。

5時まで立ち尽くした弱い者、小さき者に対する神の優先的な選びがあるということをこのたとえは伝えています。私たちはむしろ自分の力に拠り頼んでいるうちはこのたとえは理解できないままなのです。朝の6時から働いた労働者の立場にしか立てないからです。しかし人生の中には様々な出来事があります。私たちを圧倒し、私たちを粉々に打ち砕いてしまうような出来事があります。病気であるとか、老いであるとか、仕事の失敗であるとか、行き詰まりであるとか、家族の問題であるとか、信頼していた人間関係が破れることであるとか、愛する者の死であるとか、様々な出来事が私たちを打ち砕きます。そのような時、私たちは徹底的に自分の無力さ、弱さを味わうのです。惨めさと恥ずかしさを味わう。それはちょうど広場に5時まで空しく立ち尽くしていた者と同じです。自らはその状況をどうしようもできないのです。

しかし実は、そこにおいてしか分からない神の恵みがある。徹底的に打ち砕かれなければ分からない神の深い憐れみがあるということを、そのたとえは鮮やかに教えてくれているのです。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」という言葉が詩編51:19にありますが、このたとえはまさに私たちの打ち砕かれた心を求めているのです。

無力さの自覚~神の憐れみに生きるために

その意味では、私たちは自分が夕方の5時まで空しく立ち尽くさなければならないような弱く、無力で、思い通りにならない小さな存在であるということ、そしてそれゆえに神さまの憐れみがなければ生きてゆくことのできない、そのような存在であるということを知らなければなりません。それも身にしみて知らなければならないのです。ぶどう園の主人の憐れみの深さと広さは朝6時から働く力のある者には理解することができないのです。無力な者、破れた者、悲しむ者、行き詰まる者たちへの深い憐れみ。それもはらわたがよじれるほどの深い憐れみが注がれている。私たちは5時からしか働くことができなかった者に対して「この最後の者にも同じようにしてやりたいのだ」と言ってくださるお方の憐れみに拠り頼んで生きるのです。

セシル・B・デミルが監督した『十戒』という映画がありました。出エジプトの場面で紅海が真っ二つに分かれてイスラエルの民がそこを渡ってゆく場面などは、コンピューターグラフィックがない時代でしたが、それはすばらしい映像でした。いくつも印象に残る場面がありましたが、私は若いモーセがエジプト人を殺してミディアンの荒れ野に逃げた場面を忘れることができません。モーセが力尽きて倒れた場面にこういうテロップが流れるのです。「しかし、人間の力が尽きたところに神の力は働く」と。荒野で倒れたモーセは祭司エトロの娘ツィポラに助けられてゆくのです(出エジプト2:11ー22)。

私たちの力が尽きたところで神のドラマが始まる! いや、それは既に始まっているのです。あのゴルゴダの丘の上に立つみ子なる神の十字架において!この最後の者にも、最も小さき者、最も無力な者にも同じように深い憐れみを注いでくださるお方がそこにはおられる。キリストを信じる者と信じない者を分けるのはこの一点の認識だけではないかと思います。自分の無力さをあの十字架に背負ってくださったお方がいる。そのお方によって私たちは神の憐れみのみ業により徒労と失望の中に空しく立ち尽くすことから解放されているのです。

そして、この憐れみのみ業はすべての人のために備えられています。神さまは狭い了見の方ではありません。善き者の上にも悪しき者の上にも太陽の光を注ぎ、正しい者にも正しくない者にも恵みの雨を降らせてくださるほど心の広いお方です。

そしてさらに言うならば、私たちは神さまの深い憐れみの前では、強い者も弱い者も、豊かな者も貧しい者も、ユダヤ人も異邦人も、フィンランド人も日本人も韓国人も、若い者も老いた者も、男も女も、すべての者は夕方5時まで立ち尽くしている者であることを知らされてゆくのです。クリスチャンとノンクリスチャンを分けるものは、それを知るか知らないかという点だけなのです。そして主イエスはこのたとえを通して、私たちがすべて神の憐れみに生かされる存在であるということを知りなさいと招いているのです。

そのことを覚えつつ、ご一緒に宣教78年目の新しい歩みを踏み出して参りましょう。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますようにお祈りします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年10月13日 聖霊降臨後第21主日礼拝説教)

説教 「幼な子のようになるということ」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 18: 1-14

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

主題「幼子のようになるということ」

本日の主題は説教題にもあるように「幼子のようになるということ」ということで、特に福音書の日課の一番最初の部分、マタイ18:1-5に焦点を当ててみ言葉に思いを巡らしてゆきたいと思います。

誰が一番偉いか

弟子たちは主イエスに問い掛けました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。そこで主は一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

誰が一番偉いのか。これが弟子たちにとっては一番の関心事でした。大人はそのようなことばかり考えてしまうのです。弟子たちも互いに競争心が強かった。誰が一番弟子か、一番偉いかを繰り返し議論していました(マタイ20:25、23:11、マルコ9:34)。そのような弟子たちの心を主イエスははっきりと見抜いておられました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」というのは、誰が一番偉いかという順番争いばかりをしているうちはまだ天国に入ることはできないということでありましょう。弟子たちは心を入れ替える必要があるのです。

幼子を弟子たちの真ん中に立たせたということはたいへんに具体的な行為です。何歳ぐらいの幼子かは書かれていません。二~三歳ぐらいだとすれば本当に小さな幼子ということになります。四~五歳ぐらいだと幼稚園ぐらいですね。いずれにしてもその子どもの背はそれほど高くなかった。大人の真ん中に立たされた幼子は下から大人たちを見上げていたはずです。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」というイエスさまの言葉は、視点を低くするように弟子たちに求めている言葉です。

視点を変えてみるということ

私は時折、目の高さを変えてみることにしています。するとずいぶんと世界が違って見えるのです。そしてそのことによって少し謙遜な気持ちにさせられます。あるいは子どもを私の目の高さまで持ち上げてみることもあります。私などは同世代の日本人の中では大柄の方ですから、この世界を高いところから見下ろしていることになります。子どもたちは低いところから見上げているのです。

視点を変えてみると、少し変えただけで世界がずいぶん違って見えてきます。カトリック教会など礼拝の中でひざまずく教会もあります。それもそこに集う者の謙遜な思いを表しているのです。映画などでも時折出てきますが、修道院では床に腹ばいに突っ伏して祈るということもあったようです。一番低い姿勢を取るのです。ローマ教皇などは外国に降り立つとまず地面に接吻をします。それは愛と尊敬を表すと共に、謙遜と和解の姿勢をも示しています。

視点を低いところに置くということ。これはとても大切です。引退された宣教師のデール先生やキスラー先生は、たとえば車イスの人とお話しされるときは腰をかがめて、ある時には片ひざをついて、同じ目の高さで向かい合おうとされていたことを私は思い起こします。私自身もできる限りそのような姿勢を見習いたいものだと神学生の時に強く思わされたことがありました。

なぜそれが大切なのか。それはイエスさまご自身が一番低いところに降り立ってくださったからです。神と等しくあられたお方が人の姿を取り、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで神のみ心に従順に歩かれたのです。フィリピ書2章の有名な「キリスト讃歌」にある通りです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:6-9)。

視点(視座)を変えてみるということは私たちに意外に大切な気づきを与えてくれます。考えれば、旅に出るというのも日常生活をもう一度別の角度から点検するためであるのかもしれません。旅人の視点から見てみるのです。日曜日にこの教会に集い、礼拝を守るということも、普段の日常的な視点を非日常的な視点へと置き換えてみるということなのかもしれません。そうすることで気づかなかったこと、今まで見えなかったことが見えてくるのです。そうすると人生がより高さや幅、奥行きや深みが分かってきて味わい深くなってゆくのだろうと思います。神さまの視点、キリストの視点から世界や自分自身を見るとどうなるのかということが私たちが礼拝に集ったり、聖書研究や様々な集会に集ったりする中で与えられる視点なのではないかと思います。

三つの視点~「外から」「下から」「終わりから」

私自身は信仰者として大切な視点に三つあると考えています。これは信仰を通してしか与えられない視点でもありましょう。第一は「外からの視点」、第二は「下からの視点」、そして第三は「終わりからの視点」です。それは「受肉」と「十字架」と「復活」という最大の奇跡に対応しています。

第一の視点について。神の「受肉」とは難しい言い方ですが、神が肉体を取って人となったということ、クリスマスの出来事を指しています。創造主なるお方が被造物である人となられた。先のフィリピ書2章にもありましたが、これはとても不思議なことです。永遠なるお方が有限なる存在となられたのです。中世では「有限は無限を内包することができるか」という議論もありました。ちなみにルターは、「神が人となられたのだから有限は無限を含みうる」と語っています。

そのように第一の「外からの視点」というのは神が人となられた受肉に対応していますが、私たちは信仰を通して事柄を外から見る視点を与えられるのです。もっと言えば、神の側から事柄を見てゆく視点、神の視点が与えられるとも申し上げることができましょう。私たちはこの世においては寄留者であり、旅人であるという言い方が聖書には出てきます(ヘブル11:13、1ペトロ2:11)。私たちはこの世を通り過ぎてゆく存在であり、仮住まいの身なのです。イスラエルの民が荒野において約束の地を目指して40年間旅を続けなければならなかったように、私たちは天の故郷、天のエルサレムを目指してこの世の旅、人生の旅路を巡礼者として歩んでゆくのです。外からの視点は「神の視点」だと申しあげましたが、もっと身近な言い方をするならばそれは「旅人の視点」、「巡礼者の視点」と言ってもよいでしょう。そのように私たちは外からの視点を大切にするよう召されています。それは「受肉の視点」でもあります。

第二の「下からの視点」とは「キリストの十字架」に対応する視点で、本日の「幼子のようにならなければ」というみ言葉にもつながっている視点なのですが、み子なる神が私たち人間の現実の一番低いところに降り立ってくださったという事実に基づいています。十字架とは確かにそのような出来事です。最も無力で、最も慘めで、恥多く、最も低き姿で平和の君なる主イエスが十字架にかかってくださった。それは主が「最も小さき者の一人」と数えられるためでした。主イエスは悲しみや痛み、絶望のどん底にある者と共にあるインマヌエルの神であり、同伴者なのです。主は最も小さい者、低きに置かれた者の立場からすべてを捉えてくださるのです。私たちにはそのような「下からの視点」、「最も小さき者からの視点」「十字架からの視点」を与えられているのです。

第三の「終わりからの視点」というのは「復活」に対応しています。復活とは「死の死」を意味します。それはキリストが死に対して勝利したこと、私たちの最後の敵である死がキリストの命によって滅び去ったということを意味します。しかしながら、そのよみがえりの命、永遠の命に私たちは既に与っているわけですが、それが私たちに完全なものとして備えられるのは終わりの日まで待たなければなりません。聖餐式は終わりの日の勝利の祝宴の先取りです。私たちはそのように「終わりからの視点」を与えられています。

これに関して私は忘れられない体験があります。今から10数年前、私が神学校を卒業し福山教会の牧師として着任して二三年経った頃でした。当時西教区には常置委員会として「平和と核兵器廃絶を求める委員会」があり、私もそのメンバーとして任命されたのです。それは私の前任者、現在は聖パウロ教会の牧師の松木傑先生が始められた働きでした。1986年春にはヒロシマ国際平和セミナーを開きましたし、毎年5月の連休にはヒロシマ平和セミナーを開催しました。ある年、外国人登録証への指紋押捺に関して反対運動を展開している在日大韓キリスト教会の牧師・李根秀(イ・グンス)先生(木下牧師夫人の弟さん)をお招きしてお話を伺った時のことです。イ・グンス先生ははっきりと最初にこう言われたのが私の心に鋭く突き刺さりました。「私たちは既にこの運動において勝っています。この指紋押捺に反対する闘いはもう最初から勝利の決している闘いなのです。終わりの日にはその勝利は完全なかたちで明らかにされるわけですが、今はまだそれがはっきりと見えていないだけなのです。」この言葉は私にとっては天啓のように響きました。最初から勝利している!どのような困難の中にあっても、その終わりの日の勝利から今を見直してみる。これが「終わりからの視点」なのです。

幼な子のようになるということ~下からの、低みからの視点

外からの視点、下からの視点、終わりからの視点の三つの視点が大切だということを申し上げました。本日はその中でも「幼な子のようになる」ということから下からの視点、低いところからの視点というものが強調されています。

人間は人より上に立とう、偉くなろうとします。弟子たちもまた誰が一番偉いのか繰り返し議論をし続けました。一番弟子は誰か。終わりの日にキリストの右と左に座るのは誰か。向上心があることは決して悪いことではないでしょう。しかしそのことによってもっと大切な事柄を見失ってしまうとすれば、それはやはり誤っていると言わなければなりません。もっと大切なものとは何か。それは愛です。一つひとつの生命や一人ひとりの存在Beingを大切にすることです。心と心が通じ合うことです。そして何よりも大切なことはまず神の国と神の義を求めること、すなわち、神が私たち一人ひとりを独り子を賜るほどにトコトン愛してくださっているということを知ることです。「わたしの目にあなたは価高?ュ、尊く、わたしはあなたを愛している」とイザヤ書43:4にはある。そして神の豊かな愛は私たちをありのままで愛してくださる愛です。最も小さき者の一人、低き者の一人、幼な子の一人をも限りなく大切にしてくださる愛です。

そしてそのような愛の大切さが本日の日課の三つの部分で共に語られているのだと思います。たいへんに厳しく響く6節から9節の「罪への誘惑」の部分にも10節以降の「迷い出た羊のたとえ」の部分にも、小さな者に対する神の限りなく深い愛が宣言されていると私は読みたいのです。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」小さな者に対する優先的な神の恵みの選びがある。そのことは私たちにとっても大きな慰めであり、喜びであると思います。

お彼岸ということで愛する者のお墓参りをされた方もおられるでしょう。死を迎えた者はそこにおいて幼な子のような心ですべてを神さまの御手に委ねてゆかれたのだと思います。狭き門から入るためには低くならなければならない。私たちが愛する者において思い起こすのもそのような人間的な低さなのです。偉さではなくてその人の愛の深さなのです。幼な子は二つの点で大人に優っています。第一点は謙遜さ、無力さにおいて。第二点は自分を愛してくれる親への信頼度において優れていると言える。私たちもまた幼な子のようなひとすじの信頼をもってイエスさまのみ後に従って参りたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますようにお祈りします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年9月22日 聖霊降臨後第18主日礼拝説教)

説教 「ヘビとハト」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 10:16-33

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「ヘビのように聡く、ハトのように素直であれ」

やはりイエスさまは話し方の天才であったと思います。一度聞いたら忘れることのできないような印象的な話し方をいつもなさりました。そこには無駄な言葉、不必要な言葉が一つもない。特にイエスさまのたとえ話は優れています。

本日のみ言葉の中に「ヘビのように聡く、ハトのように素直であれ」という言葉がありますが、これも一度聞いたら心に残り、忘れられなくなる言葉です。しかしこれがどのような意味であるのか、考えれば考えるほど分からなくなるような言葉でもあります。本日はこの言葉の意味に焦点を当てて、み言葉に聽いてまいりたいと思います。

本日の箇所は12弟子の派遣するにあたっての心得を主イエスが弟子たちに語っている場面です。そこでは迫害の予告がなされています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい」(16-17節)。

ヘビとハト、この両者は聖書では重要な役割を果たしています。ヘビは、創世記の第3章をすぐ思い起こすのですが、賢いけれども9割方悪役です。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)。ハトは、ノアの箱船物語もそうですし、ペンテコステの出来事もそうなのですが、聖書では好意的に書かれています。ある意味では正反対のものを同時にイエスは提示しているのです。「ヘビのように聡く、ハトのように素直であれ」と。そこには「清濁併せ呑む」というような響きがあります。ひたむきで純粋なハトのような信仰だけを保てばよいかのように考えてしまいがちですが、私たちはヘビのように聡い信仰を持つ必要もあるのです。

『青大将プロジェクト』

「求めよ、さらば与えられん」というイエスさまの言葉はまことにその通りだと私は先週も改めて思わされました。今回の説教のために「ヘビ」について思い巡らす一週間だったのですが、するとなんと、一昨日、金曜日の朝の朝日新聞東京版にヘビについての記事が出ているではありませんか。題して『ヘビに触れればまるごと自然』。「青大将プロジェクト」というプロジェクトを紹介していました。

「ヘビは怖くて気持ち悪い。そんな先入観の克服を目指す実習が三鷹市を流れる野川周辺であった。動物飼育の専門家を養成する青山ケンネルカレッジ(本部・渋谷区)の授業で、幅広い自然観を養ってもらうことが狙いだ。最初は怖々とヘビに触れていた学生たちも次第に大胆になり、ヘビを首にまいてにっこりと記念撮影もした。」

「竹の棒先にコの字形の針がねを取り付けた捕獲器やヘビを入れる布袋などを作り、3~4人一組でアオダイショウを探した。1時間ほど川の中や草むらを歩き、8匹を捕まえた。大きいヘビは約1メートル。動物をのみ込んだのか、腹が膨らんでいるのもいた。

学生たちは教わったつかみ方で、胴やしっぽに触れた。ヘビの体はひんやりと冷たく、しっとりとした感じだ。中には好奇心から手に乗せたり、首に巻いたりする学生も現れた。参加した全員がヘビに触れることができた。・・・ヘビを嫌う感情は「無知による心の闇」が生み出すのだそうだ。「ヘビをよく理解し、愛情いっぱい、優しい気持ちで接すれば、自然観はもっと広がるはずです」とその記事は結んでありました。

ヘビを嫌う感情は「無知による心の闇」が生み出すという言葉はなるほどと思わされました。私たち自身の恐れや不安といった闇の部分をヘビに投影しているのでしょう。ヘビには責任がないと言えそうです。ヘビにとっては迷惑な話ですね。

それにしてもヘビのような賢さとハトのような素直さの両方を同時に語られるところに、私自身はイエスさまのユーモアのようなものを感じます。特に「ヘビ」という言葉には弟子たちも、私たち同様に、ギョッとしたのではないでしょうか。ヘビの権利(人権ならぬヘビ権)というものがあれば、その復権です。読み込みすぎているかもしれませんが、もしかするとイエスさまは、私たちに「無知による自分の心の闇」に光を当てるようなことをも意図されていたのかもしれません。

「ヘビのように聡く」

さて、前置きはそれくらいにして、「ヘビのように賢く」とはどのような意味かそれが語られた文脈(コンテクスト)から考えてみたいと思います。弟子たちの派遣を主イエスは「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語っておられる。それは「狼の群れに食べられないように賢くありなさい」と語っておられるのです。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」とか、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(23節)とも語られています。「ヘビのような賢さ」とは、的確に自分の置かれた危険な状況をつかみ、最善の判断を行う力があるということでしょうか。コンテクストから読むならば、危機的状況に陷らないように十二分に警戒するということと、陷った場合に的確に判断するということを言っているようにも思います。

関連して想起するのはマタイ16:1-13にある不正な管理人のたとえです。それはこういうたとえです。「ある金持ちに一人の管理人がいて、この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者がありました。主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えるのです。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』『小麦百コロス』の人には『八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」そこではキリストを信じる者に賢い振る舞いが求められているのです。

清濁併せ呑む信仰

しかし肝心な点は、ヘビとハトが同時に語られているというところにあるのではないか。賢くある人はハトのような素直さを合わせ持つということがなかなかできにくいのではないかと思われます。しかし考えてみるならば、この両者の大切さは私たちが、職場においても家庭においても地域においても、自明の前提としているようなところもあります。この両者を合わせ持つようなリーダーシップを求めているのではないかと思われます。ヘビのような賢さとハトのような素直さ。清濁併せ呑むようなあり方です。

夏目漱石は草枕の冒頭でこのように書いています。「山路を登りながら、こう考えた。知に働ければ角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」 まことに鋭い洞察で、確かにその通りです。理屈っぽいと角が立ちますし、感情を大切にすると流されてしまいます。意地を張ると窮屈になってしまう。なんと人の世は住みにくいことでしょうか。ましてキリストの福音を信じて生きるというのは意地をトコトンはって生きてゆくようで、窮屈至極であるような感じがしてしまいます。特にプロテスタント教会には真面目な方が多いようなので、窮屈な生き方に捕らわれている人が少なくないのかも知れません。

そのような中で主イエスは言われるのです。「ヘビのように聡く、ハトのように素直でありなさい」と。これは柔軟でしなやかな生き方への勧めではないでしょうか。しかしそこには一本の決して折れることのない芯が通っているのです。いや、逆に言ったほうがよいかもしれません。一本の芯が通っているからこそ、しなやかであっても折れないのだと。

本日の福音書の日課の中で、主は12弟子に言わています。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(19-20節)。話すのは自分ではなく神ご自身の霊なのだと言うのです。だからどのような状況に置かれても心配は不要なのです。その時には言うべきことは向こう側から教えられるのだから。ここではヨハネ福音書の弁護者なる聖霊の働きを想起させられます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハネ15:26)。

このような安心が私たちの中心には置かれている。この信仰の与える平安は、私たちをその存在の根底で支える一本の折れない芯であり、心棒なのです。この安心があるから、どのような状況にも対処することができる。椎名麟三が言ったように、私たちは「安心してジタバタしてよい」のです。いや、もっと言いましょう。安心してジタバタしなければいけないのです。

先日台風6号が各地で大きな被害をもたらしました。この教会でも桜の枝が何本も折れて落ちていました。落ちた枝を見ながら考えました。突風に揺れ動かされ、許容範囲を越える力がかかって、ポキッと折れてしまったのだと。同時に考えました。揺れ動くことができないとポキッと簡単に折れて落ちてしまうのだろうと。地震の時もそうですが、がっちり揺れ動かないように建物を作るとかえって地震には弱いものになってしまうのです。適度に揺れ動くことで振動を吸収することができるからです。これは電車に乗ってもそうですが、適度に振動に合わせて揺れ動くようになっているのです。そのように信仰者は硬直した生き方ではなく、柔軟な生き方が求められるのです。人間はジタバタと揺れ動くことで、風に揺れる葦のように、振動を吸収したり逃がしたりしてポキッと折れないようになっているのです。

「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。だから安心してジタバタしてよいのです。ハトのような素直さで父なる神の霊により頼んでよいのです。だからこそヘビのような賢さ(柔軟さ)で、ああでもないこうでもないと揺れ動いてよいのです。ヘビはとぐろを巻いたり、くねくねと身をくねらせながら前に進んでゆきます。あまり見ていて気持ちのよいものではありませんが、確かにいかにも柔軟で臨機応変なのです。「知に働ければ角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と言われている人の世で、清濁併せ呑むことができるような柔軟で練れた信仰者として生きるようにと私たちは招かれているのです。

ヘビのような柔軟さとハトのような素直さを共に大切にしながら、新しい一週間を歩み出してゆきたいと思います。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 7月14日 聖霊降臨後第8主日礼拝 説教)

説教 「神の憐れみの宣教者」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 9:35-10:15

 はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題

本日は主題詩編として詩編100編が与えられています。

(1)全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
(2)喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。
(3)知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。
(4)感謝の歌をうたって主の門に進み、
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
(5)主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。

その詩編は「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と歌っています。だから、「喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」と告げられているのです。本日の福音書の日課では12使徒の選出とその派遣の出来事が語られていますが、その主題は「私たちは主に養われる羊の群れ」という事実を述べ伝えるということであり、その基調音は「喜び」であることを最初に確認しておきたいと思います。

本日の福音書の日課は三つの部分に別れています。新共同訳聖書ではそれぞれ小見出しが付いていまして、「群衆に同情する」「十二人を選ぶ」「十二人を派遣する」となっています。これは一連の流れの中で読んでゆく必要があるところです。イエスが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆に対して深い憐れみを抱かれ、町々村々を残らず歩き、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたこと。そして「収穫は多いが働き手が少ない。収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と祈り求める中で12人を選び立てたこと。そしてその12人が使徒としてイエスと同じことをして回ったことが報告されているのです。

「12使徒」とは「教会」のことを指していますが、キリストの教会には10:8にあるように「死者をも生き返らせる」権能さえ与えられている。これは驚くべきことです。教会はキリストの身体であり、教会はキリストの働きを継承するよう立てられており、教会を通してキリストは今もこの世に生きて働いておられるのだということが本日の福音書には示されているのです。福音を宣教することと癒しを行うことは一つなのです。

「イエス断腸」

「主の民、主に養われる羊の群れ」である私たちを、何をもって主が養ってくださるかということが9:35ー38までに示されています。36節には「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。あのステンドグラスにあるように、羊飼いである主の深い憐れみによって私たちは養われてゆくということが記されているのです。

佐藤研訳(『新約聖書翻訳委員会訳』岩波書店1995)によると、マタイ9:35-38までは「イエス断腸」という小見出しがついており、36節は次のように訳されています。

「さて、彼は群衆を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていたからである。」

これはなかなか味わい深い訳だと思います。「深い憐れみ」と訳されている言葉はギリシャ語で「スプランクニゾマイ」という言葉ですが、それは「内蔵、はらわた」を意味する言葉から来ているからです。従って、「憐れみ」よりも「断腸の思い」という訳がふさわしいと思います。(岩波の訳では「スプランクニゾマイ」については脚注でこう説明されています。「内蔵は人間の感情の座であると見なされていたため、同語は『憐れみ、愛』などの意に転化、それが動詞化した」と。)

スプランクニゾマイという言葉を「同情」や「憐れみ」という日本語に訳すと、それらはどこか動きのない静的な響きがありますから、弱すぎてその意を尽くしていないと思うのです。やはりもっと熱く動的な「断腸の思い」がピッタリ来る。

ちなみに、このむさしの教会とも縁の深い『神の痛みの神学』で有名な北森嘉蔵先生は、「我がはらわた痛む」(エレミヤ31:20)というところからこの神のはらわた痛む愛を「神の痛み」と表現したことはよく知られています。私自身も「愛(アガペー)」という言葉よりもこの「はらわた痛むほどの深い憐れみ(スプランクニゾマイ)」という言葉の方がもっと具体的で、力をもって迫ってくるように感じています。愛=深い憐れみと理解していただいてよいと思います。

雨宮慧というカトリックの神父はこの言葉を次のように説明しています。神の愛ということをよく表していると思いますので、引用させていただきます。

「聖書でのはらわたは愛情やあわれみの情がうごめく臓器です。はらわたが活気づけば喜びが心に生じますが、逆に狭くなったり閉じたりすれば同情を欠き、他人に無関心になります。わたしたちのはらわたは、狭くなったり閉じたりしますが、決してそうならないはらわたがあります。それは神やイエスのはらわたです。・・・この動詞は新約聖書ではイエスに使われる場合がほとんどです。イエス以外に『あわれに思う』人物と言えば、たとえ話に登場する三人の人物、つまり一万タラントンの借金を帳消しにした『主人』と、『善いサマリア人』と、放蕩息子の『父親』です。これらの人物はいずれも神を表しているとも言えます。この動詞の用例が神やイエスに限定されるのは、理由のないことではありません。人間は同情しても事態を変えることはできませんが、神やイエスにはそれができます。ですから『あわれに思った』イエスは病を患っている人を清め、目の見えない人をいやし、やもめの一人息子をよみがえらせ、食べ物のない群衆のためにパンと魚を振る舞います。放蕩息子を『あわれに思う』父親は、息子として彼を受け入れ、新たな命を与えます。わたしたちが神のもとに戻るとき、神のはらわたは喜びにふるえ、わたしたちを子どもとして受け入れます。」(『小石のひびき』)

聖路加国際病院での臨床牧会訓練(CPE)での体験

この「スプランクニゾマイ」という事に関して私には忘れられない思い出があります。1985年、神学校の最終学年に築地の聖路加国際病院で臨床牧会訓練を受けたときのことです。当時のチャプレンであった井原泰男司祭がこう言いました。「ボクは患者さんたちの話を聞いていて患者さんが一番言いたいところになると胃がビクビクと動くんだよね。」

私にとってこれは一つの啓示とも言うべき言葉でした。はらわたで相手の気持ちを受け取る。これこそスプランクニゾマイということなのです。私は牧師となって、苦しみや悲しみの現実に立ち会いうことが多い生活を送っていますが、主キリストがはらわたがちぎれるほどに深い痛みをもって「牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていた」群衆を深く憐れんでくださったということの大切さということをよく考えます。キリストがこの悲しみ、痛みを共に背負ってくださる!だから私たちは主にすべてを委ねてゆけばよいし、それだけでよいのです。

人生の苦しみや悲しみの前で人間の言葉は全く力を失います。ただ沈黙する以外にはない、そのような現実の中に私たちは置かれています。今回のむさしのだよりの巻頭言にはワールドカップについて書かせていただきましたが、その試合が行われている最中にも、パレスチナでは自爆テロが起こり、韓国でも銃撃戦が起こり、世界中で暴力によって人々が毎日のように殺されてゆくのです。日本でも殺人事件が毎日のように報道されています。人間が敵意や憎悪や悲しみの中で非人間化されてゆくのです。あまりにも悲しいことが多すぎる。そう感じました。私たちはそのような群衆の一人なのです。

神の憐れみの宣教者

すべては「主の深い憐れみ」から事は始まってゆきます。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)。そして主イエスはそのような人々の苦しむ有り様を深く憐れみ、ご自身の存在の中心、はらわたのちぎれるような深い思いでもって受け止めてくださる。この神の痛み、キリストの愛を聖書は私たちに伝えているのです。十字架はそのことの頂点でもあるのです。本日は聖餐式が行われますが、この聖餐式もそのような深い神の断腸の愛を私たちに伝えています。

はらわた痛む共感力の回復

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と語ったのはマザーテレサでした。そのことによってマザーテレサは現代人の病いが無関心、無感覚、無感動、無関係というところにあると看破したのです。孤立や悲しみの中で私たちの人間らしい感覚が鈍麻し麻痺してしまうこと、それが現代の我々の問題なのです。ニヒリズムもそのヴァリエイションの一つでありましょう。そこに悪魔の力が働く。悪魔は人間を苦しめるだけではないのです。人間を苦しまない者にすることができればその思いを遂げることができる。悪魔とは人間の不信仰を告発する務めを持つ者だからです。信仰の反対は狭い意味の不信仰だけではないでありましょう。無関心、無感覚、無感動、無関係も不信仰の中に位置づけることができましょう。

私たちはおそらく、人間らしいはらわたがよじれるほどの「苦しむ力、悲しむ力」ということを回復してゆく必要があるのです。赤ちゃんの時には泣くことが仕事であったわけですが、私たちが涙を流すことができなくなって久しいように思われます。涙を流すということを回復してゆく必要があるのです。涙を流すことができる者だけが本当の意味で喜びを味わうことができるからです。主はまさにはらわたのよじれるほどの悲しみをもって、ご自身の内蔵(=中心)で、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人間の窮境を受け止められました。断腸の思いで受け止められたのです。そこからすべては始まってゆきました。

無関心、無感覚、無感動、無関係といったものをさらに深く分析してみると、それは他から孤立した孤独で自己完結的なあり方と言ってもよいと思われます。モノローグ的な生き方と言ってもよいでしょう。それに対してダイアローグ的なあり方、開かれたあり方、他とつながってゆくあり方がそこでは求められているのではないかと思うのです。「我ーそれ」という自己の異様に肥大化した世界で生きる者たちは、神と自己と隣人との間における「我ー汝」の人格的な応答関係を回復しなければなりません。主イエスの語る「アバ、父よ」という呼びかけのなんと力強いことでしょうか。

12人の派遣も、羊飼いとの関係を失った人々をもう一度羊飼いへと導く働きであると受け止めたいと思います。私たちはそのような者として派遣されているのです。主の深い憐れみと出会った者は変えられてゆくのです。人間としての苦しむ力、悲しむ力を回復することができる。そして、主の憐れみの宣教者として、それを人々と分かち合うために私たちはこの世の中へと派遣されてゆく。主の憐れみが到達しえない場所はどこにもありません。ルターも言いました。「もし私が地獄に行かなければならないのなら、喜んで地獄に行こう。なぜならキリストは地獄にもおられるからである」と。キリストの深い憐れみが到達しないところは世界の上にも下にもどこにもないのです。そのことに思いを馳せながらご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

苦しむ者、悲しむ者たちがキリストの深い憐れみによって慰められ、癒されてゆきますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 7月 7日 聖霊降臨後第7主日礼拝 説教)

説教 「自由へのうめき~ニグロスピリチュアルの心」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 6:24-34

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って泣いた」

「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。立琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が歌を歌えと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で。」

詩編137編の冒頭です。バビロン捕囚によって遠く故国から引き離された民が、「余興のためにシオンの歌を歌え」とあざ笑う者たちから求められてそれを拒むあわれな姿が記されています。この歌はダイレクトに私たちの心に響いてきます。私たちも人生で同じように悔し涙を流さねばらなかった時を知っているからでしょう。故郷であるシオンとバビロンの間にはそれらを隔てる深い河があるのです。

北王国イスラエルはBC722年にアッスリアによって滅ぼされ、南王国ユダもBC598年にバビロニアによって滅ぼされてしまいます。そして民の指導者たちおよそ4600人がその首都バビロンに強制連行された。神から見捨てられた民の絶望は深いものであったことでしょう。紀元前538年のペルシア王キュロスの解放までの60年間、彼らは捕囚生活を強いられます。これがバビロン捕囚の出来事であり、そこで歌われたのが先の詩編137編でした。

しかし、神は不思議なかたちでこの苦難の時を用いてゆかれた。捕囚の苦しみを体験した者たちはやがて「イスラエルの残りの者」と呼ばれ、捕囚後に祖国再建のための中心となってゆきました。さらにはその苦難を通して、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」などに明らかなように、イスラエルはかつてないほどの信仰の深みに達してゆくのです。苦難が信仰を深めたとも言えましょう。

本日はむさしのゴスペルクワイアが礼拝の中で一曲Deep Riverを讃美してくださるということで、黒人霊歌というものに焦点を合わせながら信仰ということについて思い巡らしたいと思います。黒人霊歌とはアフリカからアメリカに強制的に連行されてきた黒人奴隷たちの魂の歌です。そこには自由へのうめきがあり、解放への叫びがある。私たちは礼拝讃美歌では三曲の黒人霊歌を歌っていますが、アフリカンアメリカンの人々が苦しみを通して到達したその深い信仰のスピリチュアリティーに心を向けてゆきたいのです。

サウスカロライナ・チャールストンでの体験から

ちょうど5年前の6月、私たち家族は、フィラデルフィアでの生活を終えようとしていた頃、二週間南部を車で旅する機会を与えられました。一週間は日本福音ルーテル教会と姉妹教会である米国福音ルーテル教会サウスカロライナ教区に招かれて滞在しました。そしてその後の一週間はフロリダにおられる元宣教師のキスラー先生ご夫妻を訪問し滞在させていただきました。

サウスカロライナ教区は私たち5人をゲストとして温かくもてなしてくださいました。岸千年先生も学ばれた南部神学校を訪問し、教区婦人会大会でご挨拶させていただき、そして1882年に日本への最初の宣教師二人の按手式が行われたチャールストンの聖ヨハネ教会でも主日礼拝の説教をさせていただきました。いずれも忘れ難い体験でしたが、同時にその地を訪ねて複雑な思いにさせられたのも事実でした。

チャールストンという名前について私は最初の宣教師派遣の地という以外は音楽のチャールストンぐらいしか知りませんでした。しかし訪問してみて驚かされたことがいくつもあったのです。チャールストンはサウスカロライナ州の大西洋岸の天然の良港で、綿花や綿製品、木材、タバコの積出しが盛んな港町で1670年頃に創建されています。町を歩くと奴隷市場跡が町の真ん中にあるのです。実はチャールストンはアフリカ大陸から直接に奴隷船が奴隷を運んできた港町でした。彼らは奴隷市場で家族バラバラに売られてゆきました。そこは奴隷売買の町でもあったのです。

三日間ほど時間があったので私たち家族は車で、現在は記念公園となっている南北戦争勃発の地(サムター要塞跡)やチャールストンの郊外の綿花農場(プランテーション)などを訪問しました。映画『風と共に去りぬ』はジョージア州アトランタが舞台でしたが、サウスカロライナ州はその隣りの州です。映画に出てくるのと同じように大きな農場でした。そしてそこで作られた綿がチャールストンの港から船で積み出されていったのです。

農場の入口から何分か車を走らせたところに、八畳ぐらいの大きさでしょうか、道の片側にマッチ箱のような小屋が何軒か並んでいました。それは「奴隷通り」と呼ばれている奴隷たちの住居でした。中は暗くて窓もなく、土間のままで仕切もなく、二段ベットが四組あったように記憶しています。狭い小屋に8人の奴隷が住んだのです。労働時間はともすれば一日20時間近くにもなったようですから、ほとんど寝るためだけの場だったと思われます。奴隷に関する一切の生殺与奪の権は農園主に与えられていました。農園主によっても違ったようですが、奴隷たちは人間としてではなく家畜同様に扱われたのです。「奴隷通り」の奥にもう一つ門があって、それをくぐると御殿のような荘園主の屋敷がありました。そこには美しいバラ園もあった。奴隷小屋とは対照的で私は複雑な思いに捕らわれました。そこは生涯奴隷として酷使された人々のうめきが聞こえてくるような場所でもありました。

米国における奴隷制度の歴史

米国において最初のアフリカ人が奴隷として売られたのが1619 年。1700年頃までには北米大陸におけるアフリカ人のほとんどは生涯奴隷の身分を確定されており、その子供も無条件にそれを継承してゆきました。1807年にはアメリカは奴隷貿易を禁止して「自由黒人」も認められるようになりましたが、実に二百年以上もアフリカ人たちは南部の諸州では奴隷として酷使されていたことになります。

二百年! 気が遠くなる年月です。奴隷の正確な數は分かりませんが、一千万人とも二千万人とも言われています。ちなみに米国では1775年から独立戦争が始まり、1776年に独立宣言をしました。独立宣言起草の町がフィラデルフィアでした。1777年にはヴァーモント州は奴隷制度を廃止しており、1787年頃に誕生した北部の新諸州は最初から奴隷制を禁止した州が多かったようです(オハイオ、インディアナ、イリノイ、ミシガン、ウィスコンシン州など)。

奴隷解放のためとされる南北戦争は実はチャールストンで勃発しています(サムター要塞)。1861年4月12日のことでした。そのひと月ほど前の3月4日、第16代大統領としてアブラハム・リンカーンが就任しています。南北戦争の最中の1863年にリンカーンは奴隷解放宣言を行います。1863年7月のゲティスバーグの闘いで南軍は総崩れになり、アトランタに退却してゆきました。その時のリンカーンによるゲティスバーグ演説は良く知られています。「この国に、神のみむねのもと、新しい自由が生まれますように。そして、人民の人民による、人民のための政体が、地上より滅びないようにしなければなりません」(安野光雅、『天は人の上に人をつくらず』、童話屋、2001、p44-45)。

南北戦争は1865年に南軍の敗北に終わり、奴隷制度は解体され、奴隷たちは「解放」されました。その奴隷制度の中心であったチャールストンから日本に宣教師が派遣されたのは、南北戦争終結の17年後になります。その歴史を知ったときに私は複雑な思いにさせられたのです。教会はどのような立場を取っていたのでしょうか。

マルティン・ルーサー・キング牧師のワシントン演説

米国は「自由と平等の国」と言われていますが、黒人たちにとっては長い間「奴隷の国」でした。マルチン・ルーサー・キングが公民権運動で立ち上がり、ワシントン大行進が行われたのはリンカーンの奴隷解放宣言からちょうど100年後、つい40年ほど前の1963年8月28日ことでした。そこでキング牧師が行った「I have a dream」という格調の高い演説はよく知られています。

「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子どもたちと、かつての奴隷主の子どもたちとが一緒に腰を下ろし、兄弟として同じテーブルにつくときがくるであろう。…私には夢がある。いつの日か、私の四人の小さな子どもたちが、皮膚の色によってではなく、人となりそのものによって人間的評価がされる国に生きるときがくるであろう。私には夢がある。いつの日か、谷間という谷間は高められ、あらゆる丘や山は低められ、でこぼこしたところは平らにされ、曲がりくねったところはまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示されて、ひと皆ともにそれを見るときがくるであろう。これが、われわれの切なる願いである。」(安野光雅『天は人の上に人をつくらず』p7-8)

苦難のただ中でマルティン・ルーサー・キング牧師は、イザヤ書40章の預言は必ず実現するのだと神の国の到来を語ったのです。それは深く苦しんだ者だけが語りうる真実の言葉でした。そしてそれは黒人霊歌の心に通じていると私は思います。1964年キング牧師はノーベル平和賞を受賞。同年11月22日にはケネディー大統領が暗殺。やがてキング牧師自身も1968年4月4日、テネシー州メンフィスで暗殺されてゆくのです。39歳でした。

リンカーン大統領も、1865 年4月14日、南北戦争が終わって二週間も経たないうちにワシントンの劇場で撃たれ、翌日息を引き取ってゆきました。今、ワシントンのポトマック川のほとりには、イスに深く腰をかけたリンカーンの石像のある記念堂が建っています。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり」(福沢諭吉『学問のすすめ』冒頭)。これは西欧のキリスト教社会を視察した諭吉が西洋の、特にキリスト教の考え方を語った言葉であると言えましょう。しかし現実は西洋社会には植民地主義や奴隷制度があった。神の前における人間の自由と平等という優れた理念は、白人社会においてだけ認められていたに過ぎませんでした。

人間が他の人間を非人間化し、人間以下の存在としてしか扱わない。これが奴隷制度を編み出した人間の罪でありましょう。そして歴史を見るとこの罪がまん延しています。その同じ罪が私たち自身の中にも根深く存在しているのです。太平洋戦争中に日本がアジアで行ったことと重なり合います。現在は韓国と日本でサッカーのワールドカップが共同開催されていますが、ここに至るまでの道のりは長く険しいものであったと思います。戦争や分断の歴史ではなく、私たちは和解の歴史を積み重ねてゆかねばならないのです。

自由へのうめき~ニグロスピリチュアルの心

黒人霊歌はアフリカからアメリカに連れてこられた奴隷たちの歌でした。非人間的な状況の中で、黒人たちは唯一、救い主イエスを信じ、イエスに祈りを捧げ、讃美を歌うことで生きる力を得、魂の自由を味わうことができたのでした。そこには魂のうめきがあります。人間を束縛し、非人間化する悪の力に対して、自由を求めて神に呼び求める魂の叫びがあります。それは奴隷ではない、人間としての自分たちのアイデンティティーの叫びでもあった。黒人たちはエジプトで奴隷であったイスラエルと自らとを重ね合わせたに違いありません。黒人霊歌とは、二百年もの間「出エジプト」を求め続けた苦しむ人間の魂の叫びです。

そのような真実さが私たちの心を打ち、魂に響くのです。彼らにとって歌うことは信仰の告白であり、人間として生きることでした。未来への希望を歌うと同時に、今この苦しみのただ中にキリストが共にいて、彼らの重荷を背負い、自由へと解放してくださるということを信じたのです。そこには苦難を深く味わった者だけが知りうる信仰の自由さがあるように思います。地上の生が絶望的であればあるほど、彼らは真の神の現臨により頼んだ。そのような信仰によって、彼ら生と死を越え、悲しみや苦しみを越えた本当の天の自由さの中へと招き入れられたのです。

深い河 Deep River

この後、ゴスペルクワイアにDeep River を歌ってもらいます。その原詞はこうなっています。

「深い河。わたしの故郷はヨルダン川のむこうにある。深い河。神よ、わたしは川を渡って集いの地へ行きたい。ああ、あなたはあの福音の宴に行きたくないか?平和に満ちた約束の地に行きたくないか?深い河。神よ、わたしは川を渡って集いの地へ行きたい。」

ここには神の約束の地に対する切望があります。神は常に苦しむ者の側に立つのです。「我が民の叫びを聞けり」と神は語ってくださる。その歌声は神の正義と公正を求めるうめきであり、叫びでありました。「あなたは何ということをしたのか。あなたの弟の血が地面の中から私に向かって叫んでいる」とカインを殺したアベルに向かって神は告げました。抑圧され、差別され、殺された者、声を奪われた者の声を回復してくださるお方が私たちの信じる神さまなのです。そこには私たちの中にある鈍感さ、無関心を告発する叫びさえ私には感じられます。それは私たち自身を自由へと、人間らしい生き方へと解放してくれる力があるのです。

「野の花、空の鳥を見よ」~神への信頼

「野の花、空の鳥を見よ。天の父はそれらを豊かに養っていてくださる」と語られたお方の言葉には人間を解放する神のダイナマイトのような力が込められていました。奴隷とされた者たちはその解放の力を信じたのです。自由へのうめきが勝利によって必ず応えられてゆくことを信じた。十字架のキリスト、復活のキリストこそ、彼らを奴隷状態から解放してくださる救世主メシアでした。その恵みの神のご臨在を苦難の中で信じる者へとされていったのです。このお方だけが私たちを様々な捕らわれから解放してくださる。捕囚から、隷属状態から解放してくださる。黒人霊歌は私たちにそのような神の信実を告白しています。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

悩み苦しむ者の上に神の力強い解放のみ業が備えられますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 6月16日 聖霊降臨後第4主日礼拝 説教)

説教 「三つで一つ、一つで三つ!?」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 28:16-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

三位一体主日

聖霊降臨後の第一主日は三位一体主日として守られています。この主日は他の主日と違って、三位一体という教理を覚え、教会が父子聖霊の三一の神をあがめ礼拝する日として 世紀以降(1332年)に広く守られるようになってゆきました。典礼色は神の栄光を表す白。

もちろん、私たちが三位一体の神を礼拝するのはこの主日に限られるわけではありません。毎週の礼拝で私たちは三一の神を覚えて礼拝しています。三位一体主日が定められるのに千三百年の年月が必要であった背景にはそのような理由もありました。

三位一体主日は年間の教会暦の中でも一つの区切りとなっています。アドベントから始まりペンテコステに至るまでのこれまでの半年間がキリストの生涯に焦点を当てていたのに対し、三位一体後の半年間はキリストの教えに焦点を当てて組まれています。

本日は私たちにとって三位一体とは何を意味するのかということに焦点を当ててみ言葉を思い巡らせてゆきたいと思います。

聖名の中への洗礼

本日与えられている福音書の日課は、マタイ福音書の一番最後の「大宣教命令」と呼ばれている箇所です。主は弟子たちに言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章18ー20節)と。

実は、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉が記されているのは新約聖書の中でここだけなのです。この言葉は当時の洗礼式文に拠っていると考えられますが、この部分を正確に訳すと、「み名による洗礼」ではなくて「父と子と聖霊のみ名の中へと(入る)洗礼を授けなさい」となります。洗礼によって私たちは三位一体の神の名の中に導き入れられるというのです。ここで、み名の中に入る(into)とは、どのような意味なのか。そこでは私たちが三位一体をどう理解するかが大切なポイントとなります。

三位一体の教理はキリスト教の歴史において正統的な信仰と異端のそれとを分ける分水嶺の役割を果たしてきました。三位一体を否定するようになるとそれはもはやキリスト教の信仰ではなくなってしまいます。最初の三百年ほどをかけてキリスト教会は、様々な異端的教えと対決しながら、自らの依って立つ場所として三位一体の教理を確立してゆきました。その背後には血のにじむような努力があり、また実際に血が流されていったのです。

三つで一つ、一つで三つ!?

三位一体については皆、頭を悩ませます。父なる神、み子なる神、聖霊なる神がいる。しかし、神は三人おられるわけではなく、神は唯一である。私たちは唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめ礼拝するのです。

三つで一つ、一つで三つ  論理的にはこれは私たちの理解を超えています。これを私たちはどのように理解してゆけばよいのでしょうか。

(1) あるカトリック神父は公教要理(授洗準備会)の中で必ず「三位一体について説明しなさい」という試験をするそうです。そして洗礼志願者が「分かりません」と答えると「正解」とするとのことでした。人間には分からない神の神秘を私たちが頭で分かり切ろうとすること自体、誤った態度であるということなのでしょうか。

(2) また、ある先輩のルーテル教会の牧師は「三位一体とかけて、うな丼と解く」と言いました。その心は? 「うな丼ではうなぎとご飯とタレとが三位一体だから。」 「山椒」はどうなるのでしょうか。ユーモラスな説明ですが、最初から説明するのを投げているようにも思えます。私たちは「知解を求める信仰」(アンセルムス)を与えられているのですから、理性においても信仰をより深く理解することを求めたいのです。

私自身はいくつかの説明をしてきました。言葉化できない神の神秘的な現実を言葉で説明しようとするのですから無理は承知の上です。どれでも自分が理解しやすいものを心に留めていただければと思います。

(3) 私は、私の子どもから見れば父親であり、私の親から見れば子供であり、妻から見れば配偶者(夫)である。私という一人の人間の中に「父」と「子」と「夫」という三つの役割が同時に存在している。三位一体もこれと同じである。何となく分かったような分からないような説明の仕方です。

(4) また、こうも説明できましょう。三位一体を水(水 H2○)と同じように考えればよいという説明です。水はふつう液体ですが、温度が下がって〇度以下になれば固体(氷)にもなるし、逆に温度が上がって百度以上になれば気体(水蒸気)にもなります。水はH2○という本質は変えないまま、気体、液体、固体と三つの姿を取る。三位一体もそのように考えればよいのではないかというのです。これはなかなか説得力があります。

河野悦子さんはさらにこう付け加えてくださいました。液体だったら固体が入らない隙間にも入ってゆくことができる。気体だったらもっと小さなところにも入れる。神さまはそれと同じく、どのようなところにもご自身の愛をくまなく注ぐためにそのような姿を取られているのではないか、と。なかなか心に残る解釈です。

(5) また、理系のお仕事をされてきた高橋光男さんはこう語ってくださいました。「三位一体ということは私には光のことを考えてみるとよく分かる。光には同時に相反する二つの性質、つまり粒子としての性質と波としての性質が備わっている。三位一体もそのように理解できる」と。なるほどと思いました。

(6) 最近『本の広場』という小雑誌に載っていた言葉も心に残りました。本田峰子さんという方(二松学舎大学教授)がCSルイスの『奇跡』という本との出会いを語っておられた。

「ここには、キリスト教の超自然的奇跡の教義を信じることの合理性が、人間理性の超自然性からの論理的推論と、想像力を用いた譬えとで、簡明かつ印象的に示してありました」と氏は語ります。ルイスは三位一体を立方体にたとえて説明しているそうです。立方体は二次元では六つの正方形でありながら、三次元のレベルでは一つの立方体である。それと同様、三次元では神は三つの位格ー父と子と聖霊ーだが、より高次の神の実在のレベルでは、三位でありながらなお一体であっても不思議はない。本田氏は続けます。「この推論は、三つならば一つではあり得ないという論理が、実は平面図形的思考に過ぎないことを示し、人間の思考の限界を実感させ、神の秘義に対する私の知的抵抗を取り除いたのです。」 ルイスとの出会いによって一つの突破が起こったのです。

母の抱擁におけるキリスト

(7) しかし私自身は、三位一体において一番大切なことは、神がご自身の愛を何とかして私たちに伝えようと強く願っておられるということではないかと思います。聖書で「三」とは完全数です。父と子と聖霊という三位において神は私たちを徹底的に愛し抜いておられる。あるいは、その三位の一体としての強い結びつきの中にこそ神の愛が示されていると申し上げることもできましょうか。

先週のペンテコステの礼拝後に祝会を持ちました。イースターとペンテコステに受洗された人、転入された人の歓迎のお祝いをしたのです。その時、イースターに受洗された今村芙美子さんがご自分のお母様のお話をしてくださいました。それはこういう話でした。自分は生まれたときから咽喉に障害があってうまく言葉を発声することができなかった。手術を二度ほど受けたがうまくいかなかった。13歳の時に自分の声をテープで聞いて愕然とされたそうです。それである時、自分の中にあるありったけの思いを母親にぶつけた。母は黙ってそれを聞いていて最後に自分を力いっぱい抱きしめてくれた。10年前にお母様が亡くなられた時に、今村さんはその時のことを思い出して、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝ったとのことでした。そして今村さんはこう語られたのです。「自分にとっては母親がキリストだった」と。

私はむさしのだよりの五月号に『母の胎』という巻頭言を書いたばかりでしたのでハッといたしました。注意深く言わなければなりませんが、思うに、今村さんにとってはお母さまの強い抱擁の中に確かにキリストが臨在されていたのです。苦難の中で真実の愛が示されるところにはどこでもキリストがおられる。キリストは私たち人間の苦難を共に背負い、支えてくださるお方だからです。このように、苦難を共にする中で自分をしっかりと抱き留めてくれる存在を知る者は幸いであると言わなければなりません。

私はこう思います。三位一体とはそのような神さまの私たちに対する抱擁を意味しているのではないかと。それは神さまの愛(抱擁)の強さを表し、またその愛の高さ、深さ、広さを表しているのではないか。天という高いところにいます父なる神がこの地上にみ子なる神として降り立ってくださった。その最も闇の深い場所は十字架です。み子なる神は死んで葬られ、黄泉にまで降られた。それは一ペトロ3章 節によれば、死んでいた者たちにも福音を宣べ伝えるためだったとあります。そして聖霊なる神は私たちを神の愛を全世界という広がりの中で宣べ伝えてゆくように押し出してゆくのです。神はその愛を私たちに豊かに注がれている。三位一体の教理とはそのように、何とかして人間を救おうとする神の熱い愛を伝えているように思えてなりません。私たちはそのような理解を持つときに正しく信じていることになるのではないでしょうか。

神の愛を宣教する教会

マタイ福音書の最後にある「父と子と聖霊(すなわち三位一体の神)のみ名の中へと洗礼する」という言葉は、洗礼を授ける者も授かる者も共に神の限りない愛の中に入ってゆくということを意味しましょう。洗礼を通して私たちは神の豊かな愛に与かってゆくのです。

私たちは、主イエスがお持ちになっていた天と地の一切の権能のもとで、神の権能のもとで三位一体の神の名において洗礼を授けるために派遣されてゆくのです。「神の愛をどこまでも深く、どこまでも広く、どこまでも高らかに宣べ伝えてゆきなさい。苦しむ者、悲しむ者、大きな壁にぶつかって行き詰まっている者、病いや死の床にある者、不安や絶望や恐れの中にある者たちは、あなたを通して届けられる神の言葉を聴いて慰められ、癒され、支えられ、励まされ、守られ、導かれ、希望を与えられてゆくのだ」というのです。

お見舞いのカードや手紙や電話やお花や訪問や、場合によっては緊急洗礼という手段を通してでも、神の憐れみの深さ、恵みと愛の大きさに人々が触れてゆくように私たちは招かれています。私たち自身もそのためには、ある時は水のままで、またある時には水蒸気になったりある時には氷になったりしながら、変幻自在に神さまの大いなる愛を隣人へと伝えてゆきたいと思います。

三位一体の神の愛が私たちに豊かに注がれますように。そして私たちを喜びのうちにこの現実の世界に向かって押し出してゆきますようにお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 5月26日 三位一体主日礼拝 説教)

説教 「神の望みと人の望み」  大柴 譲治牧師

マタイによる福音書20:17-28

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネ

時は、主イエスによる三度目の受難予告の直後。12弟子のメンバーであるゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親が主イエスの前に進み出てます。 主が「何が望みか」と問われると、彼女は願います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と。栄光の座をイエスが受けられる時、息子たちをその右大臣、左大臣としてくださいというのです。

ヤコブとヨハネはペトロと共に、多くの場合に主イエスのそばに置かれています。山上の変貌の場面でもゲッセマネの祈りの場面でもそうでした。彼らは特別な寵愛を受けていたようにも見えます。ヤコブとヨハネは、ペトロと共に12弟子たちの中で常に指導的な立場に置かれていたように思えるのです。

他の9人はそれをどう思っていたでしょうか。12人は「誰が一番偉いか」と始終議論していたようですから(マタイ18:1など)、彼らの多くは野心的であって、互いに対して強い競争心を燃やしていたのではなかったか。もちろん中には穏やかな性格の弟子もいたことでしょう。ペトロの兄弟・アンデレなどはほとんど前面に出てきませんので、ペトロとは対照的な性格であったと思われます。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、マルコ福音書3:17によると、主ご自身によって「ボアネルゲス(雷の子ら)」という名前が付けられたとある。名は体を表していましょうから、彼ら兄弟は二人とも、ペトロ(岩≒頑固者)と呼ばれたペトロ同様、激しやすい性格であったと思われます。使徒言行録12章にはヤコブがヘロデ・アグリッパ1世による迫害の中で剣で斬り殺され殉教したことが記されています。最初期の殉教者の一人となってゆくのです。その意味では確かに、ヤコブは主イエスが飲もうとしている「杯」を飲むことになってゆくのです。

ちなみに、主イエスが三人をいつもおそばに置かれたというのは、彼らが優れたリーダーシップを持っていたからというよりも、彼ら自身のアグレッシブな激しやすい性格から、彼ら自身が強くイエスのおそばにいることを望んだということがあったと思われますし、彼ら3人の性格を知る他の9人が譲ったということもありましょう。3人が主のそばにいないといかにも大変なことになりそうです。そして何よりも、激しやすい彼ら3人を一番イエスさまが牧会し、訓練するためであったろうと私は思います。一匹の羊をも大切にする羊飼いイエスさまですから、弟子たち一人ひとりの性格をよく知り、一人ひとりにふさわしい導きを与えられたのです。

母と子

ヤコブとヨハネの母は、そのような状況の中で、主に願い出るのです。十字架こそがイエスの王座であるということを聞いていながらも(場面は三度目の受難予告の直後です!)、それをまったく理解せずに、栄光の玉座を思い描いている。

ヤコブとヨハネの母親の性格もなかなかのものです。子を思う母の気持ちはかくも強いものでありましょう。そこには、母の強い支配の中から抜け出せないでいる息子たちがいる、というような感じもあります。この母にしてこの子あり、なのでしょうか。

それを知った他の弟子たちは抜け駆けされたと思ったかも知れません。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と24節にある。私たちはそのような情景を容易に想像することができます。よく分かるというのは、それは私たち自身がそのような思いを持っているからであり、偉い者、力を持つ者が支配するというこの世の論理の中で生きているからです。

神の望みと人の望み

そのように私たちの思いは、少しでも地位や財産や権力や栄誉を持ちたいという方向に動きます。夏目漱石も「向上心のない者はバカだ」とその作品の中で言わせています。向上してゆくこと、昇ってゆくこと、出世してゆくことこそが大切なのです。上昇志向が私たちを支配している。それが人の思い、人の望みであり、この世の価値観なのです。

しかし、イエス・キリストにおいて神が示された道はまったく違っていました。「上昇志向」ではない。むしろ、方向としては「下降志向」と言ってもよい。最も低いところ、一番下に立つことを示されるのです。

主は弟子たち一同を呼び寄せて言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(25-28節)。

ここには私たちの思いとは異なる神の思い、神の望みが示されています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。一番下に立ちなさいと命じておられるのです。これは単に上昇志向の反対を示されたというよりも、それらを越えた生き方を示されたと理解すべきでありましょう。行為 Doing の次元で汲々とした生き方ではなく、自他の存在 Being そのものを味わい、とことん大切にする生き方への転換が語られているように思います。自分の強さを誇るのではなく、自分の弱さを誇る生き方です。なぜなら、私たちはキリストのゆえに、弱い時にこそ強いからです(2コリント12:10)。

私たちの現状と聖書の告げる言葉

日本社会は現在、たいへんに困難な状況の中に置かれています。経済的にも政治的にも道徳的にも、私たちは不況と混乱の中にあると言わなければなりません。個人的にも、困難な状況の中に置かれている方が少なくないことでしょう。病いの床にあったり、家族を介護していたり、転職の不安や失業の苦しさの中にあったり、夫婦や親子などの家族の問題で悩んでいたり、様々な問題を抱えて私たちは生きています。偉くなろうという大それた願いは持っていないとしても、ささやかな幸せを私たちの多くは願っているのです。

何が幸せなのか。そのことを本日の日課は私たちに考えさせてくれます。偉くなること、お金持ちになること、業績をあげること、長生きすること、幸せになること。それらにも大切な面はありましょう。しかし何が一番大切かというと、聖書はそのどれに対しても「否」と言います。私たちにとって何が最大の幸福であるのか。それは私たちが神のみ心に従って生きることだと聖書は告げるのです。人生の中で主キリストと出会い、自分の十字架を担って主に従うことだと聖書は告げている。それはキリストと共に生きるということでもあります。キリストがすべてにおいてすべてなのです。

パウロは言いました。「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです」(ローマ14:8)と。また、こうも言いました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と。苦しみの中にあっても、死の陰の谷を歩む時にも、私たちは、あの羊飼いなる主が共にいますがゆえに、災いを恐れなくともよいのです。主がみどりの牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴いたもうからです(詩編23編)。

教職神学セミナー『きめ細やかな牧会を目指して』

先週の月曜日(2/18)から木曜日(2/21)まで、神学校で教職神学セミナーが開かれました。主題は『きめ細やかな牧会を目指して』。私が主題講演をさせていただきました。徳弘浩隆先生が『IT時代の新しい牧会の可能性』と題して、インターネットの持つ豊かな牧会的な可能性について具体例をあげて講演してくださいましたし、徳善先生が『牧会者ルター』という主題で「最終講義」後の「アンコール講演」をしてくださいました。

私は最初に、牧会とは何かということに関連して、二年前の自分の眼の手術の体験を導入として話させていただきました。ガンで「あと半年の命」と告知されてから求道し、洗礼を受けた半年後に天に召されてゆかれた松下容子さんが、亡くなられる直前、病床聖餐式の後でやせほそったお顔でしたが、眼をキラキラさせながら語られた言葉が忘れられません。「先生、もしかしたら間違っているかも知れませんが、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」。なぜ悲しみや苦しみがあるのか人生には分からないことばかりですが、そしてまた私は簡単には苦難の意味について答のようなものを言いたくありませんが、これだけは言えるだろうと思います。私たちにとっては人生においてキリストと出会うことがすべてなのです。このお方と出会うことなしには本当の意味で私たちの命は輝かないのです。私たちの行う「牧会」とはこのお方を指し示すことです。

早いもので私が右目の網膜剥離を患ってもう二年が過ぎました。ストレッチャーに乗せられて手術室に運び込まれる時、またまばゆいライトの前で4時間まばたきせずに右目を開き続けるという手術の際に、深いところで私を支えた二つの言葉がありました。椎名麟三が受洗時に語った「ああ、おれは、これで安心してジタバタして死んでゆける」という言葉と、遠藤周作の『侍』という作品の中の最後に出てくる言葉です。主人公の侍がキリシタンということが分かり処刑されてゆく場面で、従者の与蔵がこれ以上ついてゆくことのできない場所まで来た時に二度、こう叫ぶのです。「ここからは、あのお方がお供なされます。」「ここからはあのお方がお仕えなされます。」「侍」とは「武士」という意味もありますが、「さぶらう」、すなわち「仕える」という意味があるのだということを遠藤周作はタイトルに重ねているのです。いずれにしましてもキリストがかたわらにいてくださる。だから私たちは安心してジタバタしてよいのだ、ということは私にとって大きな慰めでした。

神はご自身がインマヌエルの神であるということ、み子イエスが常に私たちと共にいてくださるということを私たちが知りつつ生きることを望んでおられるのです。確かに人生は神と出会うためにある。あのステンドグラスに描かれた羊飼いなる主イエスさまご自身が私たちを牧会してくださる。そこに上昇志向、下降志向という次元を越えた、より深い私たちの生の根底があるのです。そのことを深く味わいながら、新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 2月24日 四旬節第二主日礼拝 説教)

説教 「コンパッション」  大柴 譲治牧師

マタイによる福音書 5:13-16

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

コンパッション

教会総会礼拝には毎年、その年の主題について説教がなされています。昨年は「Concentration コンセントレイション」という主題から「キリストへの集中、み言葉への集中」ということを考えましたが、今年は「Compassion コンパッション」という主題のもとに一年を過ごしてゆきたいと考えています。今年度の総会報告書には次のように書かせていただきました。

2002年の「コンパッション」とは、「同情」とか「憐れみ」と日本語に訳されることが多いのですが、もともとはラテン語で「共に苦しむ」という意味の言葉です。バッハの受難曲などもPassionと呼ばれています。この言葉を「熱情をもって事に当たる」と訳する人もいます。キリストはしばしば「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」ました(マタイ9:36。民数記27:17なども参照)。この「深く憐れむ」とは「内蔵」を表す言葉から来ています。「深い憐れみ」とは、日本語にも「断腸の思い」という言い方がありますが、はらわたがよじれるような痛みをもってキリストが私たち人間の苦しみをご自身の中心で受け止められたことを意味しています。十字架とはそのようなキリストの愛を他のどこよりも明確に私たちに示しています。これがコンパッションです。日本語で表せば「共感共苦」ということになりましょうか。ひと言で「愛」と言ってもよいだろうと思います。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とパウロは私たちに勧めていますが、キリストが私たちの苦しみを担ってくださったように、私たちもまたキリストの苦しみを担う者でありたいと思います。そして互いに苦しみを担う者でありたいのです。

「キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。」(ルター『キリスト者の自由』、石原謙訳、岩波文庫、p42)

はらわた痛む深い憐れみ

この教会とも深いつながりのあった北森嘉蔵先生は、『神の痛みの神学』の中で、神の義と愛のクロスする部分を神の痛みと捉えて、次のように語っておられます。「痛みにおける神は、ご自身の痛みを持って我々人間の痛みを解決したもう神である。イエス・キリストは、御自身の傷をもって我々人間の傷を癒し給う主である(ペトロ前書2:24)」(上掲書p25)。また、こうも語られます。「『そのうたれし傷によりてわれらは癒されたり』(イザヤ53:5)。キリストの死は『死の死』である。主は彼御自身死に給うことなくしては、我々の死を解決し給うことができなかった。神はいかにしても包むべからざるものを包み給うが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給うのである」(p28)。さらにはこう語ておられるのです。「神の愛に背いている罪人に来る神の愛、すなわち神の痛みの中においては、罪人は全く神に従順なる者として征服せられる。従順とは神の愛から離れないことであるが、今や罪人を捉える神の痛みからはいかにしても離れえぬからである。ここに起こることは罪人に対する神の勝利である。神の痛みの勝利は、この痛みをも突き抜けたひたすらなる愛、すなわち神の痛みに基礎づけられし愛である」(p56)。

これらの言葉は私たちにローマ書8章のパウロの言葉を思い起こさせてくれます。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(8:35, 37-39)。

神の愛から、主イエス・キリストの愛から私たちを引き離すことができるものは何もないのだとパウロは言う。なぜか。それは、神ご自身がキリストにおいて私たちをしっかりとつかんでくださったからです。神の愛の力は絶大です。キリストは私たちの苦しみを御自身の苦しみとしてその「はらわた」、つまり存在の中心で引き受けられました。福音書の中で「深い憐れみ」と訳されている言葉も、英語で言えば「コンパッション」となりますが、内臓を表す言葉から来ていることは先に触れました。はらわたがよじれるほどの深い痛み苦しみをもって、キリストは人々の痛みや悲しみ、苦しみをご自分のものとして引き受けてくださった。そして十字架にかかってくださったのです。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、私たち自身の絶望的な叫びをキリストが背負ってくださったことを意味しています。

このような痛みを伴うキリストの愛から私たちを引き離すものは何もない。愛は死よりも強し! 私たちはこのキリストの共感共苦の愛を信じ、このキリストの深い愛の中に生きるのです。今年の主題のコンパッションはそのことを意味しています。

地の塩、世の光として生きる

本日の福音書の日課には、「あなたがたは地の塩、世の光である」というイエスさまの言葉がありました。私たちはこの人間の世界の闇を照らす灯火であり、それが朽ちてゆかないようにするための防腐剤としての塩なのだと言うのです。また、本日の旧約の日課であったイザヤ書58章には次のようにありました。「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、『わたしはここにいる』と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」(58:6-10)。

マザーテレサは言いました。「愛の反対は憎しみではない。無関心である」と。無関心であること、苦しむ者に関わりを持たずに傍観者であることが、愛の対極にあるというのです。地の塩、世の光として私たちに何ができるかというと、キリストの愛をこの地上において輝かせること以外にはありません。教会はキリストの身体です。それは、今もなお、主イエス・キリストが私たちと共にあって生きておられ、その愛のみ業を、私たちを用いて、この地上に行い続けておられるということを意味しています。キリストの愛をこの世に証しするために教会は存続しているのです。

私は「愛」ということを思うたびに、思い起こす場面があります。遠藤周作の小説『女の生涯』の第二部に出てくる情景です。場所はアウシュビッツの強制収容所。そこには日本にもいたことのあるコルベ神父が自分のパンを倒れた者に与えてゆく場面が描かれていました。「ここは地獄だ」とつぶやくヘンリックという名の囚人に対してコルベ神父は言います。「ヘンリック、ここはまだ地獄ではないのだよ。地獄とは愛のない場所なのだ。ここにはまだ愛がある」と言って、ヨロヨロとコルベ神父は倒れた人の所に歩み寄り自分のパンを与えてゆくのです。

愛とは深いあわれみをもって苦しむ人に近づいてゆくことであり、その傍らにあって共に苦しむことであり、自分の持っているものを差し出してゆくことであります。ルカ福音書10章の「よきサマリア人のたとえ」を思い出すまでもないでしょう。愛とはコンパッション、すなわち苦しみを共にすることなのです。地獄のように思える現実の中にも、キリストが降り立ってくださったがゆえに、そして十字架にかかるほどの真実の愛を貫いてくださったがゆえに、私たちは「ここはまだ地獄ではない」とコルベ神父と共に語ることが許されています。そのことを覚えつつ、小さなキリストとしてご一緒に一年を歩みたいと思います。

神さまが力と導きをお一人おひとりに与えてくださいますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 2月 3日 総会礼拝 説教)

説教 「主に従う」 小泉 嗣神学生

マタイによる福音書 4:18-25

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

最初の弟子の召命

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」 この言葉によって、ガリラヤ湖で働いていた漁師がイエス様の最初の弟子となりました。

ペトロを初めとする最初の弟子達はそれぞれ舟の上でイエス様の声を聞きます。初めの二人は湖上で、あとの二人はもしかすると岸辺で、それぞれイエス様に呼びとめられます。彼らが働いていたガリラヤ湖は当時の人々にとって大事な食料である魚を人々に提供していた湖でありました。当然、その時湖にでていた漁師は彼らだけではなく、他にも多くの舟があり、働いている漁師たちがいたことでありましょう。しかし、イエス様はペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟を御覧になり、目を止め、声をかけられたのであります。何故彼らだったのでしょうか?多くの漁師たちの中から何故この二組の兄弟を選んだのでありましょうか?彼らが働き者だったからでしょうか?それとも労働の疲れがその顔に浮かぶ彼らを見て、イエス様が彼らを不憫に思われたからでしょうか?そのことについて聖書には何一つ記されておりせん。

彼らにしてみれば、カファルナウムで伝道をはじめられたイエス様の噂は耳に届いていたのかもしれませんが、初めて出会う見ず知らずの男が岸の方で何かを叫んでいる、自分たちに語りかけているのかどうかも定かではない、普段なら厳しく吹きつく湖上の風の音に混じって、あるいは労働に集中していて耳に届いていないかもしれない、そのような、彼らが働いている最中に、彼らは「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」というイエス様の言葉を聞いたのであります。

そして彼らは、四人が四人とも同じようにイエス様の後についていきます。彼らの仕事の道具である網を捨てて、ヤコブとヨハネにおいては父親をもその場に残してイエス様に従うのであります。彼らにとっては仕事のための、すなわち生きるための道具である網を捨てて、しかも「すぐに」捨ててイエス様に従ったのであります。

以上が本日の日課に記されている「四人の漁師を弟子にする」物語であります。もし、この物語を弟子を中心に置いて読むならば、私たちはペトロやヤコブがイエス様の言葉に従ったくだり、特に「すぐに」という言葉に目が止まってしまうのではないでしょうか。彼らは自分たちの生きるすべである網や舟を「すぐに」捨ててイエス様に従った。そんな彼らが十二弟子となり、イエス様が天に昇られたのち、イエス様を信じる共同体を形成していった。なんと素晴らしい話しでしょうか!明日の事を思いわずらうのではく、自らの生きるすべを捨て「すぐに」イエス様に従った彼らは、なんと大胆な熱い信仰を持っているのでしょうか!

しかし、私は、こう思えば思うほど、その一方で「自らの生きるすべを捨てるなんて…」「こんなまねは私にはできない」、もし主に従うということが彼らのとった行動、すなわち生きるすべを「すぐに」捨て、「すぐに」イエス様の後をついていくことであるとするならば、今の私は果たして主に従っているといえるのだろうか?このような思いがわき、イエス様はなんと厳しい要求を迫られるのか、まるで自分自身の心の弱さを見透かされているようで、胸が苦しくなってしまいます。

キリスト中心に読む

果たしてこの物語は私たちに何を語りかけているのでしょうか?イエス様に従った彼らのすごさを語っているのでしょうか?それとも、イエス様に従うことがいかに困難なことかを語っているのでしょうか?確かに、イエス様と行動を共にした第一世代の弟子達、特にペトロを初めとした十二弟子は、その後のキリスト教の歴史の中で大切な役割を果たしてきました。私たちが彼らから学ぶべきことは少なくありません。しかし、本日の日課をもう一度見てみますと、その表題が「四人の漁師が弟子になる」ではなく、「四人の漁師を弟子にする」となっていることからもわかるように、イエス様が彼らを弟子とした物語であり、イエス様の物語なのであります。

では、この物語をイエス様を中心にして読むとどうなるでしょうか?

まず、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いてこられます。ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネがイエス様のもとに向かったのではなく、イエス様が彼らの日常であるガリラヤ湖に向かわれるのであります。そして、そこで働く漁師たちを御覧になる。そしてまず、湖に網をおろしているペトロとアンデレに声をかけます「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。

イエス様は彼らと同じ目線で、しっかりと彼らを見つめながら、彼らの日常の営み、彼らの生きるための営みのを見つめながら、まさにその彼らの営みの最中に、彼らに聞こえるように声をかけるのであります。ヤコブとヨハネについても同様であったでありましょう。彼らの日常の只中にイエス様ご自身が向かわれ、彼らを見つめ、声をかける。彼らからしてみれば突然で、しかも一方的なイエス様の声ではありますが、イエス様からすればしごく当然な、あたりまえの言葉なのです。なぜなら彼らがイエス様をえらんだからではなく、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと」イエス様が彼らを選んだからであります。

「わたしについて来なさい。あなたがたを人間を捕る漁師にしよう。」 この言葉は、いつものように舟を出し、いつものように漁をしていたペトロとアンデレや、いつのものように網をつくろっていたヤコブやヨハネの日常を、彼らのこれまでのいつもの生き方を変えるには十分に余りある主の言葉でありました。この言葉が彼らの耳に届いた瞬間、イエス様が彼らに語りかけたその時に、彼らの生き方は、自らが生きるためのこれまでの生き方ではなく、神にあって生きるための生き方となったのであります。パンを得るための日常ではなく、イエス様と共に生きるための日常となったのであります。彼らが自身の決断によって生き方を変えたのではなく、イエス様によってその生き方を変えられたのであります。

そして、彼らは「すぐに」網や舟を捨て、父親を残してイエス様に従います。この時をあらわす「すぐに」という言葉も、彼らが「すぐに」従ったのではなく、イエス様が「すぐに」彼らを召されたと言えるのではないでしょうか?彼らが過ごしていた日常の時間ではなく、イエス様によって与えられた時間の中で、彼らが「すぐに」イエス様と共に歩みだしたのではなく、イエス様が「すぐに」彼らと共に歩みだしたのではないでしょうか?

このようにイエス様を中心にして本日の日課を読んだとき、私が弟子を中心にして読み進めたときに生じた胸の苦しさはもはやありませんでした。私が「すぐに」すべてを捨ててイエス様に従わなければならないのではなく、イエス様が「すぐに」私と共にいてくださるのです。しかも、イエス様は私の日常の只中で、「私についてきなさい」と語りかけてくださるのです。

日常生活のただ中で主に従う

イエス様との出会いの出来事とは、生きる目的を変えられる出来事であります。自分が一人で、自分自身の力だけで生きているのではないことを知る出来事であります。ガリラヤ湖の漁師たちは、自分が生きるために漁をするのではなく、神と共に生きるための漁師であることを知らされたのであります。私たちキリスト者もまた、イエス様との出会いによって、生き方を変えられた、神によって生きるという目的を与えられた一人びとりではないでしょうか?

イエス様は、彼らを魚をとるのではなく、人を取るための、すなわち神が私たちと共にいてくださることを告げ知らせるための、人を捕る漁師として召し出したのであります。確かにペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネは十二弟子の一人としてイエス様に召されました。しかし、神が共にいてくださる事を知った人々は、これまでの生き方を変えられた人々は十二人だけではありません。もし彼らが農夫だったら、イエス様はきっと「わたしについて来なさい。人を耕す農夫にしよう」と言われたでしょうし、もし彼らが大工だったら「人を建てる大工にしよう」と言われたでありましょう。イエス様を信じた人々は老人・子ども、男性・女性を問わず、様々な職業の人々でありました。イエス様は、それらの全ての人々にも同様に「神があなたたちと共にいる事を知りなさい」と言われたのではないでしょうか?イエス様は私たち一人一人に、その日常の中で、その労働の中で「神が共にいてくださることを知りなさい」と語られておられるのではないでしょうか?

「わたしについて来なさい」という言葉は、私たちがイエス様とであった瞬間、限定されて語られた言葉ではなく、毎日曜日に集う教会の中で、また月曜日から土曜日までの日常の中で、いつもの労働の中で、イエス様が私たちと共にいてくださることを知らせてくださる、そのようなイエス様の言葉なのであります。

主に従うとは、日常の只中で「わたしについて来なさい」、「わたしは常にあなたと共にある」と言われる主の言葉に応じ、感謝することなのではないでしょうか?私たちが日々生きていく中で、些細な事に目がいき、自分自身に執着してしまう、自分が利口で、知恵ある者、強い者であると思ってしまう、自らを誇ってしまう、そのような時に「すぐに」、また自分自身の無力さにさいなまれ、もがき苦しんでいる、誇れるものは何もないと思ってしまう、そのような時に「すぐに」、イエス様は「わたしはあなたと共にいる」「わたしについて来なさい」と語ってくださるのであります。

これから始まる1週間も、私たちの日常の中で語られる、このイエス様の「わたしについて来なさい」という言葉を聞きながら、どのような時も常に私たちと共にいてくださる神に感謝しつつ、主と共に生きてまいりましょう。

 おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 1月 27日 顕現節第4主日礼拝 説教)

説教 「光の導き」  大柴 譲治牧師

マタイによる福音書 2: 1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

顕現主日にあたって

新年おめでとうございます。新しい年の初めも、ご一緒に礼拝をもって始められることを感謝いたします。

本日は顕現主日。神さまの救いの光がイスラエルの人々だけではなく全世界に輝き渡ったということを記念する主日です。顕現日である1月6日は、教会暦の中では最も古くからの起源を持つ祝祭日として守られてきました。この日は、既に3世紀の初め頃に、エジプトで守られていたとされています。

この顕現日に与えられているみ言葉はマタイ2:1-12。東からの博士たちたちがユダヤ人の王としてお生まれになったみ子イエスさまを礼拝し、黄金・乳香・没薬という三つの宝物を捧げるという有名な場面です。東からの博士たちは占星術の学者たちでした。その数は伝説によると3人とも14人とも言われています。その出来事はユダヤ人の王が全世界の王でもあるということを宣言している。そのようなかたちで主の栄光が異邦人にも輝き渡ったのです。黄金は王なるキリストを、乳香は神なるキリストを、そして没薬は人間なるキリストを意味していると説かれてきました。

私たちはそのようなキリストの栄光の輝きの中で新しい年を始めることができるのです。これはまことに有り難い新しさではないかと思います。

「取り返しがつかない!」

2001年は悲しいことの多い一年でした。2002年も決して楽観はできません。先を全く予測できない時代、何が起こるか分からない時代に私たちは既に入っているように思うのです。現実の私たちの世界は、先週の日課であったマタイ2章16-18節に記されているヘロデの幼児虐殺事件のようなむごい出来事が数多く起こっています。

大晦日の日の朝日新聞の天声人語に次のような文章が載っていて、私は心を動かされました。

このところ、ある言葉が繰り返し頭のなかに浮かんでくる。「取り返しがつかない!」という言葉だ。作家の大江健三郎さんが子ども向けに書いた『「自分の木」の下で』(朝日新聞社)に出てくる▼「私が子どもの時、なにより恐ろしかった言葉はなんだろうか?」と自問する大江さんが思い出す。父が突然亡くなった日の深夜、遺体の横で母親が怒っているような強い声で何度もいっている。「取り返しがつかない!」。廊下で聞いていた大江さんは恐くなって蒲団に戻った▼大江さんは「子供の自殺」について語ろうとした。「子供にとって、もう取り返しがつかない、ということはない。いつも、なんとか取り返すことができる」。これは人間の世界の「原則」なのだ、と。だから、自分を殺してはいけない、他人を殺してはいけない▼大江さんの願いにもかかわらず、世界のあちこちから母親たちの「取り返しがつかない!」の悲痛な声が聞こえてくる一年だった。えひめ丸の事故があった。明石市の歩道橋の事故に付属池田小の殺傷事件、中東では自爆テロとその報復が続き、9月11日の同時多発テロである▼大人たちの任務は、どうしてあんなことが起きたのか、あるいは起き続けるのか、原因を突き止めること、そして二度と起きない手だてを考えることだろう。それはわかる。しかし同時に、大人たちも皆、大江さんの言う素朴な「原則」に立ち返るほかない、との気持ちが強まる▼「取り返しがつかない!」。この恐ろしい発語を、世界から少しでも少なくするために。

「もう取り返しがつかない!」 確かに恐ろしい言葉です。この言葉は私たちの心を引き裂きます。私たちもまた人生の中で取り返しのつかない経験をたくさん積み重ねてきたからです。そのことを思い起こさせる言葉です。

「『子供にとって、もう取り返しがつかない、ということはない。いつも、なんとか取り返すことができる』。これは人間の世界の『原則』なのだ、と。だから、自分を殺してはいけない、他人を殺してはいけない。」とは、いかにもヒューマニストである大江健三郎さんらしい素朴で暖かな発言であると思います。しかし私たちはそれに加えて、キリストを信じる信仰の立場から、「キリストの十字架のゆえに、『もう取り返しがつかない!』ということはない」と言いたいのです。十字架を見上げる時に私たちは、もはや取り返しがつかないと思っていた罪を、キリストがもう一度取り返しのつくものとしてくださったということを知らされるからです。

< キリストと出会う新しさ >

東から来た占星術の博士たちが幼子イエスに捧げた黄金・乳香・没薬という宝物は、ある註解書に、彼らが占星術のためにそれまで用いてきた商売道具であるという指摘があって私はハッとしました。主イエス・キリストと出会うということはそれまでとは全く違う新しい人生を始めるということなのです。重荷を含め、今まで自分が一番大切にしたものをすべて主に捧げることができる。そこから自由になってよい。もう遅い、もう取り返しがつかないと思っていた人生を、キリストにすべてを委ねることによって新たに始めることができるということを意味しています。

クリスマスに私たちは3名の方々の洗礼式に与りました。「はっきり言っておく。だれでも、新たに生まれなければ、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と主イエスはニコデモに言われました(ヨハネ3:3、5)。洗礼を受け、神の聖霊を受けるときに、私たちはそこから全く新しい生き方を始めることができる。別の言い方をすれば、キリストのいのち、神の聖霊が私たちに、取り返しがつかない状況の中にあっても、取り返しをつけてくださるのだというのです。

クリスマスの光は闇の中に輝いています。「闇が深くなければ見えない光もある」とイブ礼拝の時に申し上げました。するとイブ礼拝の後、ある方から「音楽とみ言葉に本当に感動しました」というお電話をいただきました。実は自分の身内がガンの手術をして暗く長いトンネルのような毎日を送っていた。毎日が闇の中を歩いているように感じていた。しかし、その悲しみの闇の中にこそクリスマスの星の光が輝いている。天使の歌声が響いているのだということに気がつき、改めてみ言葉の持つ力に励まされましたと。説教者としての私にとっては、改めて、み言葉の持つ力に触れる嬉しいリアクションでした。

人間の力が行き詰まることが人生には多々あります。もう取り返しがつかないと思うことがある。東からの博士たちも、もしかしたらそのような悔いの多い人生を送っていたのではなかったか。だから救い主の誕生を告げる星の輝きを発見したときに大きな喜びに満たされたのだと思います。彼らの旅は、闇の旅でした。夜しか星は見えないからです。しかしそのような闇の中で光は輝いている。その光の導きにより、キリストと出会い、彼らはそれまでの古い生き方をすべて捨てて、新しい人生へと入ってゆくことができたのです。私たちもそのような一年を過ごしてまいりたいと思います。取り返しのつかないように見えることがたとえどれほどたくさんあっても、キリストの翼の陰に守られ憩いながら、主と共にご一緒に歩みを始めてまいりましょう。

聖餐への招き

本日は聖餐式が行われます。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪のゆるしのために流すわたしの血における新しい契約」といってパンとぶどう酒を分かち合ってくださったキリスト。十字架の上でご自身のすべてを私たちに与えてくださったキリスト。このキリストの愛にすべてを委ねて、共にこの新しい一年を歩み出してまいりましょう。「あなたはもう取り返しがつかないと嘆かなくともよい。わたしがあなたと共にあって、あなたを救うのだから。すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」 キリストは聖餐式を通してそのように私たちに語りかけてくださっているのです。

お一人おひとりの上に神さまの祝福をお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 1月 6日 顕現主日礼拝 説教)