マタイ

8月13日(日)10:30 説 教: 「 何のために天の国はあるのですか 」賀来 周一牧

聖霊降臨後第10主日礼拝

聖 書: イザヤ 44:6−8   ローマ 8:26-30   マタイ 13:24-35

讃美歌: 教会 184、教会 339、教会 360、II 82

4月9日(日)10:30 説 教: 「 イエスの十字架 」浅野直樹 牧師

枝の主日・受難主日礼拝

聖書:ゼカリヤ9:9〜10 フィリピ2:6〜11 マタイ27:32〜56

讃美歌:134、136、515、332

説教「澄み切った青空〜悲しみを超えて」   大柴譲治

召天者記念主日礼拝にあたって

本日は召天者記念主日。毎年11月の第一日曜日に私たちは召天者を覚えて礼拝を守っています。週報には召天者名簿を挾ませていただきました。そこには269名のお名前が記されています。特に本日は「教会の祈り」でその中からこの10年間に天に召された81名のお名前を覚えて祈らせていただきます。ご案内を差し上げましたのでご遺族も何組かご出席くださっています。また、あの聖卓の前には二冊の召天者記念アルバムが置かれています。ご遺族の上に天来の慰めをお祈りしながら、み言に聴いてまいりましょう。

 

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

本日与えられた福音書はイエスさまの山上の説教の冒頭の言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。原語のギリシャ語では「幸いである」という語が最初に来ていますから、こういう風に訳すことができると思います。「おめでとう、心の貧しい人々! 天国は(既に)あなたがたのもの。おめでとう、悲しんでいる人々! あなたたちは必ず慰められる」。

生きることは実に辛く悲しいことであると思わずにはいられません。先週、私たちはこの場所でAさんのご葬儀を執り行いました。Aさんは膵臓癌のため50代の若さでご家族の見守る中、ご自宅でこの地上でのご生涯を終えて天に帰ってゆかれたのです。AさんはBご夫妻のご子息です。生まれてすぐ東京教会で本田伝喜先生より幼児洗礼を受け、少年時にJELC八幡教会からご家族と共にこのJELCむさしの教会に転入されました。

学生時代には英語サークルの部長としても活躍。大学卒業後はバリバリの商社マンとして、北米に10年以上も駐在しながら、家族を愛し、仕事を愛し、ゴルフを愛し、生きることを喜びながら充実した日々を送っていました。この7月に体調不良のため近隣の病院に行くと、病いが発見されて即入院となります。病院で一月半治療を受けた後、ご本人の強い希望で9月からはご自宅で在宅ケアを受けながら闘病を続けられたのです。生来の頑張り屋さんだったこともあり、「自分はやりたいことがたくさんある。必ず治って職場に復帰する」という固い決意の中、前を向き、上を向いて、歯を食いしばって最後までご家族と共に頑張り抜かれたのです。

三週間ほどは食事も喉を通らなくなっていたにもかかわらず、召される二時間前にも「トイレに行きたい」と立って歩かれたということでした。現職の部長であったこともあり、葬儀には前夜式と告別式を合わせて500名を越す参列者がありました。会社の上司や同僚も大勢参列してくださり、その中から4人の方が万感の思いを込めて故人の思い出を語ってくださいましたし、喪主として奥さまがご挨拶をされました。

ご子息を見送らなければならなかったご両親さまのお気持ちを思う時、私たちは胸がつぶれるような思いになります。なぜこのような辛い現実があるのか。神さまはいったいどこにはおられ、なぜ沈黙しているのか。私たちはそのような思いになるのです。生きるということは何と辛く悲しいことでありましょうか。ご葬儀の二日間はとてもよいお天気でした。空を見上げると、秋晴れの真っ青に透き通った青空が悲しいほど美しく感じました。

 

「会者定離」という言葉があります。出会った者は必ず離れてゆく定めにあるという意味の言葉です。「会うは別れの始め」とも言います。私たちはどのようなすばらしい出会いを与えられたとしても、必ず別れてゆかなければならない定めです。「咳をしても一人」と尾崎放哉は歌いましたが、別離の哀しみを思う時、つくづく人生は何と儚く、何と人間は孤独な存在であることかと思います。しかしそうであればこそ、今ここで私たち一人ひとりに与えられている一つひとつの「絆」、「人間関係」を、「かけがえのないもの」として大切にしなければならないのであろうと思うのです。

今年になりましても、Aさんの他にも、9人の方々がこの地上でのご生涯を終え、最後まで自分らしく生き抜かれて、天へと移されてゆきました。天寿を全うされた方もおられますが、若くして地上のご生涯を終えなければならなかった方もおられます。ヨブが言うように皆、「裸で母の胎を出て、裸でかしこに帰って行かれた」のです。私たちは生まれた時も裸であれば死ぬ時も裸です。何も持っては行けない。否、最近私は「一つだけ持ってゆくことができるものがあるのではないか」と考えるようになってまいりました。それは自分自身の「心」です。「魂」または「霊」、あるいは「自分自身」と呼んでもよいのかもしれません。

 

「モノ」は何一つ持ってゆくことはできないのですが、「自分自身の心」は持ってゆける。だからこそ私たちは、自分自身の心を豊かにしてこの地上の生をまとめてゆく(終えてゆく)必要があるのだと強く思わされるようになりました。それも、「何かをすること(Doing)」によってではなく、今ここで私たちに与えられている「存在そのもの(Being)」に焦点を当てることを通して、心を豊かにしてゆく必要があるのです。ちょうどカール・グスタフ・ユングが「人生の午後の時間は、魂を豊かにしてゆくための時間」と言っているように、魂を豊かにする必要があるのだと思うのです。ではどうすれば魂を豊かにすることができるのか。

 

悲しみのどん底に降りたってくださったキリスト

聖書は、現実の中で生きることの困難さと悲しみを深く味わう私たちに対して、私たちの悲嘆と絶望の深みに降り立ってくださった方がおられると告げています。そのような嘆きの時にも私たちは独りぼっちではない。それが私たちの主イエス・キリストです。「咳をしてもひとり」ではない。「咳をしてもふたり」「キリストと共にふたり」なのです。

そして今日私たちは、そのお方から祝福の言葉を聴いています。「おめでとう、心の貧しい者たちよ! 天国は(既に)あなたがたのものなのだ。おめでとう、悲しんでいる者たちよ! あなたたちは必ず慰められる」という言葉を。それは確かな声として私たちに迫ってきます。宮澤賢治ではないですが、人生とはこのキリストの祝福の言葉を聴くためにある「祝祭の日々」なのではないでしょうか。この後で私たちは聖餐式、主の祝宴に与りますが、私たちのためにご自身の身体と血、すべてを与えてくださったお方が私たちを祝福してくださっているのです。

「おめでとう、心の貧しい者たちよ! 天国は既にあなたがたのものである。おめでとう、悲しんでいる者たちよ! あなたたちは必ず慰められる」と。嘆きの深淵の中にも主が共にいましたもうが故に、私たちは大丈夫なのです。

 

改めて日野原重明先生(上智大学グリーフケア研究所名誉所長)が語られた言葉を想起します。悲嘆にある人に接する時に私たちに必要なのは「か・え・な・い・心」であると先生は言われます。それは「か:飾らず、え:偉ぶらず、な:慰めず、い:一緒にいる」姿勢です。それはキリストご自身が私たちに示してくださった深い「あわれみの心」でもありました。

 

「澄み切った青空」〜悲しみを超えて

9月の初めに上智大学を会場に開かれた「日本スピリチュアルケア学会」の全国大会の主題講演で、ノンフィクション作家の柳田邦男さんが柏木哲夫先生のエピソードを紹介しておられました。私の心に深く響いたのでご紹介させていただきます。柏木摂夫先生はクリスチャン精神科医として長く大阪の淀川キリスト教病院のホスピス長をされた方としてよく知られています。いつも笑顔とユーモアをとても大切にしておられる方です。

柏木先生がいつもと同じようにホスピス病棟を回って「今日は調子はいかがですか」と患者さんたちに声をかけていた時のことです。ある男性の末期ガンの患者さんがニコニコと笑いながら「今の私の気持ちはこれです」と言って柏木先生にこういう形の一枚の青い色紙を示されたそうです(ここで色紙を示す)。 色紙は通常正方形ですが、その「四つの角」が切り取られていました(「正八角形」というのでしょうか)。

どんな意味かお分かりになりますか。そうです、「隅切った(澄み切った)青空」という意味だと言うのです。「アッ、なるほど」と思いました。このような上質のウィットとユーモアは私たちの気持ちを和ませ、切り替えてくれるということがよく分かります。「澄みきった青空」。私たちの悲しみの現実にかかわらず、その中で私たちの思いをフッと私たちの上に拡がる青空に向かせてくれるいい話だと思いました。先ほどAさんのご葬儀の時にはとても青空がまぶしかった話をいたしました。

舞台裏を申し上げますとこれは私が作りました。これを作るために少し苦労しました。四隅を別々に切ると形がバラバラになってしまい、バランスが崩れてキレイに見えないのです。そこでどうしたかというと、色紙を四つに折って「隅」を重ねて切り、それを拡げるとこのようにキレイな形になったのです。私はこれを見ていてハッとさせられました。

 

ここからは柳田邦男さんが言わなかったことで私自身が気づかされた話です。先ほど四隅をキレイにそろえるために四つに折って切ったことを申し上げましたが、拡げてみるとこの「澄みきった青空」の真ん中に「十字の折れ線」がついているではありませんか。四つに折りましたから当たり前のことです。そこにはくっきりとキリストの十字架が現れたように感じたのです。私たちのために天から降ってこの地上に降り立ち、人間の闇のどん底を歩み、悲しみと苦しみ、罪と恥のすべてを背負って私たちのために、私たちに代わってあの十字架に架かってくださったお方がおられる。

このお方がいるからこそ、深いあわれみの心、「かえない心」を持つこのキリストがいてくださるから、私たちはどのような時でも心の中に澄みきった青空を仰ぐことができるのだということに気づかされたのです。269名の召天者の方々は、キリストという青空を仰いで生き、その青空を仰ぎ、そこにすべてを委ねてこの地上の生を終えてゆかれた方々なのです。

 

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンとブドウ酒を差し出し、私たちをその祝宴へと招いてくださるお方がいます。この聖卓は、こちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っています。キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主です。私たちは生きるとしても主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬのです。

なぜかというと、生きるとしても死ぬとしても私たちは主のものだからです。このキリストの祝宴は終わりの日の先取りでもあります。ここにこそ私たちが悲しみを超える道が備えられている。天が開け、天の後には虹が置かれ、そこには澄みきった青空が拡がっています。確かな主の声が響いています。「おめでとう、心の貧しい人々! 天国は既にあなたがたのものなのだ。おめでとう、悲しんでいる人々! あなたたちは必ず慰められる」。アーメン。

マタイによる福音書 5:1-12
(2014年11月2日 召天者記念主日聖餐礼拝説教)

「逆巻く湖上を近づいて来られる主」 大柴 譲治

列王記上19:1-21、マタイ福音書14:22-33

<映画『大いなる沈黙へ』>
 この夏、8月6日に私は岩波ホールで上映された映画『大いなる沈黙へ』(原題:Die Groβe Stille。ドイツ語で「大いなる静謐」の意)を観る機会を与えられました。この映画は大入り満員が続いたために引き続き都内各地で上映や全国上映が決まったということですので、ぜひ多くの方にこの映画を観ていただきたいと思います(賀来先生がこの映画についてはこのたよりの中で書いておられます)。
 映画は現実の修道院にカメラが入ってその日常生活を淡々と映し出してゆきます。それはカトリック教会の中でもとりわけ厳格な戒律で有名なグランド・シャルトルーズ修道院(カルトジオ会)。フランスのアルプス山脈の中にある1084年創立の修道院で、人里離れた場所で自給自足の生活をしながら祈りをささげ、質素な日々の生活の中で一生を過ごす30人ほどの修道士たちの日常をカメラが捉えています。監督はドイツ人フィリップ・グルーニング。1984年の許可申請時には「まだ早い」と言われますが、遂に16年後「準備が整った」と撮影許可がおります。ただし「監督一人が入ること、音楽や光やナレーションを入れないこと」という条件付き。監督は約半年間、修道院の一員として独房での生活を送ることになります。凜とした静謐が支配する深い沈黙の中、修道士は相互に会話することもなく礼拝、瞑想、祈りなどの日課を黙々と行ってゆくのです。構想から実に21年を経て実現した中世からの変わらぬ修道院の映像が心に深く染み入ってきます。観る者も自分が一人の修道士になったように感じる映画でした。現代人の心に強く訴えかける不思議な静謐に満ちたドキュメンタリー映画でした。
 修道士たちが寝起きするのは一人一人に割り当てられた小部屋。彼らは一日の大半を机と祈祷用スペース、ベッド
のあるその部屋で過ごします。深夜にも祈祷の時間があるため(19:30に寝て23:30に起き3時間ほどの夜のミサがあり、そして再び3時間ほどの就寝時間)、睡眠時間は分断されています(総計すると修道士の一日は、9時間の祈り、8時間の休み、7時間の肉体労働ないし読書となります)。
 私がこの映画から想起したのは次の言葉でした。「沈黙は言葉の背景を持たずに存在しうるが、言葉は沈黙の背景を持たずには存在できない」(マックス・ピカート、『沈黙の世界』)。『大いなる沈黙へ』という映画のタイトルの通り、映画を観る者は修道士らと共にその「大いなる神の沈黙の声」に耳を澄ませることを求められてゆきます。一週間の内、修道士たちが互いに自由に言葉を発することができるのは日曜日の午後、散歩の時間の4時間だけです。あとはミサでの祈祷以外は声を発せずに沈黙しているのです。映画は黙々と修道院の日常生活を映し出してゆきます、900年間変わらずに継承されてきた日々の生活を。
 時折、聖書の言葉がテロップではさまれてゆきます。その中の一つが本日の旧約聖書の日課、列王記上19章からの言葉でした(11-12節)。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」。
 山を裂き、岩を砕くほどの「大風」が起こっても、その風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかったと語られています。しかしその後に、主の「静かにささやく声」が聞こえたのです。映画はテロップでこう語ります。「静けさ―その中で主が我らの内に語る声を聞け」。神が私たちに向かって「沈黙」(silence)「静謐」(tranquility)「孤独」(solitude)を通して語りかけてくる声に耳を澄ませてゆくこと。『大いなる沈黙へ』はこのことの意味を深く考えさせてくれる169分の映画でした。

<水の上を歩こうとしたペトロ>
 本日の福音書には、「逆巻く湖の上を弟子たちの乗った船にまで向こう側から近づいて来られる主イエスの姿」が記されています。水の上を歩くことなど人間にできることではありません。しかしこのエピソードはマタイだけではなく、マルコとヨハネにも記されていますが、初代教会は迫害の嵐(荒波)の中で、復活の主が共にいてくださることをこのエピソードを通して繰り返し確認していったのでしょう。もしかしたらここには、かつてモーセが真っ二つに分かれた紅海の中に現れた乾いた地を渡って約束の地に向かって民を導いていった「出エジプトの出来事」が重ね合わされているのかもしれません。それは「神の力」による奴隷状態からの「大いなる解放の出来事」でした。
 神にできないことは何もなく、人にはできないことでも神にはできるのです。人間の力が届かないところ、尽きたところにおいて、神さまのみ業が始まってゆきます。本日の嵐の中、逆巻く水の上をイエスさまが弟子たちの乗った船に近づいてゆかれる場面もそのような状況を表していると思われます。初代教会の信者たちは、迫害の嵐の中で、沈みそうになる船(教会を船になぞらえました)の中で生きた心地がしなかったのだと思います。そのような状況の中で、主が逆巻く波の上を船に向かって近づいて来てくださるというこの出来事はどれほど大きな慰めと励ましを初代教会の信者たちに与えたことだったでしょうか。
 もう一度その場面を読んでみましょう。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」

<主を信じて水の上に踏み出したペトロ>
 事は「嵐の中」での出来事です。先の列王記上の19:11-12の言葉と重ね合わせてみるならば、こうなります。山を裂き、岩を砕くような「大風」の中にも、風の後に起こった「地震」の中にも、地震の後に起こった「火」の中にも、主はおられなかったのです。しかし「火」の後に、そこには「静かにささやく声」が聞こえた。「神」の「ささやく声」です。この神からの静かな静寂の声に耳を澄ませることが私たちに求められています。この「声」に耳を澄ませるとき、私たちはどれほど大風や地震や火が私たちに迫り来ようとも、それらを乗り越えてゆくことができる。逆巻く波の上を歩いて、怯える私たちに向こう側から近づいて来てくださる復活の主を見てゆくことができるのだと思うのです。

<詩編46編>
 Die Groβe Stilleという映画の原題(特にStillという語)に関して私は詩編46編を思い起こします。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と歌う詩篇46編は宗教改革者のマルティン・ルターがこれをもとに『神はわがやぐら』という讃美歌(教会讃美歌450番)を作曲したことでもよく知られた詩編です。インマヌエル。これは「万軍の主なる神が我らと共にいます」ということが繰り返し語られている信頼の詩編です。
 その11-12節には次のようにあります。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」。新共同訳聖書では「力を捨てよ、知れ、わたしは神」と訳されていますが、私たちが長く親しんできた口語訳聖書では11節(10節)はこうなっていました。「静まって、主こそ神であることを知れ」。文語訳聖書ではこうです。「汝ら、しずまりて我の神たるを知れ」。多くの英語訳聖書ではここはstillと訳されています。“Be still, and know that I am God!”(英訳のNKJV/NRSV/NJB等)。『Die Groβe Stille(大いなる静寂)』です。私たちは沈黙の中に聞こえてくる神の声に耳を傾けてゆくのです。「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19:12)。
 逆巻く逆風の中でも向こう側からキリストは近づいて来てくださいます。そして、静かにささやく声で告げておられるのでしょう。「なんじら、静まりて我の神たるを知れ」と。私たちはこのお方のみ声を聞きながら、たとえ現実が逆巻く大波のように見えたとしても、私たちはキリストのみ声がもたらす「平安」と「静けさ/大いなる沈黙」に満たされて、祈りの中に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。
 お一人おひとりの上に神さまの豊かな恵みがありますように。 アーメン。
(2014年8月31日 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教)

聖霊降臨後最終主日 説教「マタイ25章31-46」 浅野直樹

マタイ25章31-46

 今年7月にいずみの会で、遠藤周作の従兄弟、竹井祐吉先生をお招きして「信仰とユーモア」というテーマで講演をしていただき、私たちの教会がともに学びをする機会がございました。きょうは遠藤周作のお話をまずしようと思います。

遠藤周作の作品にはふたつの種類があります。ひとつは「沈黙」や「イエスの生涯」、あるいは遺作の「深い河」のように、真正面から信仰をテーマにした純文学。そしてもうひとつは、少し肩の力を抜いた、軽妙なタッチのエッセイです。その中に「考えすぎ人間へ」という本があります。1990年に出版されました。軽妙なエッセイといっても、遠藤周作の追求するテーマというのはいつも変わらず、それは人間の深層心理に根ざしたほんとうの人間らしさの原点を探ることではないかと私は思います。だからこそ、彼は自分の作品のなかでいつも信仰を問い続けたのです。この本のなかから、ひとつの彼の考えをまず紹介したいと思います。

ひとつの原因があって、それがひとつの結果を招く。我々はそう考えやすいわけですが、実はそれは違う、ことはそんなに単純じゃないんだと遠藤は説くのです。

たとえばテニスのボールをぽんと打つ。それは自分が手加減して打ったから、目指したところへ飛んでいったと思うかもしれない。けれども実際は、ボールを打った人の意志だけが原因とはならず、そのときの風の動きとか引力とか、微妙な力が働いてボールはそこへと落ちるのです。つまりすべてのことがらは、一つの原因によって成り立っているということはなく、いろいろな要因によって成立しています。そのことは人間の心理だって同じなんだと遠藤はいうのです。ちょっと引用します。

「私は憐れみからこの人にお金をあげた」なんてことを聞いたら、ナニを言うとるかと思う。憐れみだけじゃないでしょう。お金をあげるという行為の中には、自己満足もあるだろうし、その人から感謝されたいという気もあるだろうし、自己顕示欲もあるだろう。いろいろな感情が混じっているわけです。それを「善意にかられて」とか「愛にかられて」とか、一概にはいえない。たくさんの因子がそこに入り込んでいる。」

遠藤周作は、人間というものはそうだと決めつけて書いていますが、そう決めつけられてしまうのもどうかと思います。けれどもそれに同調する人もきっとたくさんいるはずです。ここに慈善、チャリティという良いわざの難しさがあると、私も思うのです。

きょうの福音書に出てくるイエスのたとえ話は、そういった人間の良いわざについてです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。

 食べさせ、飲ませ、宿を貸し、服を着せ、見舞い、牢にいたとき慰問する。イエスのたとえ話の中の話ではありますが、この人はなぜそうしたのでしょうか。遠藤周作は、そこには自己満足や、感謝されたいという気持ち、自己顕示欲も混じっていると言いました。それが自分も含めた人間の正直な姿なのだといいます。そうかもしれません。けれどもきょうのこのたとえ話を読む限り、自己満足とか、感謝されたいといった、自分にとって都合のよいだろう気持ちを、打ち消してしまう強い言葉が、このたとえ話のなかにはあるのです。

「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」という言葉が、それです。本人は気づいていないのです。良いわざが無意識のうちに行われているということが、このたとえ話の中に隠された最大の特徴です。

私がどう思ったかということとは直接は関係がないのです。憐れに思ったとか、かわいそうだったからとか、感謝されてうれしかったとか、黙って見ていられなかったとか、気の毒に思う感情さえ入り込む余地がありません。自己満足や感謝されたいという感情は、いわずもがなであります。

よいことをする人の心の状態がどうなっているかということは、全然問題にならないレベルでのお話が、きょうのイエスのたとえ話なのです。慈善活動とかチャリティに関わるとき、自分がどう思っているかとか、心の中がきれいかどうかということは、全然問題ではありたません。

もっというならば、その行為自体が良いとか悪いとかといった倫理的判断さえもする必要がないほどです。明日を生きられない人が今目の前にいるとき、いろいろ考えて行動するというのではなく、我を忘れて、本能的に、無意識にその人に手をさしのべてしまっているということ。

別の言い方をすれば、このとき自分が消えているのです。このおこないをしているとき、自分というエゴはそこにないということなのです。自分を意識することから無縁なレベル。心さえも届かないレベル。人間が人間であるための、最も原初的レベルの出来事が、これなのかもしれません。聖なる領域という言い方だけがあてはまります。それがきょうの福音書に描かれている世界です。

ディアコニアという言葉をルーテル教会ではよく使います。これは、新約聖書の中に出てくる「奉仕」を意味するギリシャ語です。奉仕にせよディアコニアにせよ、要は働き、わざ、おこないです。2006年にエチオペアのアジスアベバで、ディアコニアに関するルーテル世界面例LWFの会議があり、出席する機会がありました。その会議で、LWFは福音の再定義をして、「ディアコニアが福音のコアである」という声明文を採択しました。ディアコニアが福音のコアというメッセージを短絡的に考えると、おこないが福音の中核であるというふうにも聞こえます。ルター派の教会は、福音を行いと結びつけるのは、とても慎重になります。おこないによって救われる、わざによって神の恵みを受け取る、という人間のおこない中心の救いという考え方へと進みかねないからです。その会議ではまた、ディアコニアの働きというのは改宗が目的なのか、という問いもありました。日本ではあまり宗教の改宗ということは大騒ぎにはなりませんが、イスラム教が根強い国などでは、クリスチャンのディアコニアの働きは改宗目的だ、などと非難されることもあるのだそうです。

会議ではディアコニアという考え方をどう定義づけたらよいかということでかなり議論がありました。それは簡単なようで難しかったです。というのは、ルーテル教会が国教会の北欧やドイツなどでは、もうすでにディアコニアという名の下に、じつに多くの社会福祉の働きが行われているなど、それぞれの国の事情によっていろいろな展開の仕方があり、いろいろな文化的宗教的背景があるため、すべての人を納得させるような、ディアコニアの定義ができないのです。

ディアコニアとはいったい何か。あきらかにそこにはイエスの教えが反映されていることはたしかです。ディアコニアが福音のコアだというけれど、その福音のコアには何があるのか。私は、その答えがきょうのマタイ二五章のたとえ話の中にあると考えています。

自分の心の動きとか、自分にとっての損得や利害とかはいっさい問題にならない、自分が消えてしまっている働き。正しいとか悪いとかという倫理的判断をも寄せ付けない。ただ、そこに苦しんでいる人がいるから、神様に押し出されるままに、自分を意識することなく出てくるわざ。そこに福音のコアとしてのディアコニアがあるのではないでしょうか。そこでは人間の心理や下心、満足感や喜びはすべて消えています。伝道して教会に招こうという願いもありません。

その会議では、グループに分かれてディアコニアの定義を試みました。グループ内でまとまったひとつの見解は、「ディアコニアとは神の愛を映しだすこと」でした。ディアコニアは自分たちのわざではない。自分たちの愛が表れているものでもない。それはちょうど月と同じで、自分自身は輝いておらず、ただ太陽の光を浴びて、それを映しだしているに過ぎない。それと同じく私たちがなすディアコニアは、神様の愛を私たちが浴びて、その愛を私たちが映しだして、それを最も小さい者の人にとどけることなのです。

教会の暦の一番最後の主日、聖霊降臨後最終主日にて、わたしたちは終末といわれる時間軸の中でこのメッセージを聞きました。時の終わりという究極の次元で語られた、イエスのメッセージです。究極の次元でディアコニアが語られたのです。私たちは神の愛の光を、発光はしません。できません。私たちのうちにそれはないのです。けれども、教会に集って、主イエスのみことばを聞き、それにアーメンと答えて生きる私たちは、まがりなりにもこの光を反射させる映し鏡だったらなんとかなれるのです。

そのとき、おそらく私たちも神様に向かって尋ねるでしょう、「主よ、いつ飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」と。普段いい加減な私たちですが、たぶん私たちはまがりなりにもしているのでしょう。キリストにつながりながら。そしてこれからもまがりなりにもしていくことでしょう。ただキリストにつながることで。おこないによって、言葉によって、そして祈りによって、神の愛を反射していきましょう。

—  2011年11月20日 むさしの教会にて 聖霊降臨後最終主日 説教 浅野直樹(市ヶ谷教会牧師)– 

説教「『その日、その時』に備える」大柴譲治

マタイ福音書25:1-13

「 はじめに 」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「 10人のおとめの譬え 」

本日は10人のおとめの譬えです。備えができていた賢い5人のおとめと備えができていなかった5人の愚かなおとめの違いは明らかです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という最後の言葉がキーワードです。いつ「その日、その時」、つまり決定的な日が来てもよいように目を覚まして準備をしておく必要があると主は言われているのです。

ここで「10人のおとめ」とは「花婿たるメシア・イエスの到来を待ち望む者」のことを意味しています。花婿の到着が遅れるということは再臨が遅延していることを指していましょう。迫害の下にあった初代教会ではそれが大問題であったに違いありません。厳しい迫害の中で、信仰の炎(油)をなくしてしまった人たちは少なくなかったのでしょうか。「閉ざされた戸」とは最後の審判を指し、そこから救いへと入れられなかった者を意味します。確かに5人の賢いおとめたちだけが与ることができた「婚宴の席」とは、来るべき時代の喜びを意味していましょう。そこでは喜びの祝宴が約束されているのです。

この「油」とは何を意味するか。ルターはそれが「信仰」を意味していると言いました。またある人は、マタイ24:12に「終末時には多くの人の愛が冷える」とあることから、「愛の行い」を意味すると考えました。また、マタイ福音書が強調する「良い行い」を指していると考えた人たちもいます。しかし、「愛の行い」「良い行い」というものは最後の審判を前にして燃え尽きるのか、また、そうした行いは店で買うことができるのかというと、うまく説明することができない部分が残ります。

「目を覚ましている」とは「眠らないでいる」ということとは違うでしょう。賢いおとめたちも眠り込んでしまったのです。それは、起きている時にも寝ている時にも、常に「その日、その時」に備えて準備をしておくということでありましょう。

「 父クリストフ・ブルームハルトの馬車 」

19世紀後半から20世紀初頭のドイツに生きたクリストフ・ブルームハルトという牧師がいました。親子で同じ名前でしたので、「父ブルームハルト」と「子ブルームハルト」と呼ばれたりします。これは父親のブルームハルトについてのエピソードです。彼はいつも牧師館の庭に、まだ誰も乗ったことのない新しい馬車を用意していたそうです。今で言えば、車にガソリンを満タンにし、冬でもバッテリーが上がらないように怠りなく整備していたということになりましょうか。そして「あの馬車は何のためか」と人から尋ねられると、「主イエス・キリストが再臨される時、自分がそれに乗って直ちにそこに駆けつけて、主をお迎えするためなのです」と答えました。

私たちはこのエピソードを聞くとき、どのような思いになるでしょうか。エッと驚き、そんなバカなと吹き出してしまう部分も私たちの中にはあるかもしれません。あるいはその対極に、ハッとして、自分も自らの生き方を顧みなければならないと思う部分も私たちの中にはあるのかもしれません。ブルームハルトは、今日のような主イエスの言葉をそのまま信じて、いつ来るか分からない「その日、その時」に真剣に備えていたのです。今日は先ほど小児祝福式を行いましたが、ブルームハルトは「幼子のような信仰」に生きた人であったと言えましょう。

もちろん彼はそのように「純真な信仰」に生きようとした人でしたが、決して「単純な信仰者」ではありませんでした。彼は、神学だけでなく種々の領域に通じた知識人でした。私たちと同様に、深く懐疑的な時代精神の中に生きていた同時人でもありました。にもかかわらず、ブルームハルトはキリストの再臨に備えていつも新しい馬車を待機させていたのです。それが自分に与えられた使命であると信じたからです。ちょうど旧約聖書の創世記で、神の声を聞いたノアが大雨の降り始める前に箱舟造りを始めたのと同じです。多くの人の目にはそれがどれほど愚かに、異様に見えたことでしょう。ブルームハルトは、それらのことはみな承知していただろうと思います。愚かさを承知の上で、キリストの言葉をただ信じて、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と信じたのです。これがブルームハルトの信仰でした。

「 井上良雄先生の『神の国の証人ブルームハルト父子』 」

長くルーテル神学校で非常勤講師として教えたドイツ語の先生に井上良雄という日本基督教団の信徒がおられました。戦前は優れた評論家として活躍していたのですが、突然筆を折って評論家を辞められた方でした。そして戦後は、ただひたすら、カール・バルトという神学者の『教会教義学』を吉永正義先生と共に日本語に訳された先生です。吉永先生が「創造論」を、井上先生が「和解論」を訳されました。私もボンヘッファーやバルトの黙想などをクラスで読んでいただき、その真理への真摯な姿勢にいつも背筋を正される思いがしていたものです。その井上良雄先生が『神の国の証人ブルームハルト父子』という本を書いておられます。井上先生はカール・バルトの本を通してバルトが大きな影響を受けた人物ということでクリストフ・ブルームハルトという人の存在を知ったということでした。

特に父ブルームハルトは、パウロ同様、終末切迫を感じ取っていた牧師でした。だからこそ、主の再臨の時に直ぐ駆けつけることが出来るように自分の牧師館の庭に馬車を用意していたのです。ブルームハルトは、信仰の灯火が消えないように、その霊的エネルギーが切れないように魂に聖霊を充填することを怠らない、終末的な緊張に生きるということを日々の生活の中でとても大切にしていた人であったと申せましょう。

父ブルームハルトは「待つこと、急ぐこと」という彼の感覚をよく表す説教を書いています。「終わりの日を思う者は(しかも、その日に向かって急ぐかのように、終わりの日を身近なものとして思う者は)無気力な霊的怠惰や無関心や呑気さから守られる。われわれは急ぐ者として生きるのだ。われわれは、この世における全ての偉大なもの、生起するすべての力強いものに、無際限の価値を与えることはできない。われわれは、一切を、一層平静にまた気楽に眺める」。

そう言って、ブルームハルトは1コリント7章のパウロの言葉を引用するのです。「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(1コリント7:30-31)。

そして続けます。「その結果、われわれは、(地上のどんなに魅力的なものであっても)何事にも過度に巻き込まれることはなく、無我夢中になることがない。過度の感激や悲しみに我を忘れることはない。何事にも、過度の興奮や偶像崇拝的な態度で没頭することがない。… 心は、主が来たり給うということだけに固着する。彼が速やかに来たり給うことを渇望しつつ」。

井上先生はそれに対して次のようにコメントしています。「ブルームハルトは、この世におけるあらゆるものを暫定的なものとして見、相対化せざるを得ない。彼にとって地上の全ての現実は、やがて始まる大いなる朝の光の前に消えてゆく夜の闇に過ぎない」と。

ブルームハルトのこの終末的な姿勢は「待ちつつ急ぎつつ」という一言で表現されます。「待ちつつ急ぎつつ」? 「待ちながら急げるのか?」「急ぎながら待てるのか?」とも思います。そんな相矛盾する生き方が果たして私たちに可能なのでしょうか。油を備えて花婿の到来を待つというのは、「その日、その時」が近づくのを、終わりが近づくのを意識しながら、それに向かって自分を整えてゆくということを意味しています。

終わりは近づいている。「その日、その時」は必ず来る。そう聖書は私たちに告げているのです。私たちは教会暦の終わりを迎えようとしています。来週が聖霊降臨後の最終主日で、教会暦においては一年の終わりとなります。二週間後からはアドベント、待降節が始まり、新しい一年が開始されるのです。終わりを意識して、新しい一日を始める。身を正して主の到来を待ち望む。これが私たちに求められている生き方なのです。

「その日、その時」がいつ来るのかということは、私たちに死がいつ来るのか分からないように、私たちには分かりません。しかしその日、その時がいつ来るにしても、私たちは私たちの最後を主イエス・キリストにお任せすることが許されています。イエス・キリストにおいて準備万端に整えておくように、賢い乙女たちのように油を備えて待つように、ブルームハルトのように心の中に自分の馬車を用意して「急ぎつつ待つ」ように、私たちは日々の信仰の中に召し出されているのです。向こう側から私たちに近づいて来て下さるキリストを見上げて今を生きるよう招かれている。そのことを心に刻みつつ、近づきつつある主に向かって身を正して新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。 アーメン。

「 おわりの祝福 」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

マタイ福音書25:1-13

(2011年11月13日 聖霊降臨後第22主日礼拝説教)

説教「空しく立ち尽くした者をも」大柴譲治

イザヤ55:6-9/マタイ福音書20:1-16

「 はじめに 」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「「ブドウ園の譬え」のどこに焦点を当てるか 」

本日はイエスさまの「ブドウ園の労働者の譬え」です。これはよく知られた譬えで、1時間働いた者も12時間働いた者も等しく1デナリオン、つまり一日分の給与を主人から与えられるという話です。この譬えはこの世に生きる私たちの「常識」を、「賃金」を「費やした労働時間」や「達成した業績」から測ろうとする資本主義経済構造そのものを危機に陥れるような「危険な話」でもあります。ですから私たちは、早朝から汗水流して働いた者たちの不平を言いたくなる気持ちがよく分かります。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは!」 誰もが彼らの言葉をもっともだと思うのです。

しかし、イエスさまの譬えはいつも私たちに「あなたはどの立場からものを見ているのか」と鋭く問うてきます。「健康な者」「12時間働きづめに働くほどの強い体力を持った壮健な者たち」の立場から読むと彼らの不平不満はよく分かるのですが、もし「声無き者たち」の立場に自分を置いてみた場合に私たちはどう感じるでしょうか。

夕方5時に雇われた労働者たちも、恐らく、朝から仕事を求めてずっとあちらこちらの広場を渡り歩いていたに違いありません。しかし仕事を見出すことができなかったのです。もしかすると、彼らは体格が貧弱でいかにも力がなさそうに見えたのかもしれませんし、動作が遅かったり機転が利かなかったのかもしれません。高齢だったり身体的なハンディがあったのかもしれない。強健な者から雇われていったのです。彼らにも仕事をしたい気持ちはあっても、何らかの理由で誰にも雇ってもらえなかったのでしょう。彼らは、どうやって家に帰ろうかと思いながら、5時まで空しく広場に立ち尽くしているしかなかったのです。

6-7節に描かれた情景から彼らの思いがよく伝わってきます。「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。主人からこの言葉をもらった時、彼らはどれほど有り難かったことでしょうか。彼らにも養うべき家族があったはずです。家には家族が空腹で父親の帰りを待っているかもしれないし、老いた両親を妻が看病しているのかもしれない。その背後には様々な人生が感じられます。朝から夕方の5時まで空しく立ち尽くした人たちの気持ちを私たちは容易に想像することができるように思うのです。

「 「神」の「深い憐れみ」 」

しかしそのように声を発することなく空しく立ち尽くしていた者たちを、主人は「はらわたが痛む」ほど深く憐れに思ったに違いありません。最後に来た1時間しか働かなかった労働者たちにも同じように1デナリオン、つまり一日分の給料を与えたブドウ園の主人。最後まで力なく立ち続けていた労働者たちの苦しい思いをこの主人は深く受け止めたのです。

それを見て不公平だと不満をぶつけた朝から働いた労働者に対して主人はこう言います。「『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』(13-14節)。主人の深い憐れみの心に触れた人々たちはどれほど深く心を揺さぶられたことでしょうか。これが毎日続くと人間は次第に堕落してゆくのかもしれません。皆が5時に広場に集まるようになってしまうかもしれません。しかしこの譬えが一番言いたいことから話を逸らさないようにしたいと思います。この譬えの中心は、「ブドウ園の主人」の、「弱い立場に置かれた人々」に対する「深い共感(=憐れみ)と愛」、そして具体的な「援助」という点にあります。

これは私たちに大きな気づきとを与えるイエスさまの譬えだと思います。イエスさまの譬えはいつもそうなのですが、私たちの心の琴線に深く触れてきます。それはブドウ園の主人である神さまが私たち人間一人ひとりの存在をどれほど大切に思っているかということを表しているからです。どれほど無力で惨めであっても、働くことができなくても、病弱であっても、寝たきりであっても、年老いていても、人生に失敗ばかりしていても、あるいは人間関係に苦しみ、空しく一日中立ち尽くすほかないような状況にあったとしても、神さまは等しく私たち一人ひとりを、ご自身の深い憐れみのゆえに、その空しさの中から探し出し、見出してくださる! そのような窮境から私たちを救い出してくださり、神さまのブドウ園の中に置いてくださるのだということを私たちはこの譬えの中に読み取ることができるのだと思います。「あなたはわたしの眼に価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」というイザヤ書43:4のみ言葉を想起します。この神の愛と出会うこと、このような神の愛に捉えられていることに気づくことが最も重要なのです。

「Doing(行為)の次元ではなく、Being(存在)の次元で」

Doingの次元ではなく、Being、存在そのものの次元で、神さまは私たちを愛してくださっているのだということをイエスさまはこの譬えで私たちに教えておられるのです。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)という言葉が最後にありますが、それは一番最後になった者、最も小さき者、最も弱い者、最も貧しい者、最も苦しんでいる者に対する神さまの優先的な選びがあるという宣言です。これに対して人間は不平を言うことはできない。それは、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)と言われているように「主権者である神の自由」に属する事柄なのでしょう。ヨハネ3:16が宣言するように、「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで永遠の生命を得るため」なのです。

能力の高さや業績の量や体力の強さや知恵や知識の深さや、ましてや若さなどではなく、私たちには生命の重みという次元において等しく神さまから恵みとしての一デナリオンを与えられているということだと思われます。一デナリオンは労働者一日分の賃金であると言いました。一家族が一日生活できるお金です。「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と主の祈りでは祈りますが、かつてイスラエルの民が荒野において天からのマナ(日ごとの糧)によって生かされたように、私たちは神の恵みによって日ごとに生きる、生かされるのです。ここでの一デナリオンとは神さまの無償の恵みを表しています。それは自分の努力で獲得したものではありません。当たり前のものでもないのです。それに値する何ものかが私たちの中にあるからでもありません。それは神さまからの一方的で、絶対的に無条件の恩寵なのです。溢れる恵みなのです。それに気づく時に私たちは、神さまの恵みの光の中で一人ひとりが空しく立ち尽くしていたところから呼び出されて神のぶどう園で働く者とされていることを知るのだと思います。

それは本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書が預言していた通りです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8-9)。

独り子を賜るほどにこの世を愛してくださったお方のこの呼びかけの声を心に響かせながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してゆきたいと思います。ここにお集まりのお一人おひとりの上に神さまの恵みが豐かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

お一人おひとりの上にそのような確かなキリストの愛と平和がありますように。アーメン。

「おわりの祝福」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

イザヤ55:6-9/マタイ福音書20:1-16

(2011年10月9日 聖霊降臨後第17主日礼拝説教)

説教「耳を澄ませて」大柴譲治

イザヤ55:10-11/マタイによる福音書13:1-9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「船上の説」

イ エスさまはたとえ話の吊人でした。そのたとえは聴く者の心に残ります。本日のたとえは舟の上から岸辺に立っている群衆に向かって告げられています。「山上 の説教《ならぬ「船上の説教《ですね。そう思うとイエスさまは、ずいぶんよく通る大きな声を用いて話されたのだろうと思います。「種を蒔く人のたとえ《と なっていますが、むしろこれは内容から言えば「蒔かれた種のたとえ《です。

また、本日の日課でもう一点気がつくことは、イエスさまの「動作 《が印象に残る仕方で記されているということです。①「(おそらくシモン・ペトロの家でしょう。カファルナウムでイエスさまは主としてそこに滞在していた ようです)家を出て《、②「(ガリラヤ)湖のほとりに座っておられた《イエスさまが、大勢の群衆がそばに集まって来たので、③「舟に乗って腰を下ろされた 《とあります。恐らく舟を誰か(漁師であった12弟子のペトロかアンデレ、ゼベダイの子のヤコブかヨハネでしょうか)にこぎ出させたのでしょう。そしてそ こから④「岸辺に立っていた群衆《に「種まきのたとえ《を語り始められたのです。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。(4)蒔いている間 に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(5)ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。(6)しかし、 日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。(7)ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。(8)ところが、ほかの種は、良い 土地に落ち、実を結んで、あるものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊にもなった。(9)耳のある者は聞きなさい。《

パレスチナでは当時は種を蒔いた後にそこを耕すという習慣があったようです。「蒔かれた種《自体に違いがあるわけではありません。どの「種《にもそれぞれ成長する力が祕められているのです。それが蒔かれた「場所《が問題でした。

① 「道端に落ちた種《は鳥に食べられてしまいますし、②「石だらけで土の少ない所に落ちた種《は芽を出しても日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまいま す。③「茨の間に落ちた種《は茨が伸びてそれにふさがれてしまいます。それに対して、④「よい土地に落ちた種《は実を結んで、土地の肥沃さに応じて、ある ものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊にもなって大きな収穫をもたらしたというのです。

このたとえが何を意味しているかについては、この後の18節以降になりますが、イエスさまご自身が弟子たちに説明されていますので明らかでありましょう。そこにはこう記されています。

「だ から、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものと は、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉の ために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさい で、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊の実を結ぶのであ る。《(マタイ13:18-23)

私たち自身がどのような土地であるかがそこでは問われています。この主の言葉の前では、私たちは自分が「良い土地《ではなく、むしろ「道端《であり、「土の浅い土地《であり、「茨の生い茂る土地《でしかないということを知らされるように思います。

土井洋先生の説教題「蒔かれた種」

先 週の月曜日、説教研究会の合宿を信州の長野県原村にある塩原久先生のご自宅で開いていたときのことです。塩原先生は牧師を引退されてから2000年にペン ションのようなご自宅を建てて「キリエエレイソン《と吊付けられました。以前にシャロンの会でも泊まりにゆかれたことがあると伺いました。その塩原先生の ご自宅で説教研究をしていた最中に高蔵寺教会の土井洋先生が天に召されたという連絡が入りました。

土井先生は、渡邉純幸先生や星野徳治先生 と並んで、説教研究会の創始者のお一人でもあります。ブラジルの第三代宣教師として第二代宣教師の塩原先生の後を引き継がれた方です。長く小岩教会の牧師 でしたので、教区常議員を務められましたので、その温厚で柔和なお顔をご存じの方も少なくないと思います。北海道の池田のご出身で、ギターを弾き語りしな がらベサメムーチョを歌うのが得意な先生でもありました。どこに行かれても場を和ませる宴会部長でもあったのです。私にとってはユーモアの師匠でもありま した。

来年の3月には定年退職を迎えることになっていて、お嬢様の住んでおられる青梅あたりに居を移されることを楽しみにされておられました。

2 月の10日に肝臓にかなり進行した癌が見つかり、闘病生活が始まりました。ひと言も弱音を吐かずに治療を受けられたと伺いました。治療が功を奏して春頃に はかなり劇的な寛解状態もあったのですが、6月に入ってから再度しばらくご入院をされたそうです。原仁兄が6月末に幼稚園(こひつじ園)の講演会にも行か れたときにもご入院中でした。入院先から毎週日曜日に説教壇に立たれたそうです。退院後、7月17日の礼拝説教をして、7月18日(月)の教会の信徒修養 会で説教された次の日にご入院されました。奇しくも7月18日は土井先生の70歳のお誕生日だったということです。そして25日(月)の午後3時50分、 ご家族の見守る中で安らかに主の身許へと帰って行かれたのです。

そのお写真と棺に安らぐ先生のお顔は平安に満ちておられました。27日 (水)、28日(木)と愛知県の高蔵寺教会で鐘ケ江昭洋先生によってご葬儀が行われました。それは「告別式《とは呼ばず、「前夜記念礼拝《と「召天記念礼 拝《と呼ばれる礼拝でした。東海教区東教区から牧師たちが両方の礼拝を現職と引退で合わせて40人近くは集まったでしょうか。大勢の方が集まられたことの 中に土井先生の柔和なお人柄がよく表われていたと思います。前夜記念礼拝の前には保育園の園児たちが保護者と140人ほどが集まってお別れの時をもったと いうことでした。

鐘ケ江先生の説教の中にあったエピソードですが、土井先生には熱血漢なところがあって、1970年の学生紛争たけなわの 頃、東京神学大学に入ろうとして機動隊が間違って隣りにあるルーテル神学大学に入ってきたことがあったそうです。装甲車がバリケードを破って入って来るの を見て、土井先生はやおら装甲車の前に走っていってその前面を蹴飛ばしたことがあったそうです。そして追いかけてくる機動隊員を尻目に走って逃げたのだそ うです。後になって機動隊からは東神大と間違って入ってしまい申し訳ありませんでしたという謝罪の言葉が届いたと言うことでした。

高蔵寺教会の前の看板には本日の7月31日の説教題が出ていました。そこには「蒔かれた種 土井洋牧師《と書かれていました。ヨハネ12:24には主の有吊な言葉が記されています。文語訳で引用します。

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」。

イ エスさまご自身が十字架の上で一粒の麦として死んでくださったことを指し示す言葉です。青田先生がJELCを代表してご挨拶に立たれ、その中で「ブラジル の地では夜に南十字星が輝きますが、よみがえられたキリストと共に、土井洋先生もその星のように光り輝いておられるのだと思います《と結ばれた言葉は聴く 者の心に響きました。豊かな大地に蒔かれた福音の種は豊かな実を結ぶことを約束されているのです。

お嬢様は鐘ケ江先生の息子さんと8年前にご結婚されたのですが、上思議なことにちょうど先生のご病気が分かったころに新しい生命を授かったということでした。上思議なかたちでいのちは受け継がれて行くのですね。

私たちを造り変えてくださるキリストの愛

し かし私たちはこのたとえをもう一つ深く見て行かなければなりません。これは終末的な神の国の到来を前提として語られたたとえでした。終わりの日を迎えたと きに私たち自身の存在が豊かな実りをもたらすものとして、祝福に与るものとして用いられて行くことを意味しているのだと思います。

私たちは 自分自身を省みるときには自分が「豊かな土地《ではなく、「道端《であったり「石地《であったり、「茨の生えている場所《であるということを知っていま す。福音の種がなかなか深く根付かないでいる自分自身のありようを自覚しているのだと思います。そのような私たちの頑なな心を耕して百倊、六十倊、三十倊 の実りをもたらす肥沃な土地にするために主イエス・キリストはこの地上に来てくださったのです。

ルカ福音書13:6-9には「実のならないいちじくのたとえ《が記されています。

「あ る人がぶどう園にイチジクの木を椊えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このイチジクの木に実を探しに 来ているのに、見つけた試しがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様。今年もこのままにしておいてくださ い。木の回りを掘って、肥やしをやってみましょう。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもダメなら、切り倒してください。』《

こ のように執り成し、一生懸命実を実らせるために働く園丁こそ、私たちのために十字架に架かってくださった主イエス・キリストなのです。道端や石地や茨の地 を豊かな肥沃な土地へと変えてくださるのは、カナの婚礼で水を上等のワインに変えてくださったお方の愛なのです。別の見方をすれば、私たちの中に蒔かれた 福音の種が豊かな実を結ぶように主イエスは関わり続けてくださるのです。ワインが大好きでもあられた土井洋先生の柔和で極上の笑顔とユーモアはそのような 復活の主の愛を表わしていたのだと思います。キリストの愛が私たちをトランスフォームしてくださるのです。

牧師として葬儀に関わらせていただく中で感じることは、私たちはキリストを信じる信仰によってそのような祝福された終わりが訳されているということです。

「エッファッタ!《「シェマー・イスラエル!」

主は本日のたとえの一番最後のところでこう言われています。「耳のある者は聞きなさい《(9節)。「耳のある者は聴きなさい《とは「心の耳を開いてこのたとえの意味を悟りなさい《ということでしょう。主の声が私たちの心の耳を開くのです。

「エッファッタ!《と言って耳が聞こえず舌の回らない人の耳を開かれたように(マルコ7:34)、主が私たちの閉ざされていた耳を神のみ声を聴くことができるように開いてくださるのです。

「シェマーイスラエル(聴け、イスラエル)!《です。「聴け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい《とある通りです(申命記6:4)。

私たちがこのように礼拝に集い、み言葉に耳を傾けるのも、主が私たちの心の耳を開いてくださるためであるということを覚えたいと思います。この新しい一週間も、お一人おひとりの歩みが、耳を澄ませて、主のみ声に聴き従う者でありますようお祈りいたします。

最後に本日の旧約聖書の日課をもう一度お読みして終わりにします。

雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、
芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとにも戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。
(イザヤ書55:10-11)

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年7月31日 聖霊降臨後第七主日礼拝説教)

説教「飼い主のない羊へのケア」大柴譲治

マタイによる福音書9:35-10:15

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

主の「深い憐れみ」

本 日の福音書の日課には主イエスが精力的に活動する様子が述べられています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあ らゆる病気や患いをいやされた《(35節)。それはどのような思いからなされたのか。36節には「深い憐れみからなされた《と記されています。「また、群 衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた《。この主の「深い憐れみ《が本日のキーワードです。

先 週も少し触れましたが、この「深い憐れみ《という言葉はギリシャ語で「スプラングニゾマイ《という語ですが、日本語の「同情《とか「憐憫《とかいった静的 なものではなく、もっとダイナミックな動きを伴うものです。それは「内蔵(はらわた)を表す語から来ていて、はらわたのよじれるほどの強い痛みを伴うもの なのです。日本語には「断腸の思い《という表現がありますがそれと同じです。

「飼う者のいない羊のような群衆の困窮《「弱り果て、打ちひし がれている《痛み苦しみを、主イエスはご自身の存在の中心(はらわた)で、それがよじれるほどの鋭い痛みをもって受け止められたということです。羊には自 分を守り、緑の牧場、憩いの水際に導く羊飼いが必要です。そのような「弱り果て、うちひしがれている人々《を真の牧者である主は、その深い憐れみのゆえに 放ってはおけなかったのです。

「胃がビクビク動くんだよね」

私はこの「スプラングニゾマイ《という言葉に関して忘れ ることができないエピソードがあります。それは1985年の9月、私が神学生の最終学年で築地の聖路加記念国際病院で3週間の臨床牧会教育 (Clinical Pastoral Education、以下はCPEと略)を受けていたときのことです。

それは病床訪問をして会話記 録を起こし、ピア(仲間)メンバーグループで検討するという とてもハードな実習でした。病院というところは病気で苦しむ人たちが入院している場所です。特に聖路加病院は癌や小児白血病の治療のために全国から難病患 者が集まってくる病院でしたから、神学生にとっては突然何も持たずに現実の修羅場に投げ込まれるような緊張感を伴う実習でした。何をすればよいのか、どこ から手をつけてよいのか、自分の無力さを強く感じながらも、オロオロ右往左往したり、緊急事態に走り回る看護婦さんやお医者さんたちの間で呆然と立ち尽く していたこと等を今でも鮮やかに思い起こします。しかし上思議なものですね。そのような私がその最初のCPEで自分自身に大きな課題を与えられて、それに こだわり続けたからこそ今の自分がいるわけですから。

困難であったのは病床訪問だけではありません。患者さんとの会話記録を書いたものをグ ループの中で検討してゆくときに、そこに私自身の姿が映し出されてゆくのです。なぜ相手の気持ちをキチンと受け止められないのか、なぜそこから逃げようと しているのか、なぜ相手をコントロールしようとしたり、相手に自分を押し付けようとするのか、等々、会話記録をチェックしてゆくとその背後にある自分自身 の思いが鏡に映し出されるように明らかにされてゆきます。それは驚きの体験であり、打ち砕かれるような体験でもありました。私はそれまでにいのちの電話の 傾聴訓練を一年三ヶ月受けていましたし、既にカナダ・ラングレイでの一年間のインターンと熊本・神水教会での七ヶ月のインターンも終了していましたので、 ある程度自分は他者とのコミュニケーションができていると思っていたのです。それゆえに尚更、それが十分にできていない自分の姿を示されたことはショック でもありました。

その時のCPEスーパーヴァイザーは、聖公会の司祭であり、聖路加国際病院のチャプレンでもあった井原泰男先生でした。私 自身はその時、スーパーヴァイザーに対して複雑でアンビバレントな思いを持ちましたが、結局その最初のCPEで示された自己の課題と格闘し続けてきたよう に思います。その意味で聖路加病院での体験は忘れることができないものでした。

私にとって最も印象的だったことの一つは、井原先生が雑談の 中で言われた言葉でした。「僕はね、患者さんと話していて大切なところに来ると、なぜか胃がビクビク動くんだよね。《「本当かなあ《と思うと同時に実際に そのような聴き方があるのかと驚かされました。その時初めて「そうか、はらわたがよじれるような聴き方とはこのようなことを言うのか《何かストンと腑に落 ちたような気がしたのです。頭ではなくはらわたで聴くということ。本日の福音書の中のイエスさまが「飼い主のいない羊のような群衆を見て深くあわれまれた 《という表現がそこでストンと紊得できたのでした。井原先生の「胃がビクビク動く《という表現はそれと同じと思いました。イエスさまはさぞかし胃が痛んだ のではないかと思います。

人が実際に他者に対してそのように深く共感的な聴き方、関わり方が可能なのだ ということは私にとっては一つの天啓でもありました。そして「そのようになりたいけれど本当にそうなることができるのか《という思いを持って今まで25年 歩んできたのでした。最近になってようやく「はらわたで聴く《ということが少しずつ分かってきたような思いがしています。胃がビクビクと動くというところ まではまだないのですが、はらわたにズンと響くような思いで他者の声に耳を傾けることが、時折ですが、あるように思います。

そのような「深 い憐れみ《をもって主イエス・キリストは「弱り果て、打ちひしがれている者たち《の思いを受け止めてくださるのです。あのステンドグラスに描かれているよ うに、私たちはそのように深い憐れみと愛をもって私たちと関わってくださる羊飼いと出会うことができたのです。

12弟子の選出と派遣

飼 う者のない羊のような群衆を見て深く憐れまれたイエスさまが次になにをされたかというと、12弟子の選出と派遣でした。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だ から、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい《(37-38節)と弟子たちに言われた後に、主は「十二人の弟子を呼び寄せ、汚 れた霊に対する権能をお授けになった《とあります。それは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため《でありました(10:1)。私たちがキ リスト者として召し出されているのは、主の憐れみの御業に参与するためなのです。私たちも胃がビクビクするような深い憐れみをもってこの世に関わるよう召 し出されているのです。本日の旧約 聖書の日課・出エジプト記19章には、神がイスラエルを「宝《「祭司の王国《「聖なる国民《とすると言われていますが、深い憐れみを通してアブラハムが諸 国民のための「祝福の基/源《として選ばれたことも、このような憐れみの御業をこの世において示すためでした。

私たちが果たして「汚れた霊 に対する権能《を授けられていて「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす《ことができるだろうかと思うと、どうもそこまではできないとようにも 思いますが、それは人の思いでありましょう。主が深い憐れみから癒しの御業や奇跡を行われたことを 覚えるとき、私たちも具体的な生活の中でそのような主の上思議な御業に参与することになるのだと思います。そもそもこの有限な生命を生きている私たちが、 キリストを信じる信仰を与えられて、永遠の生命に与ることができていること自身が奇跡なのだと思います。キリストが私たちを汚れた霊を追い出し、あらゆる 病気や患いを癒すために立てているのだとすれば、そのように私たちは用いられてゆくのだろうと思います。現実には悲しみばかりなのですが・・・。

昨 日東京池袋教会で開かれた宣教フォーラムで当教会員のN・Tさんがパネラーのお一人として発題をしてくださいました。主題は「主よ、憐れんでください《と いうもので、神学校の江藤直純先生が主題講演者でした。Nさんはご主人が病気になられてからの五年間のことをお話し下さいました。ご主人のN・Aさんは、 ある日突然に大動脈瘤乖離という難病で倒れたのです。奥さまを中心とするご家族の献身的な看護を得る中、筆舌に尽くしがたい困難な時を経て、奥さまの祈り に答えるようなかたちでご主人は洗礼に導かれ、何度も山場を乗り越えて、五年間、家族との深い交わりの中に置かれました。そして下のお嬢様が結婚、そこに 与えられた孫娘の顏を見て、またご自身の100歳のお母様が亡くなられたことを知って三日後に、実に安らかな笑顔の中でこの地上でのご生涯を終えて天へと 召されてゆかれたのです。そこには確かに生きて働いておられるキリストの祈りがあったと仲吉さんはお話しくださいました。

飼い主のない羊 のような群衆を見て深く憐れまれたイエスさまは、あのステンドグラスに描かれているように羊飼いとしての深い憐れみと愛とをもってそのような羊に関わって 下さるお方なのです。遠くにある羊とは思わず、自分の近くにいる、自分と深い関わりを持つ羊であると見なして下さるのです。マザーテレサは言いました。 「愛の反対は憎しみではない。無関心だ《と。無関心、無関係、無感動こそが愛の対極にあるのです。主が病いや貧しさや愛する者との別離の中に置かれている 苦しみ痛む者たちに深い憐れみを持って下さるということは、その隣人となってくださると言うことです。主こそが深い憐れみによって強盗に襲われて倒れてい た旅人に近つ?いて真の隣人となった「よきサマリア人《なのです。

振り返ってみれば、私は牧師として25年間、家族の絆、愛の関わりの中 で、少なからぬ奇跡を見ることが許されたように思います。無数の人間が存在するこの地上で、私たちの出会いは、特に家族としての出会いは奇跡であると感じ ます。無関心というものが蔓延しているこの世の只中で、私たちが主の深い憐れみの中で互いに「神の宝の民《として出会うことが許されているということ、互 いにはらわたが痛むほどの深い共鳴関係の中に出会わされているということは、これは実に上思議な「神の恩寵の事実《であると言わなければならないと思いま す。そこには確かに復活の主が生きておられ、「飼うもののいない羊のように、弱り果て、うちひしがれ《ている者たちに深い憐れみを持って働きかけてくだ さっているのです。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしの身体《「これはあな たの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約《。こう言って私たちにパンとブドウ酒を差し出してくださる主イエス・キリスト。これこそ私たちを 招くわたしたちの羊飼いである主の胃がビクビク動くような深い憐れみの御業です。この憐れみの御業、復活の主の牧会の御業に参与するよう私たちは召し出さ れています。私たちも主の手足としてこの世に派遣されているのです。主は私たちを通してその憐れみの御業を行い続けておられます。そのことを覚え、そのこ とを深く味わいながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に主のみ力が豊かに注がれますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年7月3日 聖霊降臨後第三主日聖餐礼拝説教)

説教「『神の愚かさ』に生かされて」 伊藤節彦神学生

マタイによる福音書28:16-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

【起】

旧 約聖書には多くの預言者が登場致しますが、それぞれに特徴のあるメッセージを語りました。「義なる神」を説くアモスやミカ、「愛の神」を指し示すホセア、 そして「神は聖」なるお方であると語ったのがイザヤでありました。旧約の日課でお読み頂いた箇所では、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」とあり、正にそ のことを示しております。この神の聖、聖さとは、対峙する者に畏怖の思いと自分の汚れを呼び覚まします。罪人に過ぎない自分が聖なる神の前にただ一人立つ 時、畏れが生じます。御前に立ち得ない罪を知るのです。それ故にイザヤは「災いだ、わたしは滅ぼされる」と畏れたのであります。

今日は三位一体主日であります。教会暦ではイエス様のご生涯を振り返るアドベントから昇天主日までの半年と、ペンテコステから始まる聖霊の働きである教会の半年に大きく分けられます。その丁度変わり目に三位一体主日が置かれているのです。

三 位一体という教理はキリスト教の要であり、正統と異端を区別する試金石であります。しかし、何十年信仰生活をしていても、たとえ神学を学んでさえも、三位 一体を口で説明するのはとても難しいのではないでしょうか。それもそのはずで三位一体は合理的説明を超えた体験的真理であるからなのです。ですから、説明 は出来なくても信仰生活の中で、実感として皆様も受け容れていらっしゃると思うのです。

ルターは小教理問答書の中で使徒信条を3つに分け て、父なる神の働きを創造、子なるキリストの働きを救い、そして聖霊の働きを聖化・きよめであると説明しました。ですからルターは使徒信条を要約して「私 は、私を造りたまいし父なる神を信じる。私は、私を贖いたまいし子なる神を信じる。私は、私を聖化したもう聖霊を信じる」と語り、ひとりの神とひとつの信 仰、けれども三つの位格であることが大切であることを示しました。

先週行われたペンテコステの祝会で八木久美さん達がゴスペルマイムを披露して下さいました。3名の方が異なる動きを示しながら一つのメッセージを表現しているその姿は、三位一体の神様の本質をよく表しているように私には思えました。

【承】

しかし、私達はやはり三位一体といっても、父と子については分かるような気がしますが、聖霊についてはよく分からないのではないでしょうか。

聖霊の働きを考える時に私が思い起こす、一つの短いけれどもとても深い詩があります。皆様もよくご存じの星野富弘さんの「美しく咲く」という詩です。

お読み致します。

美しく咲く
花の根本にも
みみずがいる
泥を喰って
泥を吐き出し
一生土を耕している
みみずがいる
きっといる

聖霊をみみずと一緒にするなんて、不謹慎極まりない気もするのですが、この詩を読んだ時に、ああ、そうなのかあ、という深い共感が与えられたのです。

星 野さんは土を掘り返してミミズを実際に見てこの詩を書いた訳ではありません。美しく咲いている花を見て、みみずがいる、きっといる、そう感じたのです。み みずは暗い土の中で、誰にも顧みられずに、かたい泥を食べてはそれを柔らかにし、有機的な土として吐き出します。ですからミミズのいる畑や花壇には良い土 が生まれ、そこでは豊かな実やきれいな花をつけることが出来るようになるのです。星野さんの感受性の鋭さは、目に見える花の美しさの中に、目に見えない土 の中に、みみずがいることを感じられるところにあります。

同じように、私達人間の心の暗闇の奥底で、聖霊が私達の頑なな心を少しずつ、しかし確実に打ち砕かれた魂へと変えて下さる。み言葉の種がそこで成長できるように、豊かなものへと造りかえて下さっていると思うのです。このことは私自身の実感として迫ってきます。

以 前に「むさしの便り」に書きましたように、私は18歳の時に一度、改革派の神学校に進む決意をしました。その当時の私の召命感は、自分は献身に相応しい者 だという自負心によるものでした。幼い頃に生死をさ迷う病気を患い、奇跡的に命をつなぐことが許された私は、自分は神様のご用のために生かされているのだ という思いで満たされていたのです。しかし、私の母教会の長老会は、そのような私の性急さや自負心に、ある種の傲慢さのようなものを感じたのでしょう。学 業を続け、更に社会経験を積んだ後でも遅くないという判断をしたのでした。当時の私は、なぜ献身したいという若者の心を鈍らせるのかと、その判断に不満を 抱いていました。

丁度同じ頃、私には寮生活を共にし、クラブも一緒だったある親友がいました。彼とは聖書についてもよく議論し、明け方まで 話し込んだことも何度もありました。彼は真剣にキリスト教の信仰を求めていました。私も彼に何とか、自分が信じている信仰を伝えようとしましたが、理性的 な信仰理解にこだわる彼には、その決断がつかないままにお互い卒業を迎えることとなり、連絡が途切れてしまいました。その彼が卒業後、数ヶ月して自ら命を 絶ったのです。遺書も残されておらず、彼が死を選んだその理由は未だに分かりません。ですから友人達だけでなくご遺族に至っては、悲しみと未解決なまま残 された罪責感の二重の苦しみを負うことになりました。私自身この出来事を通じて、自分は一体彼の側にいながら、彼の心をどれだけ理解していたのだろう。親 友の一人にも福音を伝えきれなかった自分が、献身するということはおこがましすぎる、自分はそのような器ではないのだ、そのように自分を責め、自分自身を 裁いてきたのです。そのことがあってから、もう一度自分自身の信仰を見つめ直したいという思いが強くなり、母教会を離れ色々な教会を訪ねる中で、ルーテル 教会との出会いが与えられたのでした。ルターの語る「義人にして同時に罪人」は、50%義人で50%がまだ罪人であると言うことではなく、100%義人に して100%同時に罪人であるという一見矛盾と思われる真理の中に、救いとは全く神様の業であるという恵みが語られているのです。その恵みを私はルーテル 教会で知ることが出来たのでした。

【転】

さて、マタイ福音書の28章は大宣教命令で知られている箇所であります。 19節の「あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい」という言葉は大きな力で、この二千年間、福音宣教を推し進める原動力となってきました。日本 に宣教に来たフランシスコ・ザビエルもその一人だったのです。しかし、マタイはこの大宣教命令を自らの福音書を閉じるために華々しく飾りませんでした。こ の主イエスの命令の光と共に、弟子達の不信仰の闇をも描いているのです。

マタイは16節の出だしを「さて、十一人の弟子達は」と書き始めま す。弟子達が登場するのは久しぶりのことなのです。そう、あのゲッセマネでの主イエスの捕縛以後、弟子達はちりぢりに逃げてしまっていたからです。そして この長かった数日の間に、ユダは自殺し、ペトロが裏切り、弟子達は逃げ去り、主イエスは十字架に架かって死んでしまわれたのです。ですから、この十一人の 弟子達という表現には、実に言いがたい敗北感が漂っているように思えます。しかし、マタイはそのような十一人をただの挫折者として、この場に再び登場させ たのではないのです。10節には復活の主イエスが女性達に現れてこう告げるのです。「恐れることはない。行って、私の兄弟達にガリラヤへ行くように言いな さい。そこで私に会うことになる。」

ここで主イエスは弟子達を私の兄弟と呼ばれるのです。この言葉の中に、既に弟子達の裏切りや不信仰に対 する赦しが与えられていることが分かります。しかし、尚も17節には弟子達は「イエスに会い、ひれ伏した、しかし疑う者もいた」とあるのです。この疑うと いう言葉は、信じたい気持ちと信じられないでいる気持ちの狭間で揺れ動き心が二つに裂かれる状態を表しています。同じ言葉はもう一箇所、マタイ14章で用 いられています。あのペトロが水の上を歩いて途中で溺れそうになる場面です。強い風に恐くなって主イエスのみ言葉への信頼を失いかけた、あのペトロの迷い が、今ここで弟子達を襲っているのです。しかし、溺れそうになったペトロに、主イエスが自ら近寄り手を差し伸べて下さったように、今ここでも、主イエスが 自ら弟子達に近寄ってこられてみ言葉を語られるのです。

18節で主イエスは、弟子達に近寄って来て言われます。「わたしは天と地の一切の権 能を授かっている」。ここで権能と訳されている言葉は、主イエスが宣教を始められた最初にサタンから受けた三つの誘惑の一つに出て来る、「もしひれ伏して 拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」(ルカ4:6)、ここで使われている権力という言葉と同じものです。主イエスのご生涯はこのサタンの 誘惑との闘いの連続であったといえましょう。王のような権力があれば、福音宣教はたやすく行うことができたでしょうし、貧しい者や病気の者を多く助けるこ とができたことでしょう。そして弟子達を始めイスラエルの人々はそのようなメシアを待ち望んでいたのでした。しかし、主イエスはこの権力・権能をサタンか らではなく、父なる神から十字架という神の御旨に従うことで与えられたのです。

中国の諺に「嚢中の錐」というのがございます。嚢とは袋のこ とですから、袋の中に穂先が鋭い錐を入れておけば、袋を破ってしまいます。そのことから、才能のある者はたちまち外に現れてくるという意味の諺です。しか し、この言葉を北森嘉蔵先生は神様と私達の関係になぞらえて次のように語るのです。人間を愛したもう神様は手まりを包む袋のように私達を包もうとして下さ る。しかし錐のように、触れるものを傷つける罪を持っている私達はその袋を突き破ってしまう。そこに破れが、傷が、そして痛みが生まれる。これこそが十字 架なのである。そう語るのです。

三位一体の神様とはこのようなお方なのです。父なる神は、私達を創造したまま放っておかれない。命を与えて 下さったお方は、その命をこよなく愛され、滅びることをお許しにならないのです。だからこそ御子が十字架を担われたのです。聖霊が私達の心を打ち砕き、き よめ、命の道へと導いて下さるのです。

【結】

パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、 私達救われる者には神の力です」(Ⅰコリ1:18)と語り、更に「神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Ⅰコリ 1:21)とさえ語るのです。十字架は躓きであり最も愚かなものの象徴であります。この愚かさを神の子キリストが生きて下さったのです。それは他でもない 自分を裏切ったペトロを始めとする弟子達のためであります。そしてその中には、陰府にまで下られた主イエスはユダにまでその福音を伝えて来たと思うのであ ります。ですからマタイが十一人と書いたその理由は、脱落者を暗示する敗北感からではなく、そこにいないもう一人の弟子さえ含めて私の兄弟と呼びたもう主 イエスの愛を伝えんがためだったと思うのです。そのような主イエスだからこそ、十二人目の弟子として、兄弟として、皆様方を、そしてこのような私をも召し 出して下さったのです。最初の献身を志した18から神学校に入学した44歳までの26年間、聖霊なる神は私の傲慢さで堅くなった魂の泥を食べ続けて下さ り、改めてその召しだしの御声に聴き従う、打ち砕かれた心をお与え下さったのです。また親友に福音を伝えられなかったと自分を責める私に、救いは主イエス 御自身がもたらして下さるものであることが改めて示されたのです。

弟子達はガリラヤへ帰ることで主イエスとの再会を果たしました。弟子達に とってガリラヤとは自分たちの故郷であり生活の場でありました。しかしそれ以上に、主イエスとの出会いの場、召命の場であったのです。復活の主イエスが、 ガリラヤへ彼らを招いたのは感傷に浸るためではなく、その原点へと弟子達を立たせるためであったのです。私達にとってのガリラヤとはどこでありましょう か? それは洗礼の恵みであります。私達は、洗礼によってキリストと共に十字架に死に、そしてキリストの復活に与るものとして新しい命が与えられたので す。私達は一人一人このことの証人なのであります。

私達は弟子達と同じようにひれ伏しながらも疑う者であり続けることでしょう。しかし、そのような私をご自分の者として下さった洗礼の恵みの許で、主イエス御自身が再び近寄って来て下さるのです。

イ ザヤを召し出した聖なる神は、「誰を遣わすべきか、誰が我々に代わっていくだろうか」と語られます。その権威と権能において天と地の全てを治められる全能 の神様、何でもご自身でお出来になる方が、その働きを汚れた唇の者であるイザヤに託すのであります。ここに神様の不思議があります。宣教という愚かさを もって、その恵みを伝えようとされる神様の深い憐れみがあるのです。パウロはこのような神様の愛を、「神の愚かさ」と語りました。その神の愚かさに私達は 生かされているのです。愚かと言われるほどの神様の憐れみに与った私達は、その恵みの喜びを伝える者とされていくのであります。破れたまま、未解決なもの を抱えたままのこの私を、神様がイザヤを立てたように、聖霊を注いで立てて下さるのです。

「あなた方は行って、すべての民を私の弟子としなさい」

この大宣教命令は、私達の破れをも包みたもう神の恵み、この恵みを一人でも多くの私達の隣人に伝えなさいという主の命令であります。そしてこのみ言葉には、主イエスが世の終わりまで「インマヌエル いつもあなた方と共にいる」という確かな約束が与えられているのです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年6月19日 三位一体主日礼拝説教)

説教「偽物の見分け方~本物と出会う」 大柴譲治

申命記11:18-28、マタイによる福音書7:15-29

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「山上の説教」の終末論的結語

本日はマタイ5章から始まる「山上の説教」の最終部分、まとめの部分が福音書の日課として与えられています。マタイ福音書は主イエスを「新しいモーセ」と位置づけています。モーセがシナイ山において神から十戒(律法)を与えられたように、新しいモーセである主イエスは山上から新しい戒め(律法)を与えておられるのです。

イエスを信じる者がこの新しい神の戒めを守って生きること、これが本日の主題です。そこではただ「聞いて知るだけ」でなく「聞いて行うこと」が求められています。そのことは本日の日課の一番最後にある「家と土台」についてのたとえからも明らかです(24-27節)。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

ここで「岩を土台とする者」とされているのは「主の山上の説教を聞いて行う者」ということです。そこでは「聞くことと行うこと」は一つです。それに対して「砂を土台とする者」とは「聞くだけで行わない者」ということです。

当時のユダヤ教では、律法の最後は祝福と呪いの提示で終わるという習慣がありました。本日の旧約の日課である申命記11章はそのあたりを私たちに示しています。もう一度26-28節をお読みしておきます。

「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」。

このように神の御言葉は私たちの目の前に祝福と呪いの両方を置くのです。もちろん、私たちは祝福の方を選ばなければなりません。家と土台のたとえは主イエスが語る新しい十戒(律法)としてそれを聞く者に決断を迫ってきます。この「岩を土台とした家」と「砂の上に建てられた家」とは外見的には変わりないものであったことでしょう。もしかすると砂の上に建てられた家の方が立派に見えたかもしれません。しかし、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」と両者にははっきりと違いが出てきます。土台の違いが明らかになるのです。岩の上に建てられた家はしっかりと立ち続けるのに対して、砂の上の家はひどい倒れ方で倒れてしまうというのです。ここでは恐らく「終わりの日の最後の審判」が意識されていましょう。問題なのは外からは見えない土台です。私たちが岩の上に自らの人生を建てているか、砂の上に建てているかは、終わりの日の嵐の中でやがて明らかになるというのです。

この礼拝堂はノアの箱舟をかたどって建てられているのですが、創世記6-9章に記されているノアの大洪水を想起します。そこでは嵐と大水がすべてを飲み込んでしまったのです。人生にはそのような大洪水のような嵐が確かにあり、そのような無常な出来事が確かに起こるのです。オーストラリアの洪水や先週起こったニュージーランドの地震を想起します。19歳の若い命が突然失われるということは痛恨の極みです。被災者とご家族のために心から慰めを祈りたいと思います。

私たちには、嵐の中でもしっかりと立ち続けるために、天地万物は揺らいでも決して揺らぐことのない神の御言葉、キリストの岩という土台の上に人生を築いてゆくこと。これが求められています。

山上の説教を聞いて行うということは「神の御心を生きる」ということです。それは同時に「ただ神のみを神とする」ということであり、「神以外の何ものをも神としない」ということでありましょう。それは、本日の福音書の日課のすぐ前にあるように「狭き門から入る」ということです。滅びに至る門は広いですが、真実のいのちに通じる門は狭いのです(7:13-14)。

「偽預言者を警戒せよ」

日課に戻りましょう。イエスさまの言葉はいつも私たちをドキッとさせます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」(15節)。私たちの多くは、この言葉を通して、自分自身の中にある貪欲さ、自己中心性がイエスさまによって見抜かれているように感じるのではないでしょうか。私自身が「羊の皮を身にまとった貪欲な狼」ではないかという自覚があるために、ドキッとするのだと思います。イエスさまの言葉は私たちの罪人としての姿を映し出す「鏡」のようなものなのです。人ごとではありません。

「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(16-20節)。

私たちは「実」によって良い木であるか悪い木であるかを見分けられるというのです。そして良い実を結ばない者は皆、切り倒されて地獄の火の中に投げ込まれるというのです。それほど「良い実」を実らせることは重要であり、決定的なことだと主は言うのです。

続いて「あなたたちのことは知らない」と語られる主の言葉は、決定的な「ダメ押し」です。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(21-23節)。

主の言葉を聞くと私たちは「私は天の父の御心を行っているだろうか。果たして私は天国に入ることができるだろうか」と思い悩むのです。私たちの多くは自分の力で天国に入ることはできないのでありましょう。イエスさまに「あなたたちのことは知らない」と言われたらと思うと絶望的な気持ちになります。

山上の説教における主イエスの御言葉を聞くとき、私たちは自分が罪人の一人でしかないことをとことん知らされて行きます。私たちの中にある思い上がりは徹底的に打ち砕かれるのです。自分は天の国に相応しい者ではないということを自覚させられます。祝福と呪いの両方を提示され、祝福を選ぼうとしても私たちには呪いしか選べないのです。祝福を選んだと思っても、それは呪いでしかないのです。何と惨めな存在なのでしょう。誰がこの死の身体から救い出してくれるのでしょうか(ローマ7:24を参照)。実はそのことの認識が私たちには必要なのです。

ルカ福音書の18章では、イエスさまがファリサイ人と徴税人の二人が祈るために神殿に登ったというたとえを語っています(18:9-14)。

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

神は「打ち砕かれた魂」を喜ばれるのです(詩篇51:19)。

偽物の見分け方~本物と出会う

私たちは偽預言者を見分けることが実に難しいということを知っています。私たちはその実で木を知ることも難しいのです。私たちは見る目がありませんから、簡単に偽物にだまされてしまう。しかし主ご自身はそれを見抜かれるのです。私たち人間の中にある偽善性というものを鋭く見抜いておられるのです。その主の私たちのありのままの姿を見つめられるまなざしを思います。その罪を背負って主は十字架へとかかられたのです。

天の父の御心を行って天の国に入ることができたのは主イエス・キリストお一人でした。いや、もう一人います。十字架の上で主から「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた罪人がいました(ルカ23:43)。彼は十字架の上で、この地上での生の最後の瞬間に本物の救い主と出会ったのです。彼は呪いの中で祝福を選ぶことができた、否、祝福に選ばれたのです。主イエスの言葉はどれほど大きな慰めと希望を彼に与えたことでしょうか。私たちはこのような罪人の一人として主のあわれみに寄りすがるのです。そして私たちもまた「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と主に向かって祈る者とされたいと思います。

お一人おひとりの上に主の守りと導きが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年2月27日 顕現節第九主日礼拝説教)

説教 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」 ミカ・ラトヴァラスク宣教師

マタイによる福音書6:24-34

挨拶

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

序文

本日の福音書は私たちに財産や思い悩むことや人生の意味について教えます。イエス様は鳥や花を例として使います。今回の福音書の言葉は全部イエス様ご自身の言葉です。それは有名な山上の説教の部分です。この部分はルカによる福音書にも見つけることができます。この聖書の言葉は、2000年たった今でも重要性を失っていません。今日このむさしの教会においてイエス様は私たちに教えてくれます。

マモン

皆さんの財産は多いですか?少ないですか?

聖書の中でイエス様はお金や財産のことをよく話します。お金や財産はイエス様が話されるテーマの中で最も多いものの一つです。財産は、最大の偶像でしょう。最も危険なお金の使い方は、心をお金に結びつけることです。お金がいっぱいあるか少ないかということに心を結びつけることです。一番良いお金の使い方は神様が教えたように使うことです。それは他の人々の益となるように使うことです。そうすればお金は私たちを支配しません。私たちがお金を支配します。

イエス様は富を得ることを否定しませんが、富を集めることよりもはるかに素晴らしい道を教えます。つまり、神を求め、仕えることです。ルターの教えから、少し引用したいと思います。“お金と財産をもっている時に、自分では神とあらゆるものとを豊富に持っていると考え、これに信頼する人が多くいる。みよ、このような人は、富という名の神、すなわちお金と財産をもっている。彼はそれに心から信頼している。それこそは、地上で最も一般的な偶像である。お金と財産をもつ者は、安心感を持つ。反対に何も持たない者は、神につて何も知らない者のように疑いを抱き、絶望に陥ってしまう。富をもたなくても、嘆かず、不平を言わず、いつも心確かなる者は殆どない。人間の本性は墓場に至るまでこのようなものである”。このようにルターは書いています。これは、実に真実を言い当てているとおもいます。ルターは、富のほかの、信頼の対象についても語っています。人は、高い知識や血縁関係に信頼をおくことがあります。また、人は聖人を拝むこともあります。いろんな種類の偶像を拝むこともあります。しかし、人はある一つのことがどうしても出来ずにいます。そのことをイエスは今日の福音書において語っています。“あなたがたは、神と富とに仕えることは出来ない”それは、神と、偶像を同時に崇め拝むことは出来ないことを意味しています。それにもかかわらず、人はそうしようとします。その結果として悩みが心をいっぱいにしてしまうのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか!主はそれを知っています、主は私たちの非常に弱いところを知っています。主はそんな私たちを助けたいと思っているのです。私達の目と、考えを偶像から、生ける神のほうに向けたいと思っているのです。“見なさい。”と神は言っているのです。神は一体何を見ろと言っているのでしょうか。“空の鳥と野の花をよく見なさい。”

明日のことまで思い悩むという誘惑は、神様に信頼しないという誘惑です

ソロモンは偉大な王でした。2950年前彼は大きな領土と王国を支配していました。このころイスラエルは最も栄えていました。ソロモン王の財産は巨大でした。聖書によると彼に香料、金、宝石や象牙が運ばれました。たとえば、毎年2万5千キロの金が彼に運ばれました。ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富を有しました。しかし、イエス様は「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と言います。

財産の崇拝の主な理由は、将来が保証されることです。明日のことまで思い悩むという誘惑は、神様に信頼しないという誘惑です。

米国の作家、マーク・トウェインが言っています。「私は人生の中で何度も苦難に襲われると心配したが、実際に起きたのはほんの少しだった。」

聖書の「種を蒔く人のたとえ」を覚えていますか?茨の間に落ちた種について何を教えていますか?「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」

思い煩いは不信仰です

イエス様は私たちに心配のない人生を約束しません。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。でも心配は神にお任せしなさいとイエス様は教えます。ペトロはイエス様について言っています「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。

私たちは、祈りを通して、天の父なる神様に思い煩いをお任せします。私たちは心配のあまり夜眠れなくなる必要はないのです。あるクリスチャンが言いました。「毎晩神様に思い煩いを委ねています。だって、神様はいつも目を覚ましておられるからです。」

イエス様は私たちが心配しないようにと勧めます。それでは、この世の富を追求することや思い煩うことに代わるものとして何を教えているでしょうか?「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じ」であるということです。
今、天の父が言います「私はお前のことを心に留めている」。
私たちの思い煩いが疑います「心に留めるですって。本当でしょうか。」
天の父が言います「わたしは世の終わりまで、いつもお前と共にいる。」
思い煩いが疑います「もしいなかったら?」
天の父が言います「私はお前に必要な糧を今日も与える。」
思い煩いが疑います「もし与えて下さらなかったら?もし与えてくださった糧が良いものでなかったら?」
私たちは思い煩うことで何を言っているのか、お分かりになりますか「天の父、あなたは父の名に値しません。なぜなら、あなたは十分に信頼できないし、良いお方ではなく、誠実でなく、助けられるほど十分に強くないからです」と言っているのです。

思い煩いは不信仰です。なぜなら、思い煩いは、私たちの問題や欠如や苦痛を神様と神様の可能性よりも大きなものするからです。私たちは神様よりもこの世的なものを恐れています。そのために天の父は今日あなたにお聞きになります「恐れを持って生きなさいと私は言ったであろうか。私は、お前を裏切ったことがあるか。そのために思い煩っているのか。私は信頼に値しないのか。そのためにお前は心配そうな顔をしているのか。そんなに思い煩っているところを見ると、私の力、知恵、可能性はお前に対してなくなってしまったのか。私に答えてみよ 」。もし答えが見つからないならは、野の花と空の鳥をよく見なさい 。神様はこのように花を装ってくださいます。鳥を養ってくださいます。

神は私たちを洗礼のときに装ってくださいました。聖餐式で私たちを養ってくださいます。

皆さんが、まず求めるものは何ですか?
何よりもまず神の国を求めるというのは、実際にはどうすることですか?どうして人は、神の国よりもこの世の幸せをまず求めるのでしょうか。

神の国を求めるというのは、私たちが、神様を私たちの人生の中で一番大切なものとすることです。十戒の一番最初に書いてあるとおり「わたしは主、あなたの神、わたしをおいてほかに神があってはならない」。そこから私たちが熱心に神の御心に聞き捜し求めることが当然になります。神様は自分の御心を告げました。この御心は神の言葉から、つまり聖書から見つけることができます。

福音

イエス様ご自身は、いつも神の国を第一に求められたのに、彼に与えられたのは、今日のテキストが言っているものではなく、十字架でした。十字架にかけられたとき、イエス様は、多くの思い煩いと不信仰のために私たちが受けなければならない罰を代わりに受けられたのです。それだから、彼は、明日を心配することをやめられない人を、今日、受け入れてくださいます。

フィリピの信徒への手紙の言葉「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

終わりの祈り

愛する天のお父様、あなたは私たちのすべての思い悩みや必要なものをご存知です。私たちを今日まで心に留めてくださって感謝いたします。私たちがあなたに信頼するように教えてください。私たちの心配を取り除いてください。アーメン。

説教「その名はイエス=インマヌエル」 大柴譲治

マタイによる福音書1:18-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「その名はインマヌエル」

アドベントの三本目のローソクに火が点されました。アドベントとは「到来」という意味のラテン語です。主の第一のアドベントであるクリスマスの出来事と、第二のアドベントである主の再臨の出来事の間にあって、私たちは主の到来を身を正しながら待ち望むのです。先週の礼拝では賀来先生が、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と荒野で呼ばわった洗礼者ヨハネを通して、この時を私たち自身が身を正して主の到来を待ち望むということを語って下さいました。洗礼者ヨハネは自分の後から来られる方を全身全霊をもって指し示すのです。

マタイ福音書は旧約聖書の預言がイエス・キリストの出来事において成就したことを繰り返し記しています。本日は福音書の日課としてマタイ福音書1章が与えられています。そこには主イエスの誕生がイザヤ書7章に預言をされていたことの成就であることが明示されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。

イエスはインマヌエル、「神われらと共にいます」という名で呼ばれるお方であるということを明らかにしています。救い主イエスの誕生がインマヌエル預言の成就であることは新約聖書の中ではマタイ福音書だけが伝えていることなのですが、それはイエス・キリストのこの世への到来を意味する決定的な預言として理解されてきました。この「インマヌエル」という言葉はマタイ福音書を貫く主題として重要なキーワードになっています。この言葉自体はこの1:23にただ一回だけイザヤ書7:14の引用として出てくるだけなのですが、マタイ福音書の一番最後に復活の主が弟子たちを派遣する場面がありますが、そこにはこう記されています。マタイ福音書の締めくくりの言葉です。

◆弟子たちを派遣する
(16)さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。(17)そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(18)イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(19)だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(20)あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というのは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

また、18:20には次のような主イエスの言葉もあります。18節から読んでみます。

「(18)はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(19)また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(20)二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

そのようにマタイ福音書は、主イエスが弟子たちと常に共にいるということ、インマヌエルということを一貫して主張しているのです。見えない復活の主のご臨在を証ししているのです。 <「その名はイエス」> 「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と天使がヨセフに告げていますが、「インマヌエル」という名と「イエス」という名がどのような関係にあるのかが分かりにくいかもしれません。「イエス」という名は、ギリシャ語では「イエスース」と書かれますが、当時のユダヤ人においてはごくごく当たり前の、ありふれた名前であったようです。それはヘブル語では「イェホシュア」という名前で、「ヤーウェは救い」という意味です。その名は旧約聖書では「ヨシュア」と訳されていて、例えばモーセの後継者で約束の地に民を導いて入っていったヌンの子ヨシュアがそうです。使徒言行録7:45やヘブル書4:8ではギリシャ語で「イエスース」と書かれているところを「ヨシュア」と訳しています。神はインマヌエルの神であり、われらと共にいますことを通してその救いを達成して下さる神なのです。

苦しむヨセフに現れた天使

本日の福音書の日課であるマタイ1章はヨセフの苦しむ姿を記しています。いいなづけのマリアが何者かによって子供を身ごもったことを知ったからです。どのような経緯でヨセフはそのことを知ったのかは記されていません。「聖霊によって身ごもった」とマタイは記していますが、そのことを知っていたのはマリアだけだったはずです。ルカ福音書は天使ガブリエルがマリアに受胎告知をしたことを記しています(1:26-29)。

「聖霊による懐胎」は人間には理解できない神秘的な次元の事柄です。ヨセフはマリアが身ごもった理由を知りませんでした。ですからヨセフは、律法を守る「正しい人」でもあったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、マリアを密かに離縁しようとします。苦渋の決断でした。ヨセフはそうすることで神への愛を貫こうとしているのです。公に離縁するとマリアが姦淫の罪に問われて石打ちの刑で殺されてしまう危険もあったためでしょうか。もしそうであるとすればヨセフは密かに縁を切ろうとすることで、マリアを憐れみ、彼女を守ろうとしたということになるのかもしれません。ルカ福音書は母マリアの方に焦点を当てているのに対して、マタイ福音書は父ヨセフに焦点を当てています。

ヨセフ(「神は加えたまう」の意)はイエスの誕生物語において重要な役割を果たします。それ以降ヨセフは役割を終えて背後に退いて行くのですが、三度(厳密に言えば四度)天使のお告げを聞いて行動を起こします。本日の箇所がその最初のものですが、二度目はヘロデ大王がエルサレムとその周辺の二歳以下の男の子を殺す前に天使のお告げを聞いてエジプトに逃れて行きます。そしてヘロデ大王が死んだ後に天使のお告げを聞いてエジプトから帰国し、さらには(四度目として)夢で示されてナザレに住むことになるのです。

神はヨセフを用いてその救いのご計画を実現されて行きました。ルカ福音書は受胎告知を告げる天使ガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるマリアの従順を際立たせていますが(ルカ1:38)、私は本日の箇所でのヨセフの「従順」に心打たれる思いがいたします。悩みの中で神の示された御心に、言葉少なではあるけれども忠実に歩むヨセフの姿は、私の中では行く先を知らないで神の言に信頼して旅立ったアブラハムの姿や、燔祭の薪を背負って父アブラハムの後についてゆく従順なイサクの姿と重なります。「主の山に備えあり」なのです。

悲しみの中に降り立ってくださったキリスト

マリアの夫ヨセフに本日は思いを向けました。彼は子供にイエスと名付けたのです。当時の慣習としては母親が名付け親になったようですが、ここではヨセフがその役割を果たしたとマタイは記します。どのような苦しみや悲しみの中にあっても、インマヌエル、神われらと共にいますのです。

先週私は聖路加国際病院に足を運びました。恩師が緩和ケア病棟に入院されているからです。聖路加病院は、私が1985年、今から25年前になりますが、神学生時代に3週間の臨床牧会訓練を受けた場所です。時間を超えてフラッシュバックのようにその時のことを思い起こしました。今もそうですが、聖路加の小児病棟は小児白血病の患者さんが大勢入院されていました。今でもはっきりと思い起こします。ある時に小児病棟を訪問していたら、若いご両親が私に対して深々と頭を下げられたことを。「いつも子供を訪問して下さってありがとうございます」と笑顔で言われたのです。

けなげに病いと闘っている子供たちの姿を見て心震えるような思いをして病棟から出てきた直後だったように記憶しています。病の子供を抱える親の気持ちを思うと、何もできない自分の無力さに胸がつぶれるような思いがしました。しかし、そのような辛い現実の直中に無力なままで踏みとどまることの大切さをその笑顔とお辞儀とによって教えられたように思います。キリストが私たちの現実の直中に降り立って下さったのです。どのような苦しみにあってもインマヌエル、神われらと共にいます。私たちの救い主、その名はイエス(インマヌエルの神は私たちを救う)なのです。

ジョン・パットンという米国の牧師がある本の中で紹介している印象的なエピソードを思い起こします。それは次のようなエピソードです(”From Ministry to Theology,” Journal of Pastoral Care Publications, 1995)。

米国のある病院での出来事。産婦人科は病院の中にあって唯一喜びと笑顔の溢れる場所です。子供の誕生を誕生を心待ちにしていた一組のカップルがいました。しかし、悲しいことにその女児の赤ちゃんは死産となってしまいました。マギーという名前を付けられた赤ちゃんのために病院のチャペルで礼拝が行われます。礼拝の最中に、涙をとどめることができないでいるその若い両親が突然、この子のために洗礼式を行って欲しいと申し出たのです。それを執り行っている若いチャプレンの目からも涙が溢れ続けた。突然の申し出で洗礼盤には水も用意されていません。チャプレンは瞬間迷いましたが、そのご両親の申し出を了承したのです。そしてご両親の涙と自分の涙を指でぬぐって、「マギー、父と子と聖霊のみ名によってわたしは洗礼を施します」と言って、赤ちゃんの額にそっと指を触れ、十字を切って洗礼を行ったのでした。

主イエスは、その名の通り、悲しみの中にも「インマヌエル」、われらと共にいましたもう神のご臨在を示してくださるのです。そのことを覚えつつ、一週間を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年12月12日 待降節第三主日礼拝 説教)

説教「神の審きに秘密なし」 ボブ・バーン

Matthew 25:31-46 “No Hidden Basis for Judgment”
pre/pached to Musashino Church November 23, 2008

マタイによる福音書 25:31-46

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

洗礼〜神のすばらしい恵みの日

Watashitachi no chichinaru kami to, shu iesu kirisuto kara, megumi to heian toga anatagatani aruyouni

THE WORLD LOOKS AT THE POOR AND NEEDY
AND SEES THEM AS A PROBLEM.
BELIEVERS LOOK AT THE POOR AND NEEDY
AND SEE JESUS.
この世は貧しい人々を見て、彼らが厄介な問題であると見なします。信仰のある人々は貧しい人々を見て、そこにイエス様を見ます。

I LOVE BAPTISMS. Baptisms are times to celebrate the Grace of God that claims a person as God’s child.
私は洗礼式が大好きです。洗礼式は神の恵みを祝う時であり、また洗礼志願者が神の子であるということを宣言する時でもあります。

AT THE END OF A BAPTISM a pastor says to the one baptized“LET YOUR LIGHT SO SHINE BEFORE OTHERS THAT THEY WILL SEE YOUR GOOD WORKS AND GLORIFY YOUR FATHER WHO IS IN HEAVEN.”
洗礼式の最後に牧師は受洗者に次のように言います。「あなたの光を他の人々の前で輝かせなさい。そうすれば、彼らはあなたのよい行いをみて、天におられるあなたの父なる神を賛美するでしょう。《

THESE WORDS QUIETLY remind the NEWLY BAPTIZED to RESPOND TO THE LOVE OF GOD. WE ENCOURAGE THIS IN THE CHURCH by serving those in need.
この言葉は、受洗者に神の愛に応える、ということを静かにしかし確かな声で伝えています。教会において私達は助けを必要とする人々に仕えることを通して神の愛に応えるように勧めています。

TOO OFTEN HOWEVER this teaching, RESPONDING TO GOD’S LOVE BY GIVING HIS LOVE OR SERVING THE POOR IS NEGLECTED.
IT IS TREATED AS SOMETHING DONE WHEN ALL THE OTHER IMPORTANT MATTERS ARE COMPLETED.
しかし、この神の愛に応えるという教え、つまり貧しい人々に神の愛を与え又仕えるということは、多くの場合軽視されています。

TOO OFTEN it seems to be VIEWED BY THE BELIEVER AS AN EXTRA SOMETHING WE DO ONLY TO BE SEEN BY OTHERS AS GOOD PEOPLE.
あまりに多くの場合、信仰者達はこの教えを、周りから善人に見られるためだけに行なうものであると、何か特別な行為と考えています。

TODAY MATTHEW gives us a very DIFFERENT MESSAGE.
THE WORLD may see the NEEDY AS A PROBLEM.
SOMETIMES CHRISTIANS may see THE NEEDY AS PEOPLE TO whom we SHARE GOD’S MERCY WHEN WE HAVE TIME.
TODAY MATTHEW SHOWS US THE NEEDY ARE JESUS CHRIST AMONG US.
本日のマタイ福音書は全く異なったメッセージを私たちに伝えています。この世は助けを必要としている人々を厄介な問題と見ていますが、キリスト者は困難にある人々を、時間がある場合にのみ、神の慈しみを分かち合う人々、と見ていることが時々あることでしょう。今日のマタイ福音書は私たちに助けを必要としている人々は私達の中におられるイエス・キリストであると語っています。

CARING FOR THE POOR AMONG US
is AT THE CENTER OF THE REVEALED WILL OF GOD.
CARING FOR THE POOR, THE NEEDY, THE HUNGRY, THE SICK AND NAKED IS THE SAME AS CARING FOR JESUS CHRIST.
私達と共にいる貧しい人々をケアすることは、神が啓示された御心の中核にあることだと言えます。貧しい人々や助けを必要としている人々、飢えている人々、病気の人々や裸である人々をケアすることはイエス・キリストをケアすることと同じことなのです。

THERE IS NOTHING SUBTLE in this Gospel lesson. THERE IS NOTHING TAUGHT here as a SECONDARY MATTER.
今日の福音箇所に曖昧な点はなく、また何ひとつとして第二義的なこととしての教えはありません。

TODAY JESUS TELLS US at the END OF TIME ALL WILL BE JUDGED.
今日の御言葉を通して、イエス様は私たちに終末の時にはすべてのものが裁きを受けることを語っています。

WHEN THE SON OF MAN RETURNS THE AMBIGUITY OF HISTORY TODAY WILL BE OVER.
人の子が来る時、今日の歴史における曖昧さは明確になるでしょう。

The Son of Man will return and JUDGMENT WILL TAKE PLACE.
人の子がやって来て、裁き(の時)が始まります。

THE CRITERION to live in eternity with Jesus IS VERY CLEAR. YOU LIVE AS A LOVED SHEEP with the shepherd forever BECAUSE YOU LOVED HIM TODAY,
永遠の命をキリストと共に生きることの基準はとてもはっきりしています。それは、羊飼いに愛された一匹の羊として永遠に生きるということです。なぜならあなた方は今日、羊飼いであるイエス様を愛したからです。

YOU WILL BE WITH HIM IN ETERNITY because you have ALREADY BEEN WITH HIM IN YOUR KINDNESS AND MERCY TO THOSE IN NEED.
あなた方はイエス様と永遠に共にいるでしょう。なぜなら、あなたが、あなたの親切や慈しみを必要としている人に分かつことを通して、既にイエス様と共にいるからです。

YOU WILL LIVE WITH JESUS IN GOD’S PRESENCE FOREVER BECAUSE YOU ARE WITH HIM EXTENDING HIS LOVE to the POOR, to the NAKED, to the HUNGRY, to the SICK, to the HOMELESS.
皆さんはイエス様と共に神の現臨の内に永遠に生きるでしょう。なぜならば、貧しい人々や裸の人々、飢えている人々、病気の人々、住む家のない人々へイエス様の愛をさしのべることを通して、イエス様と今、共にいるからです。

On the DAY OF JUDGMENT Jesus DOES NOT SAY THERE WILL BE REVIEW of your CONFESSION OF FAITH OR A TEST to see if you have A PERFECT UNDERSTANDING of GRACE, JUSTIFICATION or EVEN FORGIVENESS.
裁きの日に、イエス様はあなたの信仰告白を見直しましょうとはおっしゃいません。又は、恵み、義認、罪の赦しをあなたが完璧に理解しているかテストするともおっしゃられないでしょう。

HE DOES SAY that WHAT WILL MATTER is LOVING AND CARING FOR THE NEEDY. It is the only thing that will matter BECAUSE THE NEEDY TODAY ARE JESUS CHRIST AMONG US.
その代わりに、イエス様はこうおっしゃるでしょう。助けを必要としている人々を愛しケアをしてきたのかが問題である、と。このことだけが唯一の問題となります。なぜなら今日助けを必要としている人々は、私達のただ中にあっておられるイエス・キリストだからです。

JESUS CHRIST, GOD’S LOVE, THE SON OF MAN IS WITH HIS SHEEP IN THE PRESENT TIME. as you did it to one of the least of these My brethren, you did it to Me.
イエス・キリスト、愛なる神、人の子は彼の羊と今この現在も共におられるのです。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。《

’JESUS CHRIST, GOD’S LOVE, THE SON OF MAN WILL COME AND BE WITH HIS SHEEP AGAIN AT THE END OF TIME. as you did it to one of the least of these My brethren, you did it to Me.
イエス・キリスト、愛なる神、人の子は、終末のときに再び来て、彼の羊と共におられるのです。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。《

’JESUS CHRIST GOD’S LOVE, THE SON OF MAN WILL BE HIS SHEEP DRAWING THEM INTO THE PRESENCE OF GOD WITH HIM FOREVER BECAUSE, as you did it to one of the least of these My brethren, you did it to Me.’
イエス・キリスト、愛なる神、人の子は、彼の羊を神の現臨へと誘い、永遠にイエス様と共におらせてくださいます。なぜなら「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。《

IN MY MINISTRY I have spent TIME WORKING WITH YOUTH. I have TAKEN THEM ON TRIPS to teach them the JOY OF SHARING THE MERCY OF CHRIST with the POOR AND NEEDY.
サウスキャロライナにおいて私は、若い人達と一緒に活動してきました。若者達を旅に連れて行き、貧しい人々や助けを必要としている人々と共にキリストの慈しみを分かち合う喜びを教えてきました。

We have worked in LOCAL NEIGHBORHOODS. We have worked in OTHER PARTS OF OUR STATE AND COUNTRY. Sometimes we even have WORKED IN OTHER COUNTRIES.
私達は近隣のために働いてきました。同時に、サウスキャロライナ州の別の町やアメリカ国内の別の地方でも働いてきました。時には外国でも活動しました。

PARENTS AND YOUTH HAVE ASKED ME WHY PARTICIPATING in such things is SO IMPORTANT for their Christian lives.
若い人達やその親達は私にこう尋ねました。なぜキリスト者として生きるうえでその様な活動が重要なのでしょうか。

I TELL THEM THIS. GOD LOVES YOU AND CALLS YOU TO LOVE HIM.
私は次のように答えました。神があなたを愛しておられ、またあなたが神を愛するように招いておられます。

NOW WE ALL CAN AGREE, IF YOU LOVE SOMEONE YOU WANT TO BE WITH THEM. SO…
そこで私達は次のことに同意できるでしょう。あなたが誰かを愛するとき、あなたはその人達と共にいたいと願うでしょう。ですから

IF YOU REALLY WANT TO BE WITH JESUS in the PRESENT TIME there is a WAY FOR THIS TO HAPPEN. There is a WAY FOR YOU TO BE WITH HIM. HE IS WAITING FOR YOU
もしあなた方が今、本当にイエス様と共にいたいと願うのであれば、その願いが叶う道がここにあります。イエス様と共にいる道があなたにはあります。イエス様はあなたを待っておられます。

YOU CAN LOOK INTO HIS EYES AND SEE HIS SMILE. I know this because JESUS SAID HE WOULD BE THERE IN THE GOSPEL OF MATTHEW.
あなたがイエス様の目を見つめると、イエス様の微笑をあなたは見ることができます。私は確信しています。なぜならマタイによる福音書で、イエス様はそこにおられると言っておられるからです。

COME AND FEED THE HUNGRY at a place where food is distributed. COME AND CLOTHE THE NAKED by donating some of your clothes or distributing clothes at a clothes closet.
来なさい。そして飢えている人々に食べ物を与えなさい。貧しい人達に無料で食事が配られているところで、そのことはできるはずです。来なさい。そして裸の人々に朊を着せなさい。あなたの朊を必要とする人々に分配するところに寄付することでそのことはできるはずです。

COME AND GIVE SHELTER TO THE HOMELESS by building or restoring houses. COME AND GIVE COMFORT TO THE SICK AND DYING by simply visiting them and praying
来なさい。そして住む家のない人々にシェルター(宿泊可能施設)を与えなさい。新しい家を建てたり、古い家を修理することでできるのです。来なさい。そして病気の人々や死に直面している人々に平安を与えなさい。それらの人々を訪問し、祈ることでそのことはできるのです。

COME AND I KNOW YOU WILL SEE JESUS IN THE EYES OF THOSE poor and needy WHO RECEIVE HIS LOVE FROM YOU IN THESE ACTS OF MERCY.
来なさい。そうすればあなた方がイエス様とお会いすることを私は知っています。あなたの慈悲深い行為を通してあなたからイエス様の愛を受け取っている貧しい人々や助けを必要としている人々の眼差しの中に、イエス様を見るでしょう。

COME JUST ONCE AND IN HIS LOVE YOUR LIFE WILL NEVER BE THE SAME.
とにかく来なさい。イエス様の愛にふれると、あなたの生き方は決して以前とは同じものはないはずです。

THIS IS THE TRUTH BECAUSE JESUS SAID, “as you did it to one of the least of these My brethren, you did it to Me.’
これは真実です。なぜなら、イエス様がこう言われたからです。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。《

THIS IS THE TRUTH OF GOD AND THE JUDGMENT OF GOD WHEN THE SON OF MAN RETURNS.
これが神の真実(真理)です。そして人の子が戻ってくる時、神の裁きがあるのです。

BE WITH JESUS TODAY AND WE WILL BE WITH JESUS FOR EVER AND EVER. This is the PROMISE AND THE JUDGMENT IN MATTHEWS TEXT
今日、イエス様と共にいなさない。そして私達はイエス様と永久に共にいるでしょう。これがマタイ福音書のテキストが語っている約束であり、裁きなのです。

THE WORLD MAY SEE THE POOR AS A PROBLEM; MAY WE SEE THEM AS THE VISION OF GOD’S LOVE CALLING US TO BE WITH HIM IN MERCY TODAY AND FOREVER.
この世は貧しい人々を厄介な問題と見るかも知れませんが、私達は貧しい人々を神の愛のご計画、ビジョンだと見ることが出来るでしょう。私達を慈しみの内に神と共にいるように招かれています。今日もそして永遠に。

Jinchidewa toutei hakarishirukotono dekinai kamino heianga, anatagatano kokoroto omoi towo, kirisuto iesuni atte mamorareruyouni Amen

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2008年11月23日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教、通訳:安川美歩)

ボブ・バーン(Bob Buyrne)先生は、現在、米国福音ルーテル教会の牧師でサウスカロライナシノッドからの交換牧師として来日し、日本各地の教会でご奉仕をされています。 (大柴記)

説教「神の恵みはすばらしい《 テレルボ・クーシランタ

マタイによる福音書 20:1-16

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

洗礼〜神のすばらしい恵みの日

今日は武蔵野教会の礼拝に出席させていただき、感謝申し上げます。私は11年前の1997年12月に日本へ参りました。そして、1998年1月に日本語の勉強が始まりました。そのころ私は日本語の学校で勉強しながら、一年間、武蔵野教会に通っていました。その時、私は「あいうえお《から日本語の勉強を始めたばかりで、話しかけることもできなかったし、相手が何を言っているのかも分からなかったのです。しかし、教会の大柴先生、ご家族の皆様、教会員の皆様は私を受け入れてくださったのです。そのとき、私は日本語を理解することはできませんでしたが、たくさん笑っていたのです。私は嬉しかったのです。また、10年前の秋に、この教会で始めて日本語の礼拝の説教をしました。そのときのことを思い、今、懐かしい気持ちでいっぱいです。

その同じ頃、私はT.Iさんが指導されていたノンクリスチャンの聖書の学びにもお誘いをいただいて、日本語はまだできないながらも出席しました。そこでH.Uさんと出会いました。今日、Uさんは洗礼を受けられるのです。それは神の良いお導きによって行われるのです。長い年月の間、神はUさんに少しずつ心の準備をなさったのです。今日は心の喜びと感謝の日なのです。洗礼を受けられる方はイエス・キリストに結ばれ、天の国のメンバーにもなり、この教会の会員にもなるのです。神はUさんを自らの子供として受け入れてくださいます。そして、神はUさんと洗礼の契約を立てられました。神はそれをいつも覚えていらっしゃるのです。それで、この日は人生の新しい誕生日だと言われています。今日は、神のすばらしい恵みの日なのです。洗礼の中には救いが入っているからです。おめでとうございます。

労働者

今日の福音は、昔のイスラエルの労働のことについて書かれています。その当時、人々は日の出から日の入りまでの12時間働いていたようです。そして、一般的な一日の賃金は1デナリオンでした。さて、収穫のときには、多くの働き手が必要でした。ぶどう園の収穫は雨が降る前にしなければならなかったからです。そのころ、市場は労働者の集まるところで,そこで雇い主は労働者を見つけることができるのです。雇い主は出会ったとき労働者と賃金についても相談していました。雇い主は一日の間5回、市場に行って労働者を探してみたのです。イエスのたとえで、労働者は雇い主と出会った時間により、12時間、9時間、6時間、3時間と1時間の働きになりました。

ところで、労働者を1時間の働きのために雇うということは普通のことではありませんでした。今、この物語では「先《か「後《かということが問題になっていると思います。イエスのたとえでは、先に来た人にも後から来た人にも同じ賃金を払うということが話しの中心になっているからです。労働者の監督が賃金を払う時、雇い主もそこにいました。

支払いは、最後に来た者から始めて、最初に来た者へと、順に行うことになりました。主人は働く前に働き手と賃金について話していたのですが、賃金を払った時皆驚きました。どうしてでしょう。全ての労働者は一日分の賃金をもらったからです。つまり、12時間働いた人も、9時間、6時間、3時間働いた人も、そして、1時間しか働かなかった人も、みな同じ賃金をもらったのです。それは、正しいことなのでしょうか。朝早く来た人々は傷ついた心でいたのではないでしょうか。彼らは長い一日働いていて、暑さのため、汗も流したでしょう。また、夕方になると、涼しくなるので、1時間だけ働いていた人が同じ賃金をもらうことは正しくないと考える方々がいらっしゃると思います。ですから、人間の間にねたみも出てくるのです。

聖書の物語の賃金を払うということは私達の社会の仕事につながってはいないのです。では、イエスのたとえの意味は何でしょうか。イエスが話されたのは普通の仕事の賃金についてではありませんでした。イエスは神の国に属していることについて語ってくださったのです。それは、全ての人間につながっています。イエスは人間の救いということについて話されたのです。救いとは神の恵みによってだけ、イエスを通してだけ、信仰によってだけ受けることができるということです。救いには、人間の良い行いは全く関係ありません。救いとはいつもイエス・キリストによってだけ与えられるのです。それは、神のプレゼントだからです。一般的に良い行いによって、救いが得られると考えてしまうかもしれませんが、私達は良い人生によっては神の前に入ることはできないのです。

皆が同じ神の恵みに与ります

私達は皆、同じ救いを受けられるのです。神は、子供のころからクリスチャンとして生きている人も、生涯の最後のときイエスを信じるようになる人も同じように受け入れられるのです。それは、神の恵みによってだけなされることです。神は救いを自ら愛によってお与えになるのです。私達それぞれは神のプレゼントを受け入れましょう。神が与えられた喜びの中へ入りましょう。神の国で大きな宴会があるからです。そこでご一緒に祝いましょう。イエス・キリストは私達の救いのためにご自分自身を十字架につけて、死なれ、葬られ、三日目に復活されました。イエスはあらゆる人間を罪と、死と、悪魔の力から解放されるのです。ですから、私達は罪の赦しを受け、永遠の命を得ることができるのです。ここに救いがあります。主イエス・キリストは私達一人一人、それぞれの救い主になったのです。それは恵みなのです。

私達は恵みを人生に願っているのではないでしょうか。神から慈しみと憐れみをも望んでいるのではないでしょうか。特に、何かで失敗した人は恵みを望んでいると思います。ある時には、お一人おひとりは自分が行った悪いことや、悪口や相手に対して言った強い言葉を忘れてしまいたいと心で望んでいるのではないでしょうか。つまり、私達は恵みを望んでいるのです。そして、罪の赦しの恵みをも待望しているのではないでしょうか。

恵みとは赦しをももたらして来るのです。残念ながら、人間社会は恵みによって動いていくことはできないのです。

恵みとは神と人間との関係につながっているものなのです。神に対しての人間の熱望は下から上の方へローソクの炎のように上がっているのです。絶望している人は目を天の方へ上げていきます。そのとき「わたしはどこから助けを見出せるだろうか《という問いがあるのでしょう。

しかし、自分自身と成功だけを信頼している人は恵みを望んでいないと思います。

人の祈りが苦難の中から神の元に上がっていったとき、神の恵みは天からその人の元に降っていくのです。そこに人の希望があります。主イエスはお生まれになったとき、人間となり、私達と共にいらっしゃいます。聖なる者が、罪人である人間と一緒に生きていらっしゃいます。つまり、愛は怒りの中へ、命は死の中へ、健康は病気の中へ、栄は恥の中へ来るのです。すなわち、私がない物を受けるのです。神の恵みは絶望の中へ希望を、泣いている人に喜びを、平安が無い人に平和を与えられるのです。それは、神の恵みなのです。そのようにして、恵みを受けるのです。神は恵みを人間の外からお与えになるのです。それはプレゼントだからです。

私達は恵みを神とイエス・キリストから受け入れるのです。神はご自分の恵みと自ら自身をお与えになるのです。そこには神自ら善と愛を私達に渡されるのです。それは、死んだような者の心に命が流れ、絶望の中で希望が生まれ、閉じている心が少しずつ開くようになるのです。

神から受け入れた恵みは私達の人生の土台で、恵みよって新しい一日が始まるのです。恵みを見ると、将来のことも勇気を持てるのではないでしょうか。イエス・キリストの恵みを信頼して最後に死ぬこともできるのです。こうして、恵みは太陽のように光と暖かさを与えてくれるのです。それは、暗を取り去り、人生は新しい力をもらうのです。

それで、私達は心より神と主イエス・キリストに感謝を致しましょう。本当に、罪人である私達は主イエス・キリストによって聖なる者になるのです。つまり、私達は同時に罪人であり、義人であるのです。私達はキリストによって、恵みを通して、信仰により救われるのです。それは、神から受け取った無償のプレゼントなのです。

お祈り

憐れみ深い神様、天のお父様。恵みに感謝を致します。
神様は罪人である私達を愛によって受け入れてくださっているので、心から感謝を致します。イエスは私達の重荷を背負ってくださり、私達に自ら聖なる義をお与えになり、感謝をいたします。
今日、薄井さんの洗礼式が行われます。そこで神の恵みと救いが人間の物に与えられるのです。心より感謝を致します。これからも薄井さんとご家族の皆様の上にも神様の祝福が豊かにありますように。
私達は自分の洗礼をも思い出しています。毎日私達は洗礼の恵みを通して新しい力と信仰を受けるのです。私達はイエスに従うように生きていくからです。主よ、私たちをお導きください、助けてください。救い主イエス・キリストによってお祈りをいたします。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2008年10月12日 聖霊降臨後第22主日洗礼・聖餐礼拝説教)

テレルボ・クーシランタ先生は、現在、東海教区の栄光教会で宣教師として働いておられます。ヘルシンキの聖書学院の院長を辞し、50才を越えて日本への宣教師となるよう神の召しを受け来日されました。二年間の語学研修中、最初の一年をむさしの教会で教会生活をなされました。2009年3月末に宣教師を引退しフィンランドに帰国されます。帰国前に一度むさしの教会で説教をお願いし、この日実現いたしました。そのお働きとお交わりに心より感謝いたします。 (大柴記)

説教「イエスの弟子であるとは」賀来周一

マタイ 9:35-10:15

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

信仰の決め手

今朝、ご一緒に、皆様方と礼拝を守ることができ感謝申し上げたいと思います。

信仰生活は、「信仰の手ごたえ」、あるいは、「これでよしとするような決め手」のようなものを求めるものです。

しかし、自分自身の世界の中だけで、信仰の手ごたえ、また決め手を考えていると、なかなかうまい落とし所が分からないまま、こころの片隅にあいまいさが残したまま、自分なりの信仰物語を作って、納得させている、そんな思いを抱えている気がします。

これさえあればと思う、信仰の決め手がよく分かるのは、実は伝道するときなのです。自分の信仰を外に向かって打ち出すとき、そのときは否応なく信仰の決め手が必要だからです。

伝道というものは、いいときもあれば悪いときもありますが、不思議なことには、伝道がうまくいかないとき、失敗したときの方が、信仰の決め手がはっきりするものです。

今日の聖書は、弟子たちをイエスが伝道へと送り出される箇所です。この弟子の姿を通して、自分の信仰の手ごたえなり、決め手がどういう形で明らかになるのかを考えてみましょう。

伝道は人手不足で始まる

この聖書箇所を読んで分かるのは、伝道は人手不足で始まるということです。「収穫は多いが働き人は少ない」とあります。人手不足は、聖書の時代から変らない教会の現実のようです。もし伝道にあたって人手が足りないと言っているとすると、極めて聖書的ということかもしれません。しかし、そこに伝道の出発があるということは、イエスという方は決して幻想を抱くことなく、極めて現実的にこの世を見て、伝道とは何かを我々に示そうとしておいでになるのがよく分かります。

ところで、働き人として、召し出された弟子たちは、人手の足りないところを補うだけの十分な能力と資質を持った一騎当千の強者かというとそうでもないのです。12人の弟子たちのことをよくご存じの方はすぐお分かりになると思います。裏切り者のイスカリオテのユダがいます。少々そそっかしいペテロが、そして疑り深いトマスもいます。やや危険分子とも言うべき熱心党のシモンもいました。この世的に見て、この人たちが品性識見に優れているとか、立派な人だとは言えそうもありません。これが現実の弟子たちの姿であります。

「いやしの力」

考えてみると、私どもが信仰者とされ、主の弟子として、この世に遣わされていくときに、私はとても素晴らしい人間で、イエスの召しにふさわしいと思っている方はおそらくいないでしょう。自分のようなものがこの人手不足の中に駆り出されていいのかな、と思うのが、私たちの本当の姿で、弟子の姿そのものです。

イエスという方は、人間の現実の姿をよくご存じであって、その姿を、そのままそっくりとらえて、伝道へと送り出された、これが私たちの用いられ方であると言ってもよいのではありませんか。

でも、その私どもに何を伝道の起点として、出て行け、と命じられるかというと、「いやしの力」なのです。ありとあらゆる患いや病を癒しなさい、その権能を与えるところから始ります。

これはある意味では恐ろしいことです。私たちは、イエスの召しに叶うだけの能力や力は何もないという、貧しい姿をさらけ出しているにもかかわらず、与えられているものは、とてもなく大きいことだからです。

でもここで私たちは考えなければなりません。イエスは、私どもに知識や教えを与えてはいないということです。

「いやしの力」を与えられたとは、神の働きを身に帯びることにほかなりません。聖書に示されたいやしとは、人間が苦しんでいるところ、困り果てているところに、神の働きがあるということであります。さらに言えば、神の働きは、人間の一番困り果てているところにある、そのことを人々に伝えなさい、というのが、私たちに与えられたイエスからの委託なのです。

ですから教えとか知識とかとはまったくちがって、身に帯びた神の働きを地上で現わしなさい、ということなのです。自分を超えた大きなものが背中に乗っかっているようなものです。それこそがイエスから遣わされるときの私たちの実体であります。この実体は信仰的実体です。霊的実体と言ってもよいかもしれません。

「何も持たないで出て行け」

私たちは自分の足りないところや貧しいところを見ますと、何とか頑張って自分も少し力をつけて、イエスの召しにふさわしい人間になろう、立派な人間になろう、あるいは、もっと優れた資質を身につけようと、足りないところを補おうとします。

でも伝道というのは、ある意味では、そういうことは邪魔になる世界でもあります。だからイエスは何も持たないで行け、と言われた理由は、そこにあります。

立派にならなければとか、知識や経験を身に付けないと、伝道はうまくいかない、だからもっと立派にならなければいけない、などということとはまったく逆のことが、イエスのことばにあります。貧しい者なのにもっと貧しくなれということです。能力がない人間に、もっと能力をなくせということです。

そうすると、私たちの飾り物があるので見えなかった部分が、よく見えるからです。自分をよく見せるものがあるとかえって見えなくなる、そういう世界があることを、イエスは教えておいでになると言ってよいでしょう。

いつもカラ振り~私の最初の任地・賀茂川教会で

私が神学校を出て、最初に赴任した教会は、京都の賀茂川教会で、当時は恩寵教会と言っていました。27歳でしたから、今から50年前の話です。前任は非常に優れた牧師で、青年たちが大勢集まっておりました。私が赴任したときには、伝統的なルーテル教会の教えと違うというので前任者が教会を辞めた後でした。

引き継ぎ当日の礼拝は25人程だったと思います。ロマネスク風の会堂は近江兄弟社のヴォーリス建築事務所の設計でしたから、なかなか立派な会堂で、70人以上入ります。ところが次の日曜日は4人の礼拝でした。その4人の内、1人はオルガニスト、1人は私ですから、2人しか会衆席には座っていない、それが私の牧師としての最初の出発でありました。

当時、牧師の給与は国家公務員の初任給の半額位でした。そのうちの3分の1は教会の献金でまかない、残りが本部からの送金ということになっていました。ところが信徒がいないのでその教会で担当する分がないわけです。まあお金が無いという、そういった状況でありました。

そうなるとお腹が減ります。だから食べもの探しが大変でした。当時、小泉先生が修学院教会に赴任して、開拓伝道をしていました。修学院は比叡山のふもとですから、何かないかと聞くと、フキがあるよというので、フキをもらってきて、茹でて食べたことがありました。森勉先生が天王寺教会にいましたので、森先生に何かないかなと言ったら、砕け米があるよと。砕け米というのはご存じですか。精米するとコメの粒が砕けたのが出ます。それが安く買えるのです。そのころはお互い貧乏だったのですね。それを貰ってきたことがありました。でも伝道はしなければなりません。当時、ルーテルアワーという伝道放送があって、その聴取者カードが教会にたくさん送られて来ました。とにかく教会に人が来てくれないと教会が成立しませんから、毎日、朝から晩まで、京都の町を自転車で走り回りました。

カードを頼りに訪ねると、玄関払いだったり、何のために来たか怒られたり、面と向かって用事はありませんという人もあります。中には、この次、教会に行きますからとの返事で、楽しみにしているとまったく姿を見せない人もありました。

そういったことがありましたが、とにかく伝道をというので、大津の坂本という比叡山を越えたところに、家庭集会を持っておりましが、電車賃がもったいないので、自転車で行っていました。それも銀閣寺の近くから山中越えと言って、平安時代は山賊が出るので有名だった間道を利用して、自転車で未舗装の道を比叡山まで登ります。降りるときは坂道だから楽というわけです。これを1月にいっぺん繰り返しておりました。

当時京都学生センターは、宣教師のコック先生が責任者でしたが、この先生と大津に開拓伝道をしようということになりました。先生と行くときは自動車で行きますが、休暇のときなどは大津まで自転車で行っていました。ルーテルアワーの聴取者に案内の手紙を出し、1軒の家を借りまして集会をはじめました。

今日は何人かなと楽しみしていると、誰も来ないない、いつもカラ振りでした。こういうことが続くと、いったい何のためにこんなことをしているのかという気がしてきます。人が集まらないのはどうも自分のやり方が悪いのでないかとか、能力が足りないからだ、いやお金がないからとか、道具立てが揃っていればもっと人が集まるかな、いわば自分の飾り物を探し出すわけです。でも、飾り物を探し出すと、ますます次が続かなくなる。

でも、何が自分をそうさせているのかと考え出すと、結局、自分を超えたものをそこで思い起こさないと、続かないわけです。とにかく何か自分を超えたものの力で動かされている、だからこの次もという気持ちがわいてくるわけです。

二番目の任地・札幌で

私は比較的動き回るのが好きなものですから、札幌にいるときもそういう経験しました。札幌では、これもルーテルアワーの聴取者カードを使って、室蘭に開拓伝道を企てました。

室蘭と札幌はだいたい100・ぐらい離れています。50ccのバイクが教会にありましたので、バイクで行っておりました。だいたい50ccのバイクで100km走りますと、3時間位かかります。

ところが、借りておいた室蘭の公民館へ行きますと、誰も来ません。時折、小学校6年の女の子さんと小さな弟と2人がぽつんと待っていることがありました。教会学校の話をして、もう暗くなっていますけれども、バイクで夜中に苫小牧あたりの原野を突っ切る国道をとことこ帰っていくわけです。結局、室蘭伝道は実りませんでした。

そういうときに、自分の能力がない、知識もない、経験もない、バイクでなくて車が欲しい、などと思うと、もう次は続きません。何にもないと、結局のところ自分を突き動かしているものはもっと別のものだと分かります。自ずとイエスが言われた「いやしの力」が否応なく見えてくるのです。

伝道が成功していたら、それが見えなかったと思います。もし伝道がうまくいけば、それは自分の力が大きかったからだとか、能力があったからだとか、経験が勝っていたからだとか、きっと自分の力を誇ったと思います。自分を誇れば誇るほど、神から与えられた力は見えなくなります。だから、伝道が失敗してはじめて、何が自分をそうさせているかと、そういった信仰の決め手のようなものが、見えてくるものです。

足の裏の埃を払い落とす

「信仰の強い人は自分が弱い」、「信仰が弱い人は自分が強い」という言葉があります。「信仰の強い人は自分が弱い」というのは、自分が弱いからこそ自分を動かしていく別の力がよく見えるのです。弱くないとそれは見えません。自分を突き動かす別の力が見えるので、信仰が強くなるというわけです。

信仰が弱いということは、強い自分で自分を動かしていますから、自分を動かしているもう別の力が見えなくなります。ですから私たちは、誇るときは、弱さをむしろ誇らなければならない。自分が弱ければ弱いほど、信仰が強いからです。そういう世界を今日の聖書の箇所から教えられます。

イエスは、いやしの力を与えたから伝道は成功するなんてことは言われません。失敗するケースも取り上げておいでになります。人の家に入っていっても、あなた方は拒絶されるかもしれない。そうしたら足の埃りを払い落してから次の町へ行け、とあります。この「足の埃りを払い落して次の町に行く」とは、自分に力はないけれども、与えられた力がある、それを確認して新しい次の伝道に向かっていくことです。

自分には何もないと思えば、何もない自分は何で動いているかに思いが行くはずです。そのことが足の埃りを払い落して次の町へ行く動きを作らせてくれます。

伝道のみならず、信仰生活にはそういうことがかならずありましょう。大きい埃りもあれば、小さい埃りもある、けれども、足の裏にくっついた埃りをぱっと払い落して、次に行くという、そういった決断を信仰はさせてくれるものです。そのときは自分の上にもう一つの大きい力が働いていることを認めたときであります。

祈り

お祈りいたします。

父なる御神、私どもは自らの中に誇るべきものは何一つなく、能力もなくすべてのことを持ち合わせておりませんが、あなたが私どもに働いて、あなたご自身の力をくださいます。そのことによって、いかなるときにもあなたと共にあることの力強さを知ることができますように。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2008年7月6日 主日聖餐礼拝にて)

説教「魂の医者 イエス・キリスト」大柴譲治

マタイ 9:9-13

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

神 YHWH の息

「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)と記されているように、人間は神の命の息(=聖霊=風)によって創造されたと聖書は告げています。赤ちゃんは生まれた時に最初に大きく息を吸ってから吐く息で「オギャー」と第一声を上げます。古代のイスラエル人は、その最初の息(吸気)こそ神さまから吹き入れられた息であると信じたのです。そして、私たち人間がこの世で一番最後にすることは「フーッ」と息を吐くことですが、その最後の息(呼気)を責任をもって「引き取って」くださるのも神さまなのです。

「神」のことをヘブル語では「YHWH」と書いて「ヤーウェ」と読ませます。ヘブル語では母音は表記されず、また「神の名をみだりに唱えてはならない」という十誡からも、この「神聖四文字YHWH」は「アドナイ(主)」と読み替えられたようですが、このYHWH(ヤーウェ)という言葉は実は「ャハフーッ」という呼吸音を表しています。文字通り、神は私たちに自らの息を吹き入れることによって命を与えてくださる存在なのです。神さまの息吹によって私たちは生かされる。そしてそれは、「最初の息」と「最後の息」だけでなく、神はすべての時に私たちと息を合わせてくださるお方であるということでもあります。この「神と呼吸を合わせる」ということがとても大切で、そこでこそ私たちは安らかな息(「安息」)が与えられる。それを想起するのがこの礼拝の場なのです。

「現代の詩編」としてのゴスペル

本日は久しぶりにむさしのゴスペルクワイアと一緒にこの主日礼拝を守っています。ゴスペルクワイアが活動を初めたのが2000年ですから、もう8年が経ちました。そこにはコツコツと積み重ねられてきた歴史があります。そこには確かに「ゴスペルの魅力」があるのだと思います。

どこに「ゴスペル」の魅力があるのか。「ゴスペル」とは「福音」という意味で、それは苦難の中で歌われてきた魂の歌でありました。アフリカから米国に強制的に連行され、独自の言語や宗教などを一切奪われる中でキリストの福音と出会い、(ジョン・ウェスレーの流れを引く)メソジスト教会の讃美歌から強い影響を受けながら、黒人奴隷たちが歌い継いできた黒人霊歌(ニグロスピリチュアル)がそのベースにあります。彼らは奴隷としての過酷な労働の中でキリストと出会い、傷を癒す救い主を信じたのです。ゴスペルは本来そのような魂のうめき、魂の叫びの歌です。彼らはかつてエジプトの奴隷とされていたイスラエルの民と自らを重ね、神に向かって歌うことで苦難を耐える力を与えられ、歌うことを通して神からの希望を与えられたのです。その意味でそれは「現代の詩編」と呼んでもよいでしょう。旧約の詩編もまたそのような魂のうめきの歌だったからです。

ちなみに、この後で歌う「Create in me a clean heart」は詩編51編からの言葉で、通常私たちが奉献唱として礼拝式文の中で歌っているもののゴスペルヴァージョンです。「神よ、わたしのために清い心を作り、ゆるがぬ霊をわたしのうちに新しくしてください。わたしをあなたのみ前から捨てず、あなたの聖なる霊をわたしから取り去らないでください」。ここで「ゆるがぬ霊」「あなたの聖なる霊」と呼ばれているのは神の聖霊のことで、前述のように神のSpirit(霊、息、呼吸)を吹き込まれることによって人は生かされるのです。

奴隷たちは一緒に歌うことを通して、呼吸を合わせ、連帯を強め、希望の見えない中で、キリストを信じつつ、希望の光を分かち合っていったのです。そこには創造主なる神への絶対的な信頼、イエス・キリストへの愛が息づいています。先ほど歌った”He knows my name”にも”We fall down”にもそのような信仰が息づいています。

チャールストンでの体験から

私は黒人霊歌ということで必ず思い起こす体験があります。1997年の6月、家族と一緒にサウスカロライナのチャールストンという地を訪問する機会を与えられました。日本福音ルーテル教会と姉妹教会にある米国福音ルーテル教会サウスカロライナ教区のご招待で、一週間その地に滞在させていただいたのです。1892年にチャールストンのファーストルーテル教会から二人の宣教師が派遣されて、日本でのルーテル教会の宣教が始まりました。私もその教会で主日礼拝の説教をさせていただき、歴史を感じて感無量でした。しかし同時に複雑な思いを持ったことも事実です。

実はチャールストンという地は、ボストンやフィラデルフィアと並び、古くから栄えた貿易港でした。特に南部は綿花大農場(プランテーション)が栄え、そのための労働力としてアフリカ大陸からその港には直接奴隷船が入ったのです。ですからチャールストンには今でも奴隷市場の跡があります。そして当時の大農園が今でもあちこちに資料館として保存されているのですが、そこには奴隷道slave streetと呼ばれた小屋が両側に並ぶ入り口がありました。小さな10畳ほどの蚕棚のような小屋に12人ほどの奴隷が住んでいたそうです。映画『風と共に去りぬ』はジョージア州アトランタが舞台でしたが、サウスカロライナはその東隣の州で、あれと同じ情景を思い描いていただくとよいと思います。slave streetの奥には農園主の大邸宅がありました。そのような中で奴隷たちは黒人霊歌を歌いながら、朝から晩までの厳しい作業を耐えていったのです。

そのように私は綿花農場を先に訪問していましたので、ファーストルーテル教会で説教をさせていただいた時、複雑な思いがしたのです。会堂の前の方には裕福な会員たちの家族ボックス席があり、後ろの方には貧しい会員たち(おそらく黒人奴隷たち)のための仕切られた立ち見席があったように記憶しています。

黒人霊歌/ゴスペルの本質

黒人霊歌はslave songs、 plantation songsとも呼ばれますが、故郷アフリカ大陸から何千マイルも離れた見知らぬ地に奴隷船で運ばれ、そこで文化・習慣や言語・宗教を剥奪されて奴隷として生きなければならなかった過酷な現実の中で生まれた歌です。キリスト教会もそのような奴隷体制を支持することで神に対する罪を犯してきたのだと私は思います(詩編51編はダビデが罪を悔いる詩編でもあります)。奴隷たちは奴隷主である白人に教会に連れて行かれ、礼拝を体験したようです。しかし彼らが真の意味で魂の解放を得たのは、一日の苦役を終えた夜遅くに密かに仲間同士で集まり、白人の家から離れた場所で自分たちだけの礼拝を守って神に祈り、歌い、踊った時間であったと伝えられています。それが彼ら自身の信仰の形だった。

彼らの集会場所はHush Harbor(静かな港/静寂の隠れ家)と呼ばれました。奴隷主たちは反乱を恐れて奴隷たちが集会することを極度に嫌いました。Hush Harborが見つかれば重罰は必至でしたが、そのような危険を冒して彼らは集まった。奴隷主たちに見つからないように歌声が外にもれないように濡らした布や敷物をテントのようにかけて、その内側で一つに固まって歌ったともいいます。苦難の中、うめきや呼吸を合わせて神に祈ることを通して真の自由を求め、「神の像」としての真の人間のアイデンティティーと神の国の実現という希望とを育んでいったのです。そのような切迫した状況下で、奴隷たちの魂がひとつになることによって歌そのものが力を持つようになった。そこに黒人霊歌、ゴスペルの力があります。

彼らは背負いきれないほど重い十字架のくびきを「自分たちと共に、自分たちのために、自分たちの身代わりとして」背負ってくださったキリストの中に慰めを見出したのです。「すべて重荷を背負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを慰めてあげよう」。彼らはそのように罪人を招く救い主を信じたのです。

使徒「マタイ(神の賜物)」の召命

本日の福音書の日課にはマタイの召命の記事が描かれています。マルコとルカの福音書ではマタイは「(アルファイの子)レビ」と呼ばれています。こちらが本名で、シモン・ペトロ同様、「マタイ」とはイエスさまがレビに付けた別名でありましょう。W・バークレーという聖書註解者によると、マタイという名は「神の賜物」という意味です。マタイはローマのために働く徴税人で、ガリラヤ湖畔の町カペナウムで(直接ローマのためではなく、親ローマ派の領主ヘロデ・アンティパスのために)通行税を集める仕事をしていたと思われます。ローマの貨幣を用いてローマのために働く徴税人はユダヤ人の間では忌み嫌われていました。バークレーは『イエスの弟子たち』(新教新書)という書物では、マタイを「みんなに軽蔑された人」と読んでいます(p83)。

イエスさまは皆に軽蔑されていたレビをマタイ(神の賜物)として弟子へと招くのです。ファリサイ派ならずとも驚いたに違いありません。誰からも眉をひそめられるような存在。それがそれまでのマタイでした。誰もマタイのことなど気にもかけません。「わたしに従いなさい」というイエスの声は、まっすぐにマタイの心に響いたに違いありません。自分に真剣に向かい合ってくれた者はこれまで誰もいなかった。マタイは嬉しかったのです。その証拠に、彼は即座に「立ち上がってイエスに従った」とあります。そして主イエスを食事に招き(「私は今救い主と出会った!」)、友を呼んで祝宴を開くのです。

真正面からマタイを捉えた主のまなざしと声とが彼を深く突き動かしたのだと思います。主の声がマタイの魂の奥底にある飢え渇き、傷の痛みに触れ、それを癒した。マタイ同様、主は私たちの心の奥底にある飢え渇きを知っておられます。「あなたはどこにいるのか」(創世記3:8)。これはアダムの失われた魂の在処を「足音を立てて」探し求める神の声です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」とイエスさまは言われます。イエスさまこそ「魂の癒し人」です。「義人はいない、一人もいない」とパウロは言いますが、主の手当を不要とするような「丈夫な(健康な)人」は独りもいないのです。主は私たちの最も悲しんでいる部分、痛んでいる部分、苦しんでいる部分、病んでいる部分に手を伸ばして触れてくださる。そのことによって私たちを癒してくださるのです。イエスさまこそ私たちの「魂の医者」です。

苦難の中にあってキリストを信じ、神と呼吸を合わせ、神への讃美とキリストへの信頼を歌うことで希望を分かち合っていった人々と同じように、私たちもまた日々の生活の中で主イエスの「わたしに従ってきなさい」という呼びかけの声を聞き取り、それに答え、ただ神のあわれみ、恵みの賜物に寄り頼んで生きる者でありたいと思います。実は「マタイ・神の賜物」という名前は、私たち一人一人にイエスさまから贈り与えられている名前なのです。

お一人おひとりの上に主の恵みが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2008年6月29日 むさしのゴスペルクワイアによる特別讃美礼拝にて)

説教「そのままのあなたが」伊藤早奈

マタイ福音書 21:1-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

祈り

天の神さま、

今朝もこうして、私たち一人ひとりあなたに集められ共に礼拝ができることを感謝致します。ここに集められた一人ひとり様々な思いを持って今ここに集められています。悲しみの中にある人、悩みの中にある人、これから起こるであろう事に胸ふくらませ希望に満ちている人、様々です。しかし神様あなたはその一人一人の思いをご存じであり、大切に寄り添ってくださいます。今私たちは一人ひとりの心にある方々と共に、あなたに心を向け、み言葉に預かろうとしています。どうぞこの語る者を通し、ここにおられるお一人お一人に神さま、あなたがお語りください。この僕の全てをあなたにお委ねいたします。

この祈りを主のみ名によってお祈り致します。ア-メン。

桜の季節を迎えて

おはようございます。桜の木の花の蕾もふくらみ、一つ一つが神様に与えられる「咲く時」を待っています。同じように私たちも少しずつ暖かくなる日差しの中で、春が少しずつ近づいていることを感じます。

この4月から新しい生活が始まる方も少なくないと思います。希望や不安が入り交じったような、なんとも言葉にはできないくすぐったいような気持ちでいっぱいの方もおられるのではないでしょうか。自分が思っていた通りにはいかずに悔しい思いでいっぱいの方。一人ひとりが違う気持ちでこの季節を迎えています。しかし、私たちは教会の暦で枝の主日という主日を迎えています。主イエスが十字架の道へと歩まれることに心を向け、主イエスが私たち一人ひとりの罪のために歩まれた一足一足に心を向けるのです。

私たち一人ひとりの心は様々状態にあります。しかし神様から与えられるみ言葉は変わることはないのです。

2008年3月16日(日)の枝の主日を迎えた今日、与えられました聖書の箇所は主イエスのエルサレム入城が記されている箇所です。この聖書の箇所は主イエスの受難物語の始まりの記事です。どうして今、私たちにここが示されたのでしょうか?主イエスのエルサレム入城は今、私たち一人一人に何を語っているのでしょうか。

皆様とご一緒に、聖書に聴いていきたいと思います。

子ろばに乗ってのエルサレム入城

マタイ21:2.3において「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのがみつかる。それをほどいて、わたしのところに引いてきなさい。もし、だれかが何かを言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と主イエスは、弟子たちに言われます。

主イエスと弟子たちとの一行はエルサレムへと近付きます。そして、主イエスはエルサレムへ入城されるときに、子ろばを必要とされます。その時代、日常に使われていた子ろばを主は必要とされるのです。

そして主イエスは共につないである母ろばであろう、ろばと共に子ろばを必要とされます。その子ろばが一番安心して主イエスの元へと行かれるように親ろばと一緒なのです。

二人の弟子が、向こうの村に行くと主イエスが言われた通り、ろばと子ろばがつながれており、彼等は主イエスが言われた通りにして、ろばと子ろばを連れて来ます。主イエスのもとへと連れてきたとき、弟子たちは、子ろばに自分たちの着ていた服を掛け、その上に主イエスは乗られました。

道の上には、服や枝が敷かれ、人々は主イエスに祝福の言葉をかけます。栄光のメシアへの期待であり、賛美でした。しかし、主イエスにとってこの道は人々が期待する栄光の王への道ではなく、十字架へと続く道に他なりませんでした。

でも、主イエスご自身が見上げていたものは十字架という死の先にある命への道でした。

今、現在に生きる私たちに何が語られているのでしょうか。

主イエスは二人の弟子に言われました。私が必要とするのは、「子ろば」であると。この子ろばと日本語に訳されている言葉は子馬とも、動物の子どもとも訳すことができ、特定の動物に向けられた言葉ではないとも私たちは理解することができます。それは、私かもしれないし、あなたであるかもしれないのです。そしてその子ろばをただ1匹だけ親から引きさき子ろばが不安になるであろう状態にはされないのです。親と一緒に子ろばがただそのまま安心して主のご用に用いられるために。

そして主が必要とされるその子ろばとは、たくさんいるうちのどれでもいいのではなく、その子ろばなのです。

主は子ろばの状態をご存じであり、その子ろばだからこそエルサレム入城のときに必要とされるのです。

エルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道行き)

私はこの季節必ず思い出すことがあります。それは10年前にエルサレムの十字架への道を歩いたその時のことです。

私は皆様のうち何人かはテレビのドラマで観た方も少なくないと思いますが、『1リットルの涙』というドラマの主人公の女の子と同じ病気の脊髄小脳変性症という進行性の難病であることを14年前に診断されました。このままでは自分を見失ってしまいそうだと思い、それまで勤めていた会社を辞めてルーテル学院へ編入させて頂きました。その時は杖も車椅子も必要なく自分の足だけで歩行していました。

この季節に思い出すというイスラエルを旅行したのは入学した二年後でした。ルーテル学院の主催されたイタリア・イスラエルの旅でした。その旅行の時は右手には杖を持ち左手は母の肩に支えてもらいやっと自分の足で歩いていました。

始めの1週間はイタリア旅行でした。その旅行の数年前もイタリアの同じような観光名所を両手に荷物を持って走り回っていた自分が思い出されすごくみじめな気持ちでいっぱいでした。そんな気持ちのまま旅行はイスラエルへと進んでいきました。何日目だったでしょうか、ツアーは主イエスが歩かれたという十字架への道ドロローサを歩くことになり、冷たい雨の降る中の歩みでした。

旅行の団体に遅れながら杖と母の肩を持って歩きました。始めはあまりにも変わってしまった自分がみじめで、それでも歩かなければ皆に遅れてしまうという焦る気持ちでもいっぱいでした。十字架への道を歩き始めてどのくらいたったでしょうか。

フッと主イエスはこの道をどのような気持ちで歩かれたのだろうかと思ったのです。主イエスは、ご自分を裏切った人間への恨みでいっぱいの気持ちだったのでしょうか。やがて与えられる栄光への優越感だったのでしょうか。

違います。主イエスは神様へ心を向け祈りつつ歩まれたのです。

神さまへ祈る主イエスが痛みや悲しみを感じなかったわけではなく、痛みや悲しみはそのままでしたが今、ご自分が神さまに与えられている「時」を歩かれたのです。

主イエスへと心を向けられた瞬間はなぜだったのか私にはわかりません。ただ、その時に私が心に感じた主イエスの言葉は「そのままのあなたでいい、私について来れるか。」という言葉でした。

「あなたの余命は何年です。」と医者に宣告された方の生き方に私たちは教えられることがあります。主イエスも同じだったのではないでしょうか?十字架というこの世では終わりとされている死を前に、しかし余命の宣告を受けた方も十字架を目の前に歩まれる主イエスも限られた命を悲しむのではなく「与えられている今」を生かされていることを知り、今を精一杯生きる者とされたのではないでしょうか。

「与えられている今を生かされる」一人ひとりにとっては死は終わりではありません。いつくるかという不安でもありません。「今」というこの時の中を生かされているからです。

でも、いくら「そのままでいい」と言われてもそれが一番難しいかもしれません。ただそれも難しくはないのです。主イエスが歩まれたように一歩一歩を自分のペースで歩めばいいのです。

自分の足であっても杖であっても車椅子であっても。

主は今、私がどのような状態であるのか、ここで立ちすくむしいかできないでいる私をもご存じです。

しかし、主は言われます、「あなたが必要です」そのままのあなたがそのままで必要とされるのです。

これは、一人一人の人に同じように語られている言葉です。私たちは私たち一人一人の違った在り方で、そのまま主に必要とされているのです。

伝道の書3:1-8

口語訳聖書伝道の書3:1-8までお読み致します。

天(あま)が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時がsあり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むのに時があり、戦うに時があり、和らぐのに時がある。

私たち一人ひとりに「時」を与えてくださる主が言われます。
「今そのままのあなたが、私に必要です。」

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2008年3月16日 棕櫚主日礼拝説教。伊藤早奈牧師は現在、東教区嘱託牧師で東京老人ホームチャプレン。)

説教「その日、その時に備える」 大柴譲治牧師

マタイによる福音書 25:1-13

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「時間の神さま」

ギリシャの諺です。「時間の神さまは後ろ髪しかない。だから通り過ぎないとつかめない」。確かに時間というものは通り過ぎないとつかめないもののようです。時間が経って結果が出たところから私たちは過去を振り返ると、「あの時ああすればよかった。こうしなければよかった」という悔いが残ることがある。しかし、それは結果が出た時点から振り返ってみて初めて言えることであって、(まだ結果の出ていない)その時にはこれからどうなってゆくのか全く分からないのですから、精一杯考えて、祈るような気持ちの中で決断し、よかれと思ってやるしかないのです。

もっとも、ギリシャにはもう一つ別の諺もあるそうです。「チャンスの神さまは前髪しかない。通り過ぎたらつかめない」。どちらもなるほどと思わされます。時間というものは通り過ぎても通り過ぎなくても把捉することの難しいものではないか。「一期一会」という茶の湯の言葉にあるように、今というこの時を悔いのないように大切に過ごす以外にはないのだと、そのように思われます。

「その日、その時に備える」

本日の福音書の日課にはイエスさまによって一つのたとえが語られています。「十人のおとめ」のたとえです。

ユダヤ教では結婚式は夜行われたようです。映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』の中にも、夜の闇の中に結婚式の行列の先頭に花婿が立って花嫁のところを訪ねる場面が描かれていました。そのような花婿の行列が遅れたのです。賢明な5人はともしびを長時間灯し続けることができるように予備の油を備えていたために花婿の到着が遅れても大丈夫でした。しかし、愚かな5人は準備ができていなかったために肝心な時を逃してしまった。要点は13節の「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という言葉にあります。いつその時が来るか分からない。だからいつその時が来てもよいように準備を整えておきなさいというのです。

「目を覚ましている」とは「眠らない」ということとは違うでしょう。賢いおとめたちも眠りながら待っていたのですから。それは、起きている時にも寝ている時にも、常にその日その時に備えて準備をしておくということが大切だという意味でありましょう。人間にはしかしその日、その時がいつ来るのか予めは分かりません。「時間の神さまには後ろ髪しかない」というギリシャのことわざの通りです。しかし、いつその日、その時が来ても良いように、普段から準備をしておくということが大切なのです。

「一期一会」「脚下照顧」

私自身にとっては、昨夏三ヶ月、米国カリフォルニア州サンディエゴのホスピスでの研修を通してこれまで以上に明確になったことがあります。それは、報告会でもお話したことですが、最初にも少し触れましたが、死に備えるということで「一期一会の今を大切にする」ということです。

「一期一会」とは茶の湯の言葉で、皆さんご承知の通りです。「目の前に座っている客人との出会いは生涯にただ一度限りのものかもしれない。だから悔いのないように心をこめてもてなせ」という意味の言葉です。英語では”One moment, one encounter”ですが、意訳するとこうなります。”Treasure every moment, for it will never recur.”「瞬間瞬間を宝物のようにせよ。なぜならそれは二度と戻ってこないのだから。」 いい言葉ですね。

イエス・キリストを信じる信仰の立場から言えば、一期一会というところにはさらに深い意味が出てくるのだと思います。禅の言葉には「脚下照顧」という言葉があります。「自分自身の足もとを照らして省みよ」という意味の言葉です。どこか遠いところに幸せの青い鳥を探すのではなく、自分自身に与えられているものの中に、極めて身近なところに青い鳥は既に与えられているのです。あたりまえだと思っていることが実はあたりまえではなく、大きな恵みであるということに気づかされるのです。

キリストが再臨する「その日、その時」とはいつのことか。私は、それは「今、この瞬間」のことを抜きにしてはないのだと思います。今、この一瞬一瞬こそが終わりの時であり、灯火を灯して、花婿キリストを迎えるべき時なのです。パウロもこう語っています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:1-2)。

主イエス・キリストと出会うということ、キリストに捉えられるということは、今、この時が、恵みの時であり、今日が神の救いの日であることを知るということです。

「光の体験」

先週の前半、三ヶ月の耐震補強工事が終わって、ホッとしたのだと思います。緊張が解除されて疲れが出たのでしょう。身体が重く、何もしたくなくなるというような日々が続きました。毛細血管が少し切れたようで、ある日右目に飛蚊症が出たために眼科に行って検査をしてもらいました。5年半前の網膜剥離の体験が再現されるのかと一瞬焦りましたが、「大丈夫です。穴は空いていません。おそらく疲れが出たのでしょう」とお医者さんに言われてホッとしました。

眼底検査を経験された方はお分かりになると思いますが、目薬を差されてしばらくすると、すべては輝いてくるのです。瞳孔が開くためです。まぶしくて目を開けていられなくなります。その時に私はハッと気づかされました。柳田邦夫が「光の体験」と呼ぶ、ガンの告知を受けた人などがすべてが輝いて見えるという体験は、実は瞳孔が開くことだと分かったのです。

例えばガンのため32歳で生涯を閉じられた青年医師・井村和清さんは、再発(肺への転移)を告知された時のことをこう書いていました。「その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いてみえる。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほどに尊くみえました。」(『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』)

この「光の体験」とは瞳孔が開くということなのです。調べてみますと、瞳孔は自律神経の影響により大きさが変わることがわかっています。心拍数や脈拍があがるなど体が「興奮する」状態になる時、交感神経が活性化されて、瞳孔が大きくなるということです。たとえば、ネコが獲物に飛びつくときに脳が興奮し、瞳孔が自律的(意志的でなく)に大きくなったり、赤ちゃんが自分のお母さんを見たときにも瞳孔が開くのだそうです。

恵みの光の中で

では、井村和清さんがガンの再発の告知を受けた時にすべてが輝いて見えたということは、再発を知ったショックで交感神経が活性化し、瞳孔が開いたと説明されるべきなのか。そうかもしれません。しかし私はそれだけではないと思います。彼は医者でしたから冷静に自分の状態が分かっていた。来るものが来たという静かな気持ちで受け止めたのだと思います。驚きのために瞳孔が開いたのではない。彼は若い頃に教会に通って洗礼を受けています。キリストと出会った人は、自分が静かな恵みの光に包まれているということを知るのだと思います。井村医師はすべてを失ったと感じた時、自分を照らす神の恵みの光に気づかされたのです。

私たちが神さまによって生かされているということを感じる時、人生が文字通り神秘に充ちていて wonder-full(驚きが一杯)であるということに気づく時、生かされているということのかけがえのなさ、不思議さに涙こぼれるような思いにさせられる。そこから、私たちの交感神経が刺激を受けて自律的に瞳孔が開き、すべての生活の場面が平安と感謝の中で輝くのではないか。私にはそう思えてならないのです。

実は、その日、その時に備える、終わりの日に備えるというのは、私たちの人生の一瞬一瞬に注がれている永遠からの祝福を認めるということでありましょう。信仰とは、ヘブル書11:1が言うように、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」なのです。自分がそのような光の中に置かれていること、その事実に気づくことが油を準備して待つということなのではないか。私にはそう思われてならない。そのような光が私たちの人生を包んでいることを深く味わいたいと思います。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」! そのような歩みの日々をご一緒に新しい一週間も重ねてまいりましょう。

お一人お一人の上に豐かな祝福がありますようにお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年11月13日 聖霊降臨後第26主日礼拝)

説教 「友よ」 大柴譲治牧師

マタイによる福音書 20:1-16

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

ブドウ園のたとえ

本日の福音書の日課にはイエスさまの「ブドウ園の労働者のたとえ」です。これはよく知られたたとえで、1時間働いた者も12時間働いた者も等しく1デナリオン、つまり一日分の給与を主人から与えられているという話で、賃金を費やした労働時間や達成した業績から測ろうとする資本主義経済構造そのものを危機に陥れるような危険な話でもあります。

ですから私たちは、早朝から汗水流して働いた者たちの不平を言いたくなる気持ちとその言い分とがよく分かります。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」誰もが彼らの言葉をもっともだと思うのです。

しかし、イエスさまのたとえ話はいつも私たちに、「あなたはどの立場からものを見ているのか」と鋭く問うてくるのだと思います。健康な者、12時間働きづめに働く体力を持った強健な者の立場から読むと、彼らの不平不満がよく分かるのですが、もし声無き者たちの立場に自分を置いてみた場合にはどう感じるでしょうか。

夕方5時に雇われた労働者たち、彼らもおそらく、朝から仕事を求めてずっとあちらこちらの広場を渡り歩いていたに違いありません。しかし仕事を見出すことはできなかった。力が弱そうに見えたかもしれませんし、動作が遅く機転が利かなかったのかもしれません。仕事をしたい気持ちはあってもなかなか雇ってもらえなかったのでしょう。彼らはどうやって家に帰ろうかと思いながら、空しく5時まで広場に立ち尽くしていたのです。

6-7節に描かれた情景から彼らの思いがよく伝わってきます。「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」この主人の言葉をもらった時、彼らはどれほど嬉しかったことでしょうか。家には家族がお腹を空かせて待っているかもしれない。年老いた両親が寢た切りの生活をしているのを妻が看病しているのかもしれない。その背後には様々な人生が感じられます。

映画『シンデレラマン』

先日久しぶりに妻と映画を観に行きました。『シンデレラマン』というボクサーが主人公の映画です。時は1929年の大恐慌の後の失業者たちがあぶれていた時代、米国で実際にあった物語の映画化でした。飢える家族のために、子どもたちと一つの屋根の下で生活するために、主人公はボクシングにカムバックするのです。題名通りにシンデレラのように成功者に登りつめてゆくことになるわけですが、ラッセル・クロウという俳優が貧しい中にも家族を愛するために必死になって生きる主人公を演じてなかなかよい味を出していました。

その中のいくつかの場面に日雇い労働者を雇う場面が出てきます。門の柵の向こうから群がる男達の中から10人を選ぶ場面です。できるだけ若く屈強そうに仕事ができるように見せることが大切なのです。右手を骨折していることを隠しながら現場監督の前で必死に働く姿は切実でした。借金が重なってもうミルクを買うお金もなく、やがてはアパートの電気も切られてしまうのです。子供は風邪を引いても医者にもゆけないし、薬も買えない。大変な苦労です。ここにお集まりの皆さんの何人もが、敗戦後の日本の焼土の中から同じような苦労をして齒を食いしばって悔し涙をこらえながら頑張ってこられたのだと思います。

映画のワンシーンで借金を返してもう一度部屋に暖房のための電気を取り戻すために、そうでないと子どもたちに約束をしたように家族皆で一緒に住むことができないので、昔のボクシングの上司たちに頭を下げてどうかお金を恵んで欲しいと頼む場面などは私も心が震えました。朝から夕方の5時まで立ち尽くした人の気持ちはおそらくそのような思いであったように思います。

主人の深い憐れみ

しかしそのように、声を発することなく立ち尽くしていた失業者たちを、主人ははらわたが痛むほど深く憐れに思われたに違いありません。最後に来た1時間しか働かなかった労働者たちにも同じように1デナリオン、つまり一日分の給料を与えたブドウ園の主人。それを見て不公平だと不満をぶつけた朝から働いた労働者に対して主人はこう言います。「『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(13-14節)。

主人の深いあわれみの心にふれた人々たちはどれほど深く心を揺さぶられたことでしょうか。これが毎日続くと人間は次第に堕落してゆくのかもしれません。皆が5時に広場に集まるようになってしまうかもしれません。しかしこのたとえが一番言いたいことは何かということから話を逸らさないようにしたいと思います。このたとえ話の中心は、ブドウ園の主人の弱い立場に置かれた人々に対する深い共感(憐れみ)と愛、そして援助という点にあります。

これは私たちに大きな驚きを与えるイエスさまのたとえの一つだと思います。イエスさまのたとえはいつもそうなのですが、私たちの心の琴線に触れてきます。それはどれほどブドウ園の主人である神さまが私たち人間一人ひとりの存在を大切に思っているかということを表しているからです。どれほど無力で惨めであっても、働くことができなくても、病弱であっても、寝たきりであっても、人生に失敗ばかりしていても、あるいは人間関係に苦しんでばかりいても、たとえ空しく一日中立ち尽くす以外にはできないような状況にあったとしても、神さまは等しく私たち一人ひとりを、ご自身の深いあわれみのゆえに、その空しさの中から探し出し、見出してくださる、救い出してくださり、神さまのブドウ園の中に置いてくださるのだということを私たちはこのたとえの中に読み取ることができるのだと思います。

Doingの次元ではなく、Being、存在そのものの次元で、神さまは私たちを愛してくださっているのだということをイエスさまはこのたとえで私たちに教えておられるのだと思います。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)という言葉が最後に置かれていますが、それは一番最後になった者、最も小さき者、最も弱い者、最も貧しい者、最も苦しんでいる者に対する神さまの優先的な選びがあるのだと語られているようです。これに対して人間は不平を言うことはできない。それは、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)と言われているように主権者である神の自由に属する事柄なのでしょう。能力の高さや業績の量や体力の強さや知恵や知識の深さや、ましてや若さなどではなく、私たちには生命の重みという次元において等しく神さまから恵みとしての一デナリオンを与えられているということだと思われます。

一デナリオンは労働者一日分の賃金と言いました。一家族が一日生活できるお金です。「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と主の祈りでは祈りますが、かつてイスラエルの民が荒野において天からのマナ(日ごとの糧)によって生かされたように、私たちは神の恵みによって日ごとに生きる、生かされるのです。ここでの一デナリオンとは神さまの無償の恵みを表しています。それは自分の努力で獲得したものではありません。当たり前のものでもないのです。それに値するものが私たちの中にあるからでもありません。神さまからの絶対的に無条件の恩寵なのです。溢れる恵みなのです。それに気づく時に私たちは、神さまの恵みの光の中で一人ひとりが「シンデレラマン」であることを知るのだと思います。

旧約聖書のイザヤ書の日課が預言していた通りです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8-9)。

友よ

もう一点、本日の説教題にも選ばせていただいた言葉ですが、ブドウ園の主人が「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と不平不満を陳べる労働者たちに対して「友よ」と呼びかけていることに注意しておきたいと思います。

「友よ」というのは相手に対して何らかのつながりを前提として、丁寧に、対等な立場で呼びかける言葉です。「仲間よ」と訳している人もいます。それは上下関係ではないし、強い弱いの関係でもないし、優劣の関係でもないのです。彼らが同じ労働者に対して「この連中と同じ扱いにするとは」と見下した言い方をしているのと対照的です。ブドウ園の主人であるお方が、私たちそのブドウ園の働き人である人間に対して、しかも神さまに向かって不平不満ばかりを向ける人間に対して、「友よ」と呼びかけてくださるとは!

これは本当に、私たちの思いもよらぬ不思議な関係であり、もったいない関係であろうと思います。映画の中でシンデレラマンは家族の絆、友情の絆の重要さをどこまでも大切にしていましたが、このお方の「友よ」という呼びかけの重さに気づいた者は幸いであります。私たちがどのような状況にある時にも、向こう側から「友よ」と呼びかけてくださるお方がいる!

独り子を賜るほどにこの世を愛してくださったお方の「友よ」という呼びかけの声をかみしめながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してゆきたいと思います。

ここにお集まりのお一人おひとりの上に神さまの恵みが豐かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年10月9日 聖霊降臨後第21主日礼拝)