天使の梯子

編集後記 「流れに身を任せて」 秋田 淳子

私が大学生のときのことです。自分は卒業後に具体的に何をしたいのかと真剣に考えるようになり、少し焦りを感じ始めていた頃でもありました。

そんなある日、私が電車に乗ると隣りで小学生4~5年生位の女の子に、そのお母さんが次の様に話していました。

「自分が流されないように必死になってその流れに逆らわずに生きていこうとすることって、とてもエネルギーが要ることなの。また、流れに自然に身を任せていくことも間違った生き方ではなくて、そこでも多くのことを経験できるのよ」

私は驚きました。その時の私は、将来のことを色々と考えながら自分の考えや生き方が周りの人や物事に流されない様、とっても神経質になっていたので、そのお母さんの言葉は、まさにそんな私の思いに届けられたものだったからです。

そして、『神様は後ろから前から私を囲み、私の上にみ手を置かれ、私をとこしえに正しき道に導かれます』という聖書の言葉とも出会った瞬間、張り詰めていた私の全身がフッと弛み、将来がとっても広々と見えてきたのでした。

(2000年 2月)

編集後記 「春の予感」 秋田 淳子

厳しい冷え込み。大雪の真白な世界。

11年前に私の父は他界しました。父が使っていた物、遺した物などをようやく今、ゆっくりと手にとって見ることができるようになりました。それまでに、10 年の歳月が必要でした。過ぎてしまえばあっと言う間ですが、やはり10年は長い時間の流れです。

父が検査入院してから亡くなるまでの約1ヶ月間の父の様子の変化、緊迫した日々の中での家族の心模様などが、冬の季節を迎える度によみがえってきます。

しかし、その様な中で家族にとって大きな慰めとなったのは、父が自らの意志で病床洗礼を受けたことでした。この時与えられた心の中の平安は、ほんのりと雪の中に見える春の予感に似ています。

神様のなさるひとつひとつに隠された意味は、時の流れと共に私たちの経験の深さによって、はっきりとしてきます。たとえ悲しみや不安という形であってもそこには次の季節に向けて喜びや希望がすでに芽吹いているのです。

(2001年 2月)

編集後記 「クリスマスカード」 秋田 淳子

幼いときに通っていた小さな教会では、毎年クリスマスになるとつぎつぎと外国から届くクリスマスカードを、居間の壁に貼って飾っていました。それまで見たことのなかったクリスマスの色やデザイン。横文字のメッセージに手書きのサイン。そして、カードからほのかに伝わってくる私の知らない遠い国の匂い…。

外国からのクリスマスカードは、私の中に何かあたたかくキラキラしたものを残してくれました。そして、クリスマスが世界中にとって美しい出来事なのかな、と私が意識した初めでもあります。

クリスマスは、いつもどこかほのかに眩い想いを私たちにもたらしてくれます。それは、もしかしたら冬の寒く暗い夜に3人の博士達が、また、羊飼い達が飼い葉桶で光に包まれて眠っていらっしゃるイエスさまとの出逢いで感じた喜びが、私たちの中に何か自分の記憶となって刻まれているからなのかもしれません。

この世の罪から私たちを救うためにお生まれになったイエスさま……それは、神様から私たちへ届けられた、何よりもうれしいクリスマスカードなのです。

(1999年12月)

編集後記 「かがやき」 秋田 淳子

今回、教会員の方のご趣味やお仕事の展示会を拝見する機会をいただきました。お一人は染め物、お一人は七宝、お一人はフラワーアレンジメントと別の内容の展示会だったのですが、同じ日にそれぞれの会場に伺うことができました。

普段、日曜日にお会いしている時とは異なる、教会員の方々のお姿やまたその目を見張る作品を間近にして私が感じたことは、ひとつの事柄を時間をかけて追い求めていくその姿の美しさと、また、それによって完成された作品が持つ深い奥行きでした。

自分自身が歩んできた年数や過ごしてきた時間から食事や睡眠などのあらゆる必要不可欠な時間を全て引き算すると、本当に自分だけのものとして与えられていた時間は、ほんの僅かしかありません。そして、これからも僅かしかないのかと思うと、いかに自分を表現していくかが何よりも大切なこととなってきます。

神様から与えられているこの人生を、私らしく私だけの言葉を綴って輝いていたい…。神様の光を受けて、輝いていたいと思うのです。

(1999年11月)

編集後記 「シンクロニシティー(同時性)」 秋田 淳子

ラジオをつけながら車を運転していてふと「明日、もしお天気だったらお布団を干したいなぁ」と頭の中でぼんやりと考えていたら「~それではCMに続いて全国のお天気をお知らせいたします」とラジオのトーク番組から同じお天気という言葉が同時に重なるようにして流れてきた。また、ある時などは新聞を読んでいて目に入ってきた文字と全く同じ言葉が、つけっぱなしのテレビから同じ瞬間に流れてきたこともあった。

この様に、同じ言葉が、それも同時に自分のもとに発生する偶然をよく経験する。地球上の何億人の中のたった一人の世界でこういうことが起こるということは、他の人も私と同じことを体験しているのでしょう。だとしたら、また、私と同時に同じ行動をとっていたり、同時に同じセリフを話している人も、別のあらゆる場所に大勢いるに違いない。

私が喜びの歓声をあげているときに、私が悲しみの涙を流しているときに、同じ体験をしている人々がいると考えると実のところ、私はたった独りじゃないという支えがこの地球上にはいっぱいあるということなのです。

(99年10月)

編集後記 「人の響き」 秋田 淳子

人の身体を観ることの出来るある人がこう記しています。「世界で一番という演奏家の身体を観ていくと、背骨の一つ一つに音が伝わって響いて動いているのが分かる。実は、その人が弾いている楽器が鳴っているのではなくて、その人自身が鳴っているのである。下手な人の背骨を観てみると、実のところ、全く響いていない…」と。

それは、言いかえれば楽器を演奏する技術的なことよりも、その人の奏でる音の中にその人の歩んできた人生の深さ、その人の人間としての奥行き、その人の曲への果てしない想いなどあらゆる全てのものが表れてくるかどうかということなのだと思います。そうして響いてきた音こそ、本物なのです。

不思議なことに人の中にあるものは、正直な形で外に表れてくるものです。

年令を重ねるとともに、私の口から出る祈りの言葉も、そして、賛美の歌声も私自身の内から響いてくるものとなって欲しい、本当のものであって欲しい…、そう願わずにはいられないのです。

(99年 9月)

編集後記 「傘がない」 秋田 淳子

礼拝後、車で教会を出た私は吉祥寺に来たところで教会に傘を忘れてきたのを思い出しました。「今度でもいいわ…」と思ったのですが、気に入っている傘だけにそれを気にしながらまだ続く家路を運転するのも不安になって「エイィッ」と私は方向転換をしました。しかし、日曜日の交通渋滞とあって、教会までの道のりにはだいぶ時間がかかりそうです。思わず「こうまでして、何も傘一本のために……」と溜息をつきながらも、私は教会へと向かっていきました。

そして、どうにかやっと教会への路地を入っていった所で、ある教会員の方とすれ違いました。実は、さっき私は彼女からの挨拶にちゃんと応えないまま教会を出てきていたので、気になっていたのです。だから、思いっ切りの笑顔で私は彼女に「さよなら」を伝えました。

教会へ戻ってまで取りにいきたかった本当のものは、傘ではなく彼女との関わりだったのでしょう。全てのことに時があるように、ちゃんと意味もあるのです。

(99年 7月)

編集後記 「気分はハマナス色」 秋田 淳子

最近、美容院でヘアーカラーを楽しんでいます。今回「トップに少し明るめの色を混ぜると、見た目にも軽くなりますよ」と勧められたので「じゃあ、お願いね!」と私。そのときの私の髪は、全体的に濃いブラウンだったので、明るめのブラウンを入れてくれるのだと思ったのです。

カラー、シャンプーと済んだ時点では、まだ濡れていて判らなかったのですが、髪を乾かしていくうちに鏡に見えてきたのはピンクの混ざった髪の私でした。「これって、ピンク?」と言う私に「いいえ、ハマナス色です!」と嬉しそうに美容師さん。「あぁ、何故、頭に今ハマナス色が!」と私の心の中は、ムンクの『叫び』状態…。しかし、鏡の前から離れてしまえば髪の色のことなど全く忘れてしまい、なぜか気分はハマナス色で楽しい!!のです。

何かそのことで自分の気持ちが弾まされ、そんな自分を見た人達もプラスの気持ちを受ける。それはファッションや言葉であったり色々ある中で、何よりもその人らしい色の信仰が輝けば何よりも嬉しい。

編集後記 「神さまとのE-メイル」 秋田 淳子

私が“アメリカのお姉さん”と慕ってるアメリカ人の友人に、いつもは手紙を航空便で送っているところを、先日、初めてFAXで送ってみました。すると、「海外からFAXを受け取るのは初めてだったので、『私の日本の妹からのこのFAXを見て見て!』と職場の仲間にも見せびらかすほど嬉しかったです。でも、もしあなたがパソコンのメイルアドレスを持っているのなら、これからは、E-メイルを交換しましょう。FAXよりも手軽で瞬時に気持ちのやり取りが出来るから!」との返事がFAXで届きました。

ところが、それを強く必要とは感じていなかった私は、まだ、メイルアドレスを持っていません。しかし、海外の友人の今回のこの言葉にアドレスを持つことにしました。

どんなに想ってても、神様への祈りも手紙に書こうとすると送るまでに時間がかかります。でも、私と神様の間でE-メイルを交換すれば、すぐに届きます。

遠くても、瞬時に言葉が届き想いが伝わることの喜びを、ずっと、ずっと実感していたいから…。

編集後記 「レント・リリー」 秋田 淳子

園芸植物の勉強をしていた短大時代、生き物をお世話する必要から、全生徒が学校の寮に入っていました。各学年からそれぞれ二人ずつの四人が一組となって、一緒の部屋で生活していました。

そして、毎年冬が始まる頃に1年生がお部屋の2年生の為に黄色いラッパ水仙の球根を鉢で育て始めます。3月になると、どこの部屋からも優しい香りがしてきます。そして、卒業式当日の朝にこの黄色いラッパ水仙の花をコサージにして2年生の胸に飾ってあげる…のです。

イースターの季節に花開くこの花は、「四旬節の花(レント・リリー)」とも言われています。

私たちの重い罪を背負われ、イバラの刺と釘の傷の痛みを負われたイエス様がその三日後に暗い墓から出て来られた朝、そこは春の草花で別世界のように明るくまぶしかったことでしょう。

新しい命が誕生するこの季節にイエス様が復活されたことは、それだけに喜ばしく力あふれることなのです。

編集後記 「天空飛翔」 秋田 淳子

かつて、こんな夢を見ました。

太陽が西の空に傾き始めて、その日が終わろうとしている穏やかな夕方のひとときのことです。赤く橙色に染まった空のなかを、私は両手をいっぱいに拡げて自由に飛んでいるのです。太陽が少しづつ山に沈んでいく動きや、家路に向かう人々が歩いている様子すべてが幸せでした。思うままに飛び続けている私は夢の中でも風の流れを体いっぱいに感じて、空を飛ぶことが自分をこんなにも楽しく包んでくれることを実感したのです。

それから何年かが過ぎた昨年、映画『タイタニック』を観ました。船の甲板で、主人公の女性が広大な海に向かって両手を拡げるシーンは、状況は異なるけれども夢の中で空を飛んでいた自分の感触と重なって涙が出てきました。

何の不安もなく恐れもなく、ただただやさしく穏やかな空気に包まれていたいのです。神様につつまれている感触を、もっと深く感じていたいのです。

編集後記 「春の明るさ」 秋田 淳子

私の通っている美容院にいつも明るく楽しく応対してくれるスタッフがいます。その人がシャンプーしてくれると、髪が生きいきと変わるのがわかります。きっと、その人から出るエネルギーが私にも伝わってくるからだと思います。

2月になって寒さの厳しい時季を迎えながらも、すでにどこかに春を感じます。前よりも、陽の光が明るく感じられます。そして、その明るさは元気な力を私たちの内にもたらしてくれます。それまで、抱えていた解決が困難と思えていた事柄やモヤモヤと心の内で悩んでいたことも不思議と軽くなってきます。寒い冬を越えて暖かい春を迎える喜びは、“光り”にあるのだと思います。その光を求めて今まさに土の中から、また深い眠りから多くの命が動きだそうとしています。

天地創造のときに神さまがまず初めに「光あれ」と言われたその瞬間、この世に誕生しようとその時を待っていた数え切れない多くの命にエネルギーが与えられ、そのエネルギーはいまを生きている私たちにまで繋がっているのです。

編集後記 「What Child Is This?」 秋田 淳子

学生時代からの友人が3人目の赤ちゃんを身籠もりました。その知らせを受けたとき、思わず「えっ、大変じゃない。大丈夫なの」と私は答えてしまったのです。それは、夫婦共働きですでに2人の子どもの育児に追われている彼女の姿を見ている私の率直な思いでした。そして彼女は「確かに大変なんだけど、でもね神様はちゃんと考えてくださっていると思うの。だからお祈りしていて欲しいんだ」と答えました。それに対して、私は「とにかく、おめでとう」と言うのが精一杯でした。

後日、車で移動中ことです。陽が沈み空の色が夜へと移り始めていました。そのとき聞いていたCDから『み使いうたいて(What child is this?)』が流れてきたのです。

神の子を身ごもったマリアでさえ、喜びよりもまず大きな不安を抱いていた。しかし、祝されて生まれるべき赤ちゃんがおなかに宿っている。それを思い浮かべたとき、マリアと友人の姿とが相重なり、私は泣いてしまいました。悲しかったからではなく、そこにある喜びが余りに美しく見えたからです。

編集後記 「からし種ひとつぶ」 秋田 淳子

礼拝の説教を聞いている時のことです。聖歌隊の席に座っている私からは、礼拝堂の天井から長く吊り下げられている電燈がよく見えます。それをジッと見つめながら説教を聞いていたのですが、ふと気がつくと私は心の中で「揺れろ~、揺れろ~」と念じていたのです。

「揺れろ~、揺れろ~、揺れるんだぁ」と、だんだん真剣になっていくうちにその想いが通じてか、一瞬、揺れた。確かに電燈が揺れたのです。「えっ、まさか!でも、もしかして私って超能力者?」と驚いて、気を落ち着かせてよくよく様子を確かめてみると……なぁんだ、電燈が揺れたのはエアコンからの空気の流れが原因していたようなのです。

「からし種一粒ほどの信仰があるなら、山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」マタイ17章20節
と、聖書には記されています。

山をも動かすことの出来ないこの私にはからし種一粒さえの大きさの信仰も育まれていない、ということになるのでしょう。まだまだ……です。

編集後記 「こころの色」 秋田 淳子

季節のうつり変わりとともに、太陽の光の射す角度も動いています。丁度、今朝の陽が家の玄関の窓ガラスの縁の細く カットされた部分をとおって、それが白い壁にユラユラと虹色の模様をつくっています。朝、起きたときにこの踊る小さな虹色が目に映るととてもワクワクした気持ちになります。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。大きく分けてこの七つの色からなる虹。そして、この七色を混ぜると“白”ができるのを小さいときに授業で教わりました。

私たち一人ひとりにも心の色があって、出会う人との間ごとでそれぞれが混ざり合ったらどんな色が生まれるかちょっと楽しみです。きっと、その人とのあいだでしか作れない色がいくつもいくつも出来ることでしょう。

私たちが心を一つにしてともに祈ったとき、私たちの間にどんな色が生まれることでしょう。そして、数え切れない色からなる虹が、神様とわたしたちの間にかかるのです。

編集後記 「クリスチャンミステイク」 秋田 淳子

教会の方々と団欒してたときに、礼拝堂のステンドグラスのことが話題に出ました。すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、羊を抱いているイエス様の絵の部分を除いての全体のデザインは全て左右対称なのですが、よく見てみると鉄枠が交差している部分の丸い装飾の内の一箇所だけが、実は左右対称ではありません。これが、単なる製作上の誤りなのか意図的な考えによるものなのか、と意見が分れました。私は、ぱっと見て明らかに判るこの違いは、後者によると考えています。

かつて、テレビで刺繍の手芸番組を見ていたときに、先生が最後の一針の目をわざととばして縫ったのです。これについて「これをクリスチャンミステイクと言って、神の前にあって人間は完全ではないと言う聖書の考えから、わざと完成させない技法です」との説明でした。

祈った結果…たとえ物事を失敗しても、神様はそれは受け入れてくださいます。しかし、くれぐれも仕事上でのミスを“クリスチャンミステイク!”な~んて言わないようにね。

編集後記 「離岸流」 秋田 淳子

砂浜に押し寄せられた波が沖に戻るとき、ある場所に生じる一気に沖に戻ろうとする勢いのある波を離岸流と言います。この波の流れにはまると、いくら泳ぎの上手な人でも、どんどん沖へと流されて行ってしまうのです。

そうなった場合、とにかく慌てないでその離岸流に自分の体をまかせるか、あるいはその流れに逆らわずにちょっと横に出れば良いのです。前者の場合、沖に戻るまでの間に流れが穏やかになる為で、後者の場合は、その流れが普通の静かな波と波に挟まれているからです。

何か思いもかけなかった出来事に遭遇したとき、パニックに陥ってしまって、より悪い方向や結果に進んでいってしまうことがあります。しかし、自分は今どういう状況に立たされているか、そして、どういう状況に戻りたいかを落ち着いて考えてみれば、そこから逃れる道は意外と簡単に見つかるのかもしれません。

神様は、いろんな波を私たちに寄せています。でも、祈っていれば、プカプカと戯れることもサーフィンで思いっきり楽しんだりできる波です。

編集後記 「夏の匂い」 秋田 淳子

わが家の裏は持ち主はいるのですが、まだ空いたままの状態の土地です。ある晴れた日の朝、生い茂った草木を刈りに業者がやってきました。開け放しておいたお風呂場の窓からは、ガガガガッーという草刈り機のうるさい音が…しかし、それと一緒に流れるように入ってきたのは、深いみどり色した若くみずみずしい夏の匂いでした。それは家中に広がって、その日はそのかおりの中でずうっと過ごすこととなりました。

そして、私の中で幾度となく、小さかったころに外でよく遊んでた時の様子が、フラッシュバックされたのです。

青空ノ下デ夢中ニ遊ンデタアノ頃、
ススキノ茂ル中デ見タ草ヤ虫タチ

身の辺りのすべてが面白くて楽しくて。それが、記憶の中にずっと新鮮に残っているのです。

神様から吹き入れていただいた息吹き、この私たちのいちばん最初の記憶の香り…をずっと覚えていたいのです。

編集後記 「私たち自身の色」 秋田 淳子

まずはじめに、私は元気です!

京都の染めの工房で、草木染めの体験をしてきました。紀州の梅の木の皮からとった染料で、小さなハンカチを染めました。ハンカチの布に付着した糊をお湯で完全に落としてから染料に漬け、そのあと媒染剤に浸します。

繊維に染料を染着させ、色を落ちにくくし、色をだす働きをするのが媒染剤で、その多くは金属からなります。同じ染料でも媒染剤によって、さいご繊維に現れてくる色はちがってくるのです。

錫に浸した私のハンカチは、白茶色。
鉄に浸した部分は、銀鼠色。

私たちもなんだか良く似ています。まず、心の中の余分なものを完全になくしてからみ言葉を聞いたり賛美したり・・・でも、それだけではすぐに忘れてしまいます。神さまとの出会い、神さまの業の働きによってみ言葉も賛美も、心にしっかりと染みこんでいくのです。

そして、最後に私たち自身に現れる色は、私たちの生き方の数だけいろんな色があります。

編集後記 「かなしみ」 秋田 淳子

郵便局から出てきたところ、向こうから小学生の男の子が数人歩いて来るのが見えました。瞬間、「どこかに隠れよう」と思ったのですが、「何も隠れる必要なんか無いじゃない」という思いに奮い立たされて、私は彼等の前で自分の車に乗り込みました。案の定、彼等はこちらを指指して笑っています。

今に始まった事ではありませんが、最近、こういうことがとても煩わしく感じられてなりません。心の中では「いいじゃない、どんな人がいたって。いちいち笑ったり、不思議そうに反応しないでよ!」と声にならない文句が・・・。そして、エンジンを駆けた私は少しでも傷つくのを恐れて「私は、車の運転が出来るのよ。見てごらんなさい」という思いを込めてアクセルを強く踏んで、その場から走り出しました。

今までの私なら「勝手にさせておけばいいわ」とすぐ気持ちの切り替えができたのですが、最近は数日間尾を引くことがあります。何をもってこの状況を乗り越えればいいのか、分からなくなることがあります。